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「あめつちの ひらけぬ先の 我なれば 生くるにもなし、死するにもなし」
の出典及び意味を教えてください。

●質問者: dongwu
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 5/5件

▽最新の回答へ

1 ● 大蘇 蓮風
●20ポイント

仏教での「悟り」の状態を指した歌かと思います。

禅において「父母未生以前の本来の面目」などなどの言い方があるのですが、これは「宇宙がまるごと1個のパッケージ」であることを指しています。ですが、これは言葉の知識で身につけてもなんにもならないもので、坐禅修行などの方法で体得しなければ意味がありません。

質問の歌は

「天地開闢以前から存在する≪大我≫であるから、生きているとか死んでいるとか、そのような偏った状態ではない」

ということを述べているように、わたしは解釈しています。

でも繰り返しになりますが、身体で覚えない限り分からないことです。


2 ● NumLk
●20ポイント

戦国時代の島津義弘の辞世の句です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%9...

◎質問者からの返答

ありがとうございます。

でも意味が分からないんです。。。


3 ● KUROX
●20ポイント

島津義弘の辞世の句に間違いないと思いますが、

他の辞世の句もあるようです。

その句も、島津義弘の考え方を示す材料になると思い書いておきます。

時代背景と島津義弘の考え方から、解釈するしかないと思われます。

質問の句だけでは、解釈がなんとでも考えられるので。

まあ、検索で引っかかれば良いですが、とりあえず見つからないです。

この分野に詳しくないので、勝手な解釈もかけないし(^^;

-------------------------

http://hp1.cafesta.com/hp/album_avatar_read.do?hpid=karin625&...

春秋の花も紅葉も

とどまらず

人もむなしき

関路なりけり

これは、島津義弘の辞世の句です。

----------------------------------

春の桜や秋の紅葉が散ってしまうように

人の一生もはかないものだ。

関路という言葉には関ヶ原からの道のりと

いう意味が込められています。

自分ひとりを戦場から逃すために命を

落としていった家臣たち。

死の間際、義弘の心に去来したのは

彼等忠義の家臣たちへの思いだったのかも知れません。

男のいきざまの精神とはこのようにありたい。


4 ● ShinRai
●20ポイント

この大宇宙の生命はひとつである。私は、その宇宙・自然の法則に従順に、逆らうことなく生きてきた。

個体としての私の生命は何十年か生きてきて、これから消えていくところだが、それも宇宙・自然の法則にそのまましたがったまでのことだ。私という個体の生命が宇宙の生命へと戻っていくだけのことで、なにも悲しむことではないのだ。


以上、意味については、本人に聞くわけにもいかないので、私(天台宗でほんとにわずかな期間、修行しました)の理解をお話ししました。

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/190301.htm


5 ● tappalin
●20ポイント

私の訳は、<<この世が始まった後に(生まれた)私なので、生きているときにも死ぬときにも(私は)世に見捨てられている。>>

「先」-「後」

「にも」-「ときにも」

「なし」-「世に見捨てられている」

と訳しました。

renpooさんの説明を借りるならば、「父母未生以前の本来の面目」を失っている自分の運命を詠っているとも考えられそうです。renpooさんとはまったく逆の解釈になってしまっていますが...


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