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頼山陽の漢詩で,

男子学バザレバ、スナワチ已ム。
学ババ当ニ羣ヲ超ユベシ

で始まるものについて探しています.


・「タイトル,解説等が含まれているページ,もしくは文献」
を教えてください.

ちなみに最初の二文だけ原文もわかっています.

男子不学則已
学則当超羣矣

渡部昇一「知的生活の方法」で紹介されており気になって調べたのですが,
検索してもなかなか見つからないので質問しました.

書き下し文についてはわかっているので,タイトル・原文・解説がついている
ものがあると助かります.
ご存知であればこの詩が書かれた背景等教えていただけると大変嬉しいです.

よろしくお願いします.

●質問者: ゆとり
●カテゴリ:芸術・文化・歴史 書籍・音楽・映画
✍キーワード:タイトル 検索 渡部昇一 漢詩 男子
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

▽最新の回答へ

1 ● president_kuma
●35ポイント

江戸時代後期の国学者、頼山陽が12歳の時に記した「立志論」という本の中にあったと思います(記憶が曖昧ですが、多分間違いありません)。「立志論」は大きな図書館に行けば見つかるかも知れません。

父母共に学者の家に生まれた人物で、幼くして漢詩や歴史に精通し、成人して儒学にも通じた人物です。

生まれて12年を経、父母から勉学の道を示されて6年。今の志について歌い上げた漢詩です。後に大塩平八郎に大きな影響を与える人物です。

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/tokiwa/ginei/jykki.html

リンクはお探しの文面とは違いますが、この漢詩の1年後に書かれた作品です。

◎質問者からの返答

早速のご回答ありがとうございます.12歳とは驚きですね.教えていただいた文献を調べてみます.


2 ● newmemo
●35ポイント ベストアンサー

安藤英男著『?山陽選集1 ?山陽傳』(近藤出版社)に「立志論」を書いた経緯が書かれています(ページ39?40)。

手元にありますので該当する箇所を転載しました。

山陽が十二歳になった寛政三年(一七九一年)の春、父の春水は山陽に実名(諱)(いみな)をつけ、これを広島の静子に報じた。すわなち「……襄(のぼる)の一字にて候。名乗にして読み候へばノボルなり。ノボリではなし。この通り申し付けらるべく候」と。そして、出典は『書経』の「堯典」(ぎょうてん)で、「山を懐(つつ)み、稜(おか)に襄(のぼ)る」であったという。

中略

山陽は母の膝下に座して、春水から寄せられた命名を伝え聞かされた。「襄」の名が気に入った山陽は、その記念に一文を綴って決意を示した。すなわち「立志論」といわれるものがそれで、そこには洋々たる大志と、一生の指針とが確然と示されている。当時の山陽は十二歳とはいえ、正味は十歳五ヶ月の幼児である。それなのに漢文で論説が書けるばかりか、その筋だてのしっかりしていることは驚嘆のほかはない。

そのあと立志論(抄)が掲載されています(書き下し文)。

http://search.newgenji.co.jp/sgenji/D1/?000103556308/

◎質問者からの返答

丁寧なご回答,わざわざ引用していただきありがとうございます.大変参考になります.

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