無くても生活には困らないのは当然。しかし、欲求不満になる。好みの感覚を味わいたい・・・という欲望は個人の人格そのものにさえ見える。
好みのアートでなければ、その時その人にとっては必要無い・・・ということでもある。
芸術が無ければ結局自分一人の価値観で生きることにしか成らない。
芸術によっていろいろな価値観を持てるようになり、また他の価値観を認められるようになるのだと思う。
1から10まで自家発電で想像力を働かせるなんて言う機能は人間にはないと思う。それを手助けしてくれるのが芸術ではないでしょうか?
↓を芸術と言っていいのかよく分かりませんが何かを訴えかけてくると言う意味において芸術かなと思います。(だから小説、ゲーム、漫画だって芸術になりうる)
説得力のある意見をありがとうございます。
「芸術」っていう言葉が現代の私たちにとって古典的なイメージを連想させている
気がしますね。
深い意見をありがとうございます。
僕はたまに絵を描くんですが、その絵に自分の希望や夢を知らぬ間に託していたりします。芸術はなくても生きていけるでしょう。でも、なかったら、自分の心を支えてくれている柱が一本なくなったような感覚になってしまうと思います。自分の心の支えとして芸術は必要だと考えます。
生活するうえで知らない間に蓄積されてゆく小さなストレスやフラストレーションなどを、他人に損害や迷惑を与えることなく合理的に解消できるのが、小説であり、映画であり、音楽であり、美しい絵画や写真であります。
ほかにも温泉とか運動とかアルコールとか、いろいろありますけど。
でもアートでしか解決できない部分というのも確かにありますので、生きるうえで、というより、毎日の生活を恙無く平和的にこなしてゆくうえで必要になってくる感じです。
そのような気分転換の手段としてではなく、芸術が目的そのものとなっているというようなケースは、わたし個人の生活の中ではほとんどないと思います。
中2で太宰治の小説を読んだときは「わたしはこの本を読むために生まれてきたんだ」と思いましたが、まあ中2病でしょう。きっと。
芸術は感性に訴えかけるものなのに素人の私にとっていわゆる「芸術」はとても理性的です。
たまに解説している人がいるけど本当に「?」です。説明が必要な作品に何の意味があるんだろう。
よって繰り返しになりますが理由が分からなくても私の心の琴線に触れるものが芸術です。
(私と価値観が同じという意味ではない)
芸術で価値観を相互認識・共有・交換、ってのはナルホド納得(良い考えサンクス)。
わけワカラン芸術ってのは、価値観が細分化していった先の果て、って感じかね。
(私レベルだと、ピカソが消えるより、夕焼けの風景が消える方が、よっぽどツライけど)
芸術・アート(文化)は必要でしょうね。
もし必要がないのなら、人間という種はなくなってもかまわないと
思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A...
私は必要だと思います。
というより、生活と芸術は切り離せないものだと思います。↑彼が言ったように、芸術は生活の中にあるからです。
情報提供ありがとうございます!
彼が「芸術は生活の中にある」と言っている本があれば、
その本の名前などを教えていただけますか?
よろしくお願いします!
生きる意味を携える根本が、芸術・アート。
実学だけの人生では、生きる喜びや幸せを体感できません。
(食べて暮らしていくだけだったら動物と同じという意味で。)
人間が人間である意味が、芸術の根本では。
(40代女)
20代、必要かと思います。
おそらく質問の意図と多少ずれているかもしれませんが…
芸術性といってもいろいろな形があると思うんですよね。たとえば機能美などを追及して作り上げた物も芸術だと思いますしね。そうゆう大きな意味で考えると、衣食住全ての発展に大きく関わってくるものだと思っています。かつ、芸術性を追求していくためには芸術やアートのようなものが必要になってくると言う認識でいるわけです。
上記は難しく考えてみた結果です。単純に「心豊かに生きるため」「日々の生活でいろんなものを感じられる心を育てるため」に必要だとも思っています。難しい芸術論はわかりませんが、芸術・アートがないなんてつまらない。そう思います。
まず芸術ありき。そして人間がいる、という感じ。
この世界こそが芸術であって、現に私たちはその中で生きているじゃないか!と。
30代。
芸術に触れる場面がそんなにない。
街中で見かけるものはあるけれど、美術館へいくわけでもなく、
絵を買うわけでもなく
全くなかったらさびしいけど、今みたく沢山はいらない
20代 女性
昔、人が考えたことを表すには歩いていって言葉や動作で言うか、粘土をこねたり岩に絵や彫刻を施すことしかなかった。
今はインターネットもDVDもあって媒体はひろがりましたが、2ちゃんねるとか見ていると自然発生のAA(アスキー「アート」)や鉛筆彫刻のネタなど人の心を動かしたい、自分自身を人に伝えたいというのはどうしても本能の根本にあるようです。私自身もやっぱり自分を表現する場や手段が自分の生活を維持するためにも必要だと思います。
芸術のうち油絵、日本画、イラスト、彫刻などに分類して芸大で教えられるものに限定するなら、モチーフも衝動もないのに中世の技術レベルに制限するのは無駄であって、あまり生き生きしたアートではない点も目立ちますが、それでもその中には現代に需要のあるなにかを描ける人もいるし、自分はこれを伝えたいという確固としたものをちゃんと持っている人もいる。
余裕のある人は年をとるにつれて、また余裕のないサラリーマンでも退職後にどかんとまとめて、芸術を身につけようとする人が身の回りに増えてる気がします。
まんがは立派な芸術!絶対必要ですね・・。
私もまんが大好きです!
http://www002.upp.so-net.ne.jp/morishin/maehanasi/waar.htm
遊びもないと無味乾燥で逆にギスギスしっぱなしになるでしょう。
そういうものの方が少しずれただけで瓦解するので。
心に潤いを
実際、なくても困らないものですが、自分の内側にあるものをアウトプットする手段としてアートは必要だと思います。
言葉では表現できないもの、それを感じるちから、全てが人と人が
深いところで繋がることができる手段の一つではないでしょうか。
人生に疲れたときに必要になる。
迷ったときとか。
ストレス溜まったときも良い作品をみるとエネルギーがわく。
例えて言うと、ユニクロの服でも要は足りるけど、デザイナーのいい服を手に取ると感動して豊かな気持ちになるのと同じようなもんだと思う。
「必ず無ければならないか?」と問われれば「いいえ」。しかし、何でも芸術でなければ全てが芸術の可能性を持ってしまう。人の心の琴線に触れるような洗練された芸術も対象者が限定される。
ガキの殴り書きも基準が不明なら芸術と言っても完全には間違いではない。
美意識は個人の感覚に付属してしまうので排除しようがない。従って必ずしも必要ではなくても、そんな余裕が無くても、皆さんの文化的支出はゼロにはならないのです。
難しいですが、深い意見ですね。
「芸術」という存在は生まれるべくして生まれたと言うことが出来ますね。
毎日いろんな雑用に振り回されて時間をすごしていますが
ほとんど左の脳みそを駆使するようなことばかりだと思う
アートは時間空間の制限を取っ払って右の脳みそに
果てしなく素晴らしい刺激を与えてくれるもの
日常で忘れかけている感性、言葉では表現できない左脳の出番の無い世界
その刺激に触れてしばらく言葉を失って酔いしれる時間
そういうものが人生を豊かにするもののような気がします
生理的欲求を満たすだけの生活では、ストレスがたまると思います。
子供が無邪気に動物やお花をかわいいといったりするところに、すでになにかをめでるという芸術性が生まれているように思います。
息をするのと同じように、どこかに無意識に芸術とともにいるきがします。
わざわざ追記をありがとうございます。
○必要とは思うが食べ過ぎないように!
50代男
人は点が三つあればそれを顔と認識すると言います。
∵←こんな感じ。
つまり、人は生まれつき、何の意図もない模様や構造に自ら意味を見出す性質があるのだと思います。
なので、例えば極端な話、アートを作る人が0になっても、何かにアートを感じる人は0にならない。
そして、何かにアートを感じる感受性が人に生得能力としてある限り、アートはなくならないと思います。
よってアートは必要なものというよりは、どうやっても存在するもの。
ただし、これは広い意味のアート。
広い意味のアートを完全に受け入れた人は、例えば他人の作った芸術作品などなくても、空を見たり、木を見たり、風の音を聞いたりしてアートを十分感じるために、人が作り出す狭い意味のアートは必要なくなるかもしれない。
自分自身とっては狭い意味のアートも必要。
誰かの作ったもの、表現したものに対して「こんなものを作る奴がいるとは・・・・!!」という感動を覚えることは自分自身が感動を覚える何かを作り出す原動力になる。
感動は人生に意味を与える最大の要素なので、アートは必要。
artとは、もともと「(自然や神ではなく)人が」為すことを指します。
art
1. Human effort to imitate, supplement, alter, or counteract the work of nature.
from American Heritage Dictionary
美術館にあるような絵画、彫刻などは、ただその美しさを「鑑賞」するだけでなく、自分の内面にあるものを外に伝えるための「技術」にどのようなものがあるか、そのお手本としてみる、というスタンスがあると思います。特に多くの人に「何かが伝わった」ものは、多くの人に共有されているということですし、「標準的でないものへの取り組み」(始まったときのダダイズム、キュ日ズムなど)は、「それ」が共有されていないということを前提としたもので、いずれも示唆するところがたいへんに大きくあります。
横レスでごめんなさい。
> 彼が「芸術は生活の中にある」と言っている本があれば、
> その本の名前などを教えていただけますか?
モリスは機会があるごとにそれを言っているようなものだと思いますが、
(よって、どの本に書いてある、というと書籍リストになりそうです)
日本でのモリスの仕事の紹介は、20年以上前に亡くなった方ですが、
小野二郎先生という方が熱心に取り組んでおられたことですので、
まず小野先生のご著書を図書館などでごらんになるとよいかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E4%BA%8C%E9%83%8...
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8F%AC%96%EC%93%F1%98Y/list....
図書館などでいろいろ探してみたいと思います!
質問の回答としては、
お手本としてみる、という意味で必要性があると言える
もしくはもともと人が為すという意味であるから必要性は必然的であると言える
という意味で受け取ってもよろしいでしょうか?
解釈など間違っていたらごめんなさい。。