仏教での「悟り」の状態を指した歌かと思います。
禅において「父母未生以前の本来の面目」などなどの言い方があるのですが、これは「宇宙がまるごと1個のパッケージ」であることを指しています。ですが、これは言葉の知識で身につけてもなんにもならないもので、坐禅修行などの方法で体得しなければ意味がありません。
質問の歌は
「天地開闢以前から存在する≪大我≫であるから、生きているとか死んでいるとか、そのような偏った状態ではない」
ということを述べているように、わたしは解釈しています。
でも繰り返しになりますが、身体で覚えない限り分からないことです。
戦国時代の島津義弘の辞世の句です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%9...
ありがとうございます。
でも意味が分からないんです。。。
島津義弘の辞世の句に間違いないと思いますが、
他の辞世の句もあるようです。
その句も、島津義弘の考え方を示す材料になると思い書いておきます。
時代背景と島津義弘の考え方から、解釈するしかないと思われます。
質問の句だけでは、解釈がなんとでも考えられるので。
まあ、検索で引っかかれば良いですが、とりあえず見つからないです。
この分野に詳しくないので、勝手な解釈もかけないし(^^;
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http://hp1.cafesta.com/hp/album_avatar_read.do?hpid=karin625&...
春秋の花も紅葉も
とどまらず
人もむなしき
関路なりけり
これは、島津義弘の辞世の句です。
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春の桜や秋の紅葉が散ってしまうように
人の一生もはかないものだ。
関路という言葉には関ヶ原からの道のりと
いう意味が込められています。
自分ひとりを戦場から逃すために命を
落としていった家臣たち。
死の間際、義弘の心に去来したのは
彼等忠義の家臣たちへの思いだったのかも知れません。
男のいきざまの精神とはこのようにありたい。
この大宇宙の生命はひとつである。私は、その宇宙・自然の法則に従順に、逆らうことなく生きてきた。
個体としての私の生命は何十年か生きてきて、これから消えていくところだが、それも宇宙・自然の法則にそのまましたがったまでのことだ。私という個体の生命が宇宙の生命へと戻っていくだけのことで、なにも悲しむことではないのだ。
以上、意味については、本人に聞くわけにもいかないので、私(天台宗でほんとにわずかな期間、修行しました)の理解をお話ししました。
私の訳は、<<この世が始まった後に(生まれた)私なので、生きているときにも死ぬときにも(私は)世に見捨てられている。>>
「先」-「後」
「にも」-「ときにも」
「なし」-「世に見捨てられている」
と訳しました。
renpooさんの説明を借りるならば、「父母未生以前の本来の面目」を失っている自分の運命を詠っているとも考えられそうです。renpooさんとはまったく逆の解釈になってしまっていますが...