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オタク文化の聖地、今や世界的注目度も抜群に高い「秋葉原」・・・あの街が、電化製品販売中心の街から今の様な文化を発信するような街になったのは何時からで、何をキッカケにしているのでしょうか・・・?
スゴク興味があるので、いろいろな説が知れたらと思います。

●質問者: tooh22
●カテゴリ:政治・社会 芸術・文化・歴史
✍キーワード:オタク文化 文化 秋葉原 聖地 製品
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 5/5件

▽最新の回答へ

1 ● satori_jp
●20ポイント

前半は1980年台のPC98の普及による18禁ゲームの普及。

中盤は1995年のWindows95の発売、ときめきメモリアルの発売。

後半は2005年の電車男。でしょうか。


秋葉原は電気製品だけでなく、ゲームやアニメの用品を昔から多く取り扱っていました。

パソコンユーザーは多くが若い男性ですから、18禁ゲームは魅力的でした。

1980年の後半から、PC用の18禁ゲームは売れ筋商品でした。

店内には18禁ゲームのポスターがベタベタと貼られている・・・そういう店も多くあったはずです。(行ったことはないのですが)

また、Windows95の普及に伴い、これらの18禁ゲームは一般ユーザーの手に取るところとなりました。


18禁ゲームのような「ギャルゲー」の広告が秋葉原の大通り看板に出された理由は、

ときめきメモリアルが18禁ゲームでないにもかかわらず爆発的にヒットしたからだと考えられます。

それまでギャルゲー=18禁とされていた考えが覆された瞬間でした。


かくして、秋葉原で売れ筋商品であるギャルゲーは大通りにも見える形で大きく広告が出されるようになりました。

18禁ではないゲームは看板広告を出しても大丈夫だろう、ということですね。

ときめきメモリアルのヒットを境に、数々の非18禁ギャルゲーが発売されるようになり、

18禁だったゲームも非18禁に移植されるようになりました。

こうして秋葉原電気街はギャルゲーの看板が多く立ち並ぶようになったわけです。


メイド喫茶が立ち並ぶようになったキッカケは、その延長線上でしかありません。

アンナミラーズや馬車道といったコスプレ系のファミレスが、ギャルゲー風に一段階進化したものです。

ファミレスを舞台にしたギャルゲーの影響が一番大きいでしょうね。


これらの状態が日本で注目されるようになったのは、やはり電車男のドラマ化・映画化でしょう。

電車男によってオタクに対する考え方が大きく変わりました。

さらに後押しするかのようにつくばエクスプレスが開通、ヨドバシAkibaの開店と続きました。

これにより知名度が向上、メディアに取り上げられてアキバブームとなり、今までより一層大きな商業地区となりました。


参考URL

WikiPedia - メイド喫茶

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89%E5%96%A...

WikiPedia - ギャルゲー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%B...

WikiPedia - 秋葉原

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F


2 ● しろっくす
●20ポイント

昔は闇市だったようですね。

ここをみると良いと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F

http://www.akiba.or.jp/history/index.html


3 ● ClaudeT
●20ポイント

電化製品街

パソコン販売

PCおたくが集まる=大勢がゲーム等々を買いに来る

男性ばかりが歩いている

メイド喫茶等々が出来る

http://www.akiba.or.jp/


4 ● かわせみかげ
●20ポイント

http://q.hatena.ne.jp/1193143523

上記の方の質問への返信と重複しますが、以下に挙げると・・・

*1・まず、パソコンの街・無線の街が現在のような姿になった影響として、ファミコンブーム(大体1984年?1987年頃)が挙げられます。

およそこの時代は現在の下地を作るための布石の時期で、任天堂のファミリーコンピューターのブームで爆発的増加にコンピューターゲームに興味を持った人間が、

不足する供給の枯渇を補う為、コンピューターの街・家電の街として存在していた秋葉原に足を運んだ事が挙げられます。

この時に価格はパソコンに比べてはるか低価格であるがユーザー人工のパイが多いファミコンの需要に目をつけた販売店側が、積極的に供給側に動いた事が、現在の下地を作る要因です。

ファミコンのゲームソフトはキャラクターを使用したものが多く、ユーザーの低年齢層である点を含め、並行してキャラクター物のアニメーションビデオを今まで以上に積極的に扱うと言う発想を販売店に植え付けます。

このアニメーションビデオの販売とゲームの販売が密着したスタイルは、当時のゲーム扱いのスタンダードである家電量販店・ゲームショップではあまり見られなかった部分で、後に重要になるフラグです。

*2・1で挙げたのはファミコンブームがファミコン本体不足が過熱のみに絡んだ話題として上げられますが、ファミコンブームに追随する各種現象と、その直後にと、1988年頃から1992年頃のファミコンの次世代ゲーム機ブームが発生した点が下地から現在への加速を促します。

ファミコン本体がある程度潤った後、1987年にドラゴンクエスト2が発売され、いわゆる「徹夜組行列を作る大作タイトル販売」のブームが起き、大作と言われるタイトル発売に際し、ファミコン本体と別の所で需要と供給のせめぎあいが発生します。

この社会現象が発生する度に、

発売前に情報を仕入れにメッカである秋葉原へ行こう。

販売店が豊富で列に並んで買い逃してもフォローが可能な店舗を探しやすい秋葉原へ行こう。

発売日の前日にソフトが入手できると言われる秋葉原へ行こう。

と言われる現象が発生します。

ちなみにこの当時は、ゲームは何でも秋葉原と言うイメージは無く、新宿や池袋はヨドバシカメラやビッグカメラの存在が大きい上に、ゲームのイベントなどがある際は百貨店の屋上やサンシャインのワールドインポートマートを使用するので、秋葉原そのものはそれほど重点的に執着される物ではありませんでした。

ある種一線を越えたヘビーユーザーが秋葉原に注視するようになります。

そしてそのままPCエンジンを始めとした次世代ゲーム機のブームが始まると同時に、次世代機という最先端のミラクルマシンを求めてより一層秋葉原へ行くという考えが普及し始めます。

前述のように、次世代機を求めるのはまずヘビーユーザーで、そのまま次世代機入手に秋葉原がキーワードになるのは必然。

そして忘れてならないのが、中古ソフト市場の発生。

お金が限られたユーザーは中古で安くゲームを入手出来ていらないソフトがお金になったほうが助かるのは当然です。

秋葉原はジャンク品を扱ってきた経緯から、中古ソフトの市場の充実も完璧でした。

現在メイド喫茶と言われる店舗のテナントが、全て中古ゲームショップとして存在していて、営業が成り立っていたと言えば盛況具合が判りますでしょうか?

*3・1991年頃から1995年ごろ、次世代ゲーム機のブームが一段楽しながら、更なる次世代マシンが出てくる中それらのマシンが共通して成長させてきた個所が、「CD?ROM対応による大容量化」と「CD?ROMの特性を活かした音声の標準対応」。

ここでゲームと声優の繋がりが強化されます。

前述のようにキャラクター販売強化している販売土壌に、ゲームの音声標準化で声優がピックアップされます。

そしてそんな中、声優参加型の各種アニメのイベントとは別に、1994年に秋葉原の石丸電気が、声優の椎名へきるがアニメの主題歌などのタイアップとは無関係のアルバム発売に関して、応対したイベントを開催します。

その後も声優主体型キャンペーンイベントを連続して開催。

ここで、ゲームのヘビーユーザー、アニメのヘビーユーザー共に声優に興味があれば秋葉原を重点チェックする対象と言う意識が生まれます。

1995年に入ると、第三次声優ブームと言われるブームが表面化し、声優が趣味の対象となる現在のスタイルのフォーマットが出来、声優雑誌バブルなどが発生します。

その際に秋葉原が声優イベント開催に一日の長を発揮し、けん引役と成ります。

その後「出演する声優目的でゲームやアニメが欲しい」と言った場合は、購入特典として声優参加型イベントが開催する事があるので、秋葉原まで出向いてゲームを買う。アニメを買うというスタイルが確立されます。

大まかな主体として、この1995年前後の声優ブームに伴う余波が、現在の「オタクの街としての秋葉原」の大部分の骨格形成を行いました。

*4・この骨格形成と同時に、肉付けとなる現象が同時に起きています。

1990年代から発生した、ゲームセンターでの格闘ゲームブーム。

格闘ゲームのブームは店舗毎の開催を行い、秋葉原でも現在のクラブセガなどが企業直営の大型店舗として、決勝大会などの舞台として活用されました。

そして大会が無くても対戦ゲームの腕を上げたい人にとっては、絶好の集合場所となりました。

また、店舗直営ゆえに実験的にゲームを先行稼動させる、いわゆる「デモプレイ」も多用に行われ、人気ゲームのバーチャファイターの新作やバーチャロン新登場の際も「まずは秋葉原へ行け」と言うスタイルが発生しています。

そのためゲームセンターとして見て、秋葉原駅前のゲームセンターは、家庭用ゲームを買う行き帰りに寄る場所以上に、情報発信基地としての機能が発揮されました。

1994年、ときめきメモリアルと言う、「恋愛シミュレーションゲーム」が発売。その後1995年のプレイステーション移植を持って恋愛ゲームが爆発ブームと成りました。

この恋愛ゲームのブームは、同時に登場キャラクターの声優とリンクさせ、購入特典を生む結果となりました。

これが前述3とリンクして、ブームのある中ゲームを買いに秋葉原と言うスタイルも確立されました。



長くなりましたが、現在の土台と骨格と肉付け。

基本的なオタクが集まる為の経緯はほぼこれらの現象がコンビネーションとして発生したことが大きく影響していると言えます。

上記がオタクが集まるきっかけの由来で、その次に発信基地としての発展として、以下の点を挙げる事が出来ます。

*前述のオタクが集まる場所発生のシークエンスに連続して、イベント開催店舗などにレコード会社が、小冊子を置く事が決定。

それら小冊子は、インタビュー記事などで声優の参加も多く、その価値を目当てに集まる人間と、その人間が集まる勢いに目をつけて他の小冊子が参加してきた事。

1995年以降、サブカルチャーのブームとして、マジック(マジック・ザ・ギャザリング)を始めとした、トレーディングカードゲームブームが発生。

従来のいわゆるオタク系商品取り扱いの流れで、ゲームショップ・アニメショップでTCGを扱う店舗が秋葉原は多く、また、トレーディングカードゲーム(以下TCG)は、対戦場所に来た際に長時間留まる必要性があり、その為の場所(デュエルスペース)が、そのままオタクの受信地として機能し、そこに目をつけた出版社などが配布物を置くようになったのが最初の由来と思えます。


*ウェブ「未接続環境」の存在と秋葉原。

情報発信だけで言うと、2000年以前のウェブ接続環境は今より普及しておらず、ウェブ接続できる人間と出来ない人間の間の情報差が開いた事があります。

それに関連してウェブ環境未接続の人間が秋葉原に集まり情報を集めたと言う話もあります。

ゲームセンターやアニメショップの普及に伴い、各店舗で「コミュニケーションノート」「らくがき帳」を設置するようになり、2000年当時で秋葉原全体で20個ほどのノートが存在していました。

これらのアナログな情報発信手段は、そのまま様々な文化発信の場となり後押ししたように思えます。

◎質問者からの返答

オォォォ…スゲェ…

チョー詳しい情報、どうもどうもありがとうございます。


5 ● moyo
●20ポイント

2004年9月に発行された「おたく:人格=空間=都市」幻冬舎( http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/j/catalogue.html )によると、秋葉原は80年台に台頭してきた郊外型の家電量販店に家電製品の市場をうばわれ、やむをえず主力をパソコンに移行したそうです。

まだネットも普及していない時代にパソコンを求める客層が秋葉原に集まるようになり、街の性格も変わって行った……おたくの聖地へとなったのは1997年ごろから3年間くらいで、とあります。

未読ですがおそらく詳しくはこの本に書かれているんだろうと思います。

『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』 森川嘉一郎著 幻冬舎刊

http://homepage1.nifty.com/straylight/main/personapolis.html

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