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【学校の英語】

「英語が話せないと恥ずかしい」
「英語は話せるのが当たり前」
「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」

世間にはそんな雰囲気はありませんか?

何年も英語を勉強しても何かの役に立つ意思疎通レベル (たどたどしくも英文メールが出せる、海外の空港やホテルでトラブルを乗り切るなど) に達しない人が多いように思うのですが、いっそのこと英語の学習は中学校からに戻して、さらに選択授業にするというのはどうでしょうか?

1年生の時にはアルファベットと簡単な会話だけを覚えるとして、2 年生以降は外国語を選択させる。英語を受けない人は、ほかの外国語から選ぶとか。

国際社会で英語が必要なのはわかりますが、身にならないことを延々と続けても意味がありませんし、時間とお金の無駄ではないでしょうか。

今の英語教育では、「英語は話せなくても恥ずかしくない!」と思います。
小さい頃から「国際化の時代に君たちは?云々」とかいう説教を食らいながら、そのくせ成果のでない英語の授業を受けている子供がかわいそうではないでしょうか?コンプレックスを植え付けられているかのようです。

賛成・反対、いろいろ意見をお願いします。

●質問者: にぎたま
●カテゴリ:学習・教育
✍キーワード:いるか お金 どうでしょう なのは アルファベット
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 22/22件

▽最新の回答へ

[1]「恥ずかしい」どころか godric

ハッキリ英語拒絶症の人の方が多く「ばかり」という表現をしたくなるぐらいだから、もともと「英語が喋れないなんて当たり前」なのが本音で建前が「英語当然喋る」でしょうね、日本は・・。僕はそれでもいいと思う。言葉はその国の文化なんだけど・・まあとは言え、本当に「拒絶的」なんだよねw。英語が喋れないなんて恥ずかしいって言うけど、ノルウェイ人やドイツ人やイタリア人などは「僕英語が全然分からなくて社会生活が営めないんだよ」なんて喋れない英語でコマって言ってますから、むしろ英語に対して日本語の自尊心を失う必要はないと思う。ただ思いやりをもって日本語が分からないなら合わせてあげればどうかな、という、そういう人としての思いやりが重要で、だったら英語を喋れるように努力すれば幼児的な言葉を喋る力はすぐつくと思うし、次に「語学力」(なんで学なんだろう、英語圏では幼児だってペラペラなのに)なんではないだろうか。はてなはプログラマーが多いから、プログラミングのアメリカのサイトが読めたい人種なんだよね、なので英語の話も盛んだし、サイトの性質上英語の拒絶感がないよね、でも一般には全然違っていて、イザ英語シチュエーションを目の前にすると完全に「拒絶傾向」だったりします。(別にドイツでもイタリアでも同じだと思うけど<日本ほどじゃないかw>)あと、幼児が喋るものを「学」というのもどうかなあ、英語を喋ることを大切に思う人は幼児の頃からやればそれだけ「拒絶症」がなくなります(ワタシの場合)。でも、必要ない人が無理やり英語というのもねw。選択性にしたらどうかなあ(大多数が選択したりしてw)。


[2]国際化の時代の本当の意味 gday

これは英語に限った話ではありませんが、日本はこれまで製造業で発展してきました。しかし、製造現場を海外に求めるようになってきた現状を踏まえ、今後国内で盛んになる産業は何かと言うと観光だと思う訳です。あくまでも内需ではなく外貨を稼ぐという意味ですよ。

これまでは国際化と言えば海外に出て行って彼らと対等に渡り合うという観点で言われてきましたが、観光産業が発展してくると逆に国内で海外から来るビジターと渡り合わなければならなくなってきます。

これが本当の意味での国際化だと私なんかは思っているのですが、そうした観点から今後の英語教育の位置づけを見た場合、(英語だけがいいのかどうかの検討も必要です)外国語教育に力を入れこそすれ、選択科目にしてゆくというのはあり得ないのではないかと思います。

これは、日本の将来を支える産業がいかになるべきか、そしてそれを支える労働者が持つべきスキルは何なのか、そしてそれを養成する教育はどうあるべきなのか、という高い視点に立って考えるべき話ですね。

それと、中学高校6年間でろくに挨拶もできない会話力しか付かない英語教育は変です。それに対し、類まれに見る文法の知識の豊富さといった偏った教育は何とかしなくてはならないでしょうね。


[3]評価できる教育だから takejin

教育効果として、「テストの点数」で比較する必要があるからですよね。

会話したかったら、シチュエーションを設定して会話パターンを繰り返せばOKでしょう。すくなくとも、海外で一人で買い物程度ならすぐですよね。中学の3年間をこっちに切り替えれば、生活できるぐらいにはなるのではないでしょうか。

教育現場の教育方針と、教師の能力(教師への教育の方かな)が、「生活できる会話」の必要性を感じていない。日本にいて、海外の論文を読めて、中には英語で論文を出すこともできる人も作り出そう、という方針でしょう。外国人はあまり日本に来ないし、海外旅行なんて行かないか、行ってもパック旅行で現地語は話さない、というのが前提(いつの時代なのでしょうね)。まあ、誰だって、必要に迫られてない時には、やらないですよ。

で、海外赴任が決まって、3ヶ月で日常会話。奥さんは1ヶ月くらいしか与えられない。という図式がよく見られるわけじゃないですか。必要に迫られないと、できませんよね。


[4]偉そうに喋る人は特別扱いされる。 miharaseihyou

どうせ「毛が三本」はお互い様。専門の論文を読むとか貿易に携わるなどでなければ不必要。


[5]英会話教育と英語教育の違い。 smilydogs

巷の世論では、英会話教育と英語教育を混同しているように思われます。

学校の英語教育は、大学や大学院などに進学し論文など読み書きするのに重要です。日本の歴史上、外国から技術を学ぶことが多かったですし、現在も学術論文は英語で書いているのも多いです。

日常英会話がいくら話せても、大学や大学院に進学して論文読めませんってことになったらそっちのほうが問題だと思いますが。


[6]>5 その混同している人は私です。 Nigitama

たしかにおっしゃるとおり。

ところで、今の日本の学校教育 (まぁ、中学・高校とプラスアルファ程度) が目指している者って何でしょうか?


[7]教育が悪いとは思えません ekiryu

自分で率先してそのような機会を作るわけでもないので、

私も英語を話す機会はありませんし、英語は話せません。

英語が話せないのは、単純に必要がなく継続して使う機会がないからだと思います。

外国人さえも母国語を使用しないと忘れると聞きます、

人間の脳はそのような仕組みになっているので仕方のない事だと思います。

英語が必要であれば、学習すれば良い事ですが、学生時代に全く勉強していなければ、

現在より英語を使用できる人間が減少すると思います。


[8]>6 最初は takejin

欧米の知識を導入するために、海外の知識(主に書物)を翻訳するための物だったと思います。解体新書が書ければいいのですよ。

次は、海外へ発信するため。英語の文書が必要なので、英語の論文を書けるように。

で、そんなことのできる人が大学等では必要なので、選抜試験は、そんなことのできる人を選ぶ試験となった。そして、その下層の教育は、その選抜試験対策になっていった。のでしょう。

べつに、国際舞台に立て、とは日本の英語教育は言っていない。


[9]別に英語に限った事ではありませんよ ottyanko

本来、役に立つ学問を、身に付けることなく履修していくのは、英語に限った事ではありません。

化学や生物を履修して身に付けていれば、血液がサラサラになる!なんて宣伝文句に騙される事もありませんし・・・・

恥を恥と思わなければ、英語を話せなくても恥ずかしくありません。

数学を履修していながら、帰納的な考え方の出来ない人も、恥ずかしくないでしょうね。

テストの点数は、単なる効果測定でしかありません。

それも、授業に対する効果測定であって、身に付いたかどうかの効果測定ではありません。

社会から隔離されすぎた学校にも問題がありますが(社会人から教員になる人をもっと増やすべき)

社会に巣立つ自分をイメージせずに進学する生徒さんにも問題がありますね。

英語は、単に会話や読解記述の為だけでなく、日本語から得られるモノとは違った思考方法のトレーニングにもなります。

ちなみに、目的を達成すればそれでOKなのが社会ですから、たどたどしくてもキチンと目的(たとえば商談だったり契約だったり)を果たしていれば、何の問題もありませんよ。(役者じゃありませんので)


[10]そんな雰囲気ないです agharta71

「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」は確かにありますが、

「英語が話せないと恥ずかしい」「英語は話せるのが当たり前」はどうでしょう?

少なくても私の周りにはそんな雰囲気ないです。

逆に「英語が話せないと恥ずかしい」「英語は話せるのが当たり前」という

雰囲気であるとしたら日本の英語教育は素晴らしいという事になるのでは?


[11]>10 基本的に、「かっこいい」と「恥ずかしい」がよくわからない状態。 nofrills

「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」からこそ、スポーツ選手が「海外」のチームに移籍したときや、「海外」の大会に出たときに、記者会見などで「流暢な英語」で何かを語った場合に「堂々と英語で会見!」とかっていう「かっこいい」系ニュースになったりもするのだろうと思いますが、一方で/同時に、その選手の英語が「日本人なので英語はできません」的なたどたどしいものだった場合に、「英語はまだまだなようです」という基調で報道されたりもしていて、何が何だかよくわかりません。


「流暢な英語」が「かっこいい」とされていることはわかるのですが、では「たどたどしい英語」は「恥ずかしい」のかというと、必ずしもそうではないような…… he's one of us的な意味で、「親しみやすさ」を呼んでいることもありそうです。しかるに「恥ずかしい」というのは、「自分」が主語のときと「第三者」が主語のときとでは何かが違うし……


って、この投稿内容ではご質問の本題とは外れていますね。本題のほうはまた改めて投稿します。


[12]>11 日本にいる外国の選手で置きかえると Nigitama

よくわかりますね。


[13]>2 「何か」外国語をやっておくことは必要 nofrills

英語でなくても何語でもいいので、とにかく何らかの外国語をやってみることは必要だと思います。それは実務的にもそうなのですが(例:観光産業において、来訪者が母語としている言語を使う、など)、もっと深いところで、「違い」を知ること、「違う」とはどういうことなのかを知ることのためにも。


たとえば、「英語では『いただきます』に相当する表現がない」ということから、では自分たちはなぜ「いただきます」と言うのかを考えてみる、そしてその結果、自分たちの習慣について知る、または知ろうとする、そういったことは、自分の「村」のことだけを知っていればOKというわけではなく、より広い「世界」を見ることを要求される環境では、「あったほうがいい」というよりは「なくては困る」のではないかと思います。(英語圏で、「別の言語」に接する必要が一切ないままで30代とか40代になったような人と接すると、「視野の広さ」にかんする前提のあまりの落差ゆえに、ほとんど「絶望」といっていいような気持ちにさせられることがあったりもします。個人的に。)


それと、「日本の英語は文法に偏っている」というのが「真」であるかどうか、また、そこから導き出されていると思われる「日本人は文法はできる」ということが「真」であるかどうか、非常に疑問です。むしろ、「文法的な間違いを恐れて英語を使うことを恐れるという本末転倒が発生している(ことがよくある)」と言い換えるべきです。


それと、別のスレッドで話が出ていますが、「英語での会話(英会話)」と「英語そのもの」とが、現状、あまりにごっちゃになっています。経済の論文が読める/書ける人が「流暢に」(=ペラペラと)英語で会話できるとは限らないし、会話できる必要もない。ただ、論文の読み書きに困らない人であれば、英語で何かを述べる場合(話すのでも書くのでも)に「話の進め方(構成)」がグダグダ、ということが相対的には少ない、という前提は成立するかもしれませんが。


以下、まったくの無駄話です。gdayさんの

> 観光産業が発展してくると逆に国内で海外から来るビジターと渡り合わなければならなくなってきます。

を拝読して思い浮かんだのが、英国のマイケル・ウィンターボトム監督の映画『イン・ディス・ワールド』の主人公の少年。彼はパキスタンにあるアフガニスタン人難民キャンプに生まれ育った男子で、「外国人観光客」を相手にみやげ物を売って家族の生活費(の一部)を稼いでいるので、英語ができる、という設定です。一方で彼の従兄は英語ができない。それで、主人公は、従兄が密かに欧州に脱出する旅に半ば強引にくっついていきます――「英語ができる俺を連れて行け」と。あとは映画をご覧ください。

イン・ディス・ワールド

イン・ディス・ワールド


[14]それぞれの問題点について、個別に、なるべく「賛成・反対」を述べる形で nofrills

【長文です】

質問文に非常に多くの要素が含まれていて、これまでのところ、明確な「賛成・反対」が言えず「何となく雑談」になっているような気がしますが、以下、個別に、なるべく「賛成・反対」を述べる形で。


1) 「英語がぺらぺらなやつはかっこいい」

これについては「ある」とは思いますが、厳密には「英語がぺらぺら」とはどのような状態をいうのかというところからスタートしないと何とも言えません。例えば、「ぺらぺら」が含意していると思われる「ネイティヴみたいな発音で」は、実際のコミュニケーションにはあまり関係ないと思います(例として、ロンドンでアーセナルFCの監督をしているアーセン・ヴェンゲルのフランス語訛りの英語。BBC Sportとかで検索すればいくらでも聞けます)。しかるに、日本においては、「発音がネイティヴみたい」でないと、どんなに充実した会話をすることができる人でも、「かっこいい」とは見なされづらい場合もある。で、「かっこいい」を目指して勉強する人がいるとしたら、それはそれでよいと思います。「女の子にモテたくてギター始めた」が別に悪いことではないのと同様に。


2) 「英語が話せないと恥ずかしい」、「英語は話せるのが当たり前」

こういう雰囲気はあるかもしれません。特に「資格」とか「転職」を語るコンテクストにおいて。ただしその「雰囲気」が、何か中身のあるものかどうかは別の話だと思います。また、「英語は話せるのが当たり前」って言ってる人がいる場合、その人が話せるのかどうか、というのもあります。「部下への叱咤激励」的なコンテクストで上司がそう言う、セミナーの講師がそう言う、などの場合はあるでしょうが、私の知る範囲では、「英語が話せる人」はそれが「当たり前」とは考えていません。(「どれだけ勉強してもまだまだ知らないことがありますね」的な話になることはあっても。)


3) 何年も英語を勉強しても何かの役に立つ意思疎通レベルに達しない人が多いように思う

「何年も」といっても、英語に真面目に取り組んだ時間はそんなに長くないし、英語を使う必要があって実際に使う時間はもっと短い。それを度外視して「何年もやっているのに」という前提で語るのは、はっきり言えば、「英会話産業」(別名「異文化コミュニケーション産業」)の宣伝文句に踊らされているだけではないかと思います。;-)


4) いっそのこと英語の学習は中学校からに戻して、さらに選択授業にするというのはどうでしょうか?

「小学校での英語」をリセットし、「中学からに戻す」のは賛成です。その上で、より内容の濃い指導をしていくべきと考えます。


「選択授業にする」については、「中学校の教科書(検定教科書)」では扱えない語彙などをがんがん使って、その人(生徒)が本当に言いたいことを言うための場を設ける、という方向での「選択科目」ということなら、賛成です。例えば、サッカーをやっている中学生が、「昨日の試合では、守備の集中が切れたから失点につながった」ということを言うにはどうしたらよいか、というときに、現状の教科書では語彙が足らないから表せない、というナンセンスがあります(文法的には過去形とbecauseが使えれば言える内容で、中学2年で可能)。一方で、教科書では別に面白くもない優等生的会話(ケニアからの留学生と寿司について会話していたりする。シュールすぎ)、これでは学生が主体的にってのは「無理!」です。


……以下、長いので分割して、あとで投稿します。


[15]>14 パート2 nofrills

さっきの投稿の続きです。


5) 1年生の時にはアルファベットと簡単な会話だけを覚えるとして、2年生以降は外国語を選択させる。英語を受けない人は、ほかの外国語から選ぶとか。

アルファベットは小学校でやったほうが合理的だと思います。というのは、「ラテン文字」は日常生活にあふれているので。ただしその「文字」を教えるには「ローマ字(日本語)」で十分と思います。(なお、左記は自分が教育を受けたときのやり方そのもので、たぶん私は非常に保守的なことを言っているのだと思います。)


「外国語の選択」に関しては、教員がいるかどうか、そもそも「外国語」を積極的に学びたいという中学生がいるのかどうか、いた場合、例えば学校に1人だけドイツ語をやりたい生徒がいたときに対応できるのか、といった点で微妙、もしくは反対。「外国語学習」を「能力・余裕・関心のある学生だけがやる何か特別なこと」にしてしまうのはあまりよくないのではというのが基本的考えです。(英語を第一言語とする国での「外国語のできなさ」の惨状、「外国語」という存在に対する認識のなさを見れば、そう思いもします。)


6) 国際社会で英語が必要なのはわかりますが、身にならないことを延々と続けても意味がありませんし、時間とお金の無駄ではないでしょうか。

何を以って「身になる」とするか、によって答えが変わってきます。論文を英語の学術誌に出す必要のある生物学者は、ペラペラと会話ができなくても、論文は書けなければならない。英語が主要言語である会社で働く人は、仕事で必要とされる範囲の言語活動が英語でできなければならないが、生物学の論文は読めなくてもいい。英語圏からの観光客が多い地域の飲食店の従業員は、客にメニューを説明でき、客の注文をちゃんと取れればいいが、論文も、フォーマルなビジネスメールも必要ではない。で、そういうことのベースになるのが、義務教育の英語だと思います。それを「ベース」と見なさずに、「それだけですべてをやってくれる」と見なしているから、過度な期待みたいなのが出てくるのでは。


7) 今の英語教育では、「英語は話せなくても恥ずかしくない!」と思います。

「話せない」ことは必ずしも「恥ずかしく」ありません。「話す」ことがすべてであるかのように言われるのがおかしいと思います。日常生活で英語を使う場面がないのに、「日常会話を英語で」なんてことが気安く語られすぎです。「日常会話」なるものは、あまりに身近すぎるゆえに実は「難しい」のだという事実が、まず、もっと広く認識されてしかるべきです。


8) 小さい頃から「国際化の時代に君たちは?云々」とかいう説教を食らいながら、そのくせ成果のでない英語の授業を受けている子供がかわいそうではないでしょうか?コンプレックスを植え付けられているかのようです。

私は成果の出ない算数・数学の授業を、小学校1年生から高校3年まで受けさせられ、コンプレックスを植えつけられました。(←言うのもヤボですが、左記は「冗談」として読んでください。ニヤニヤしながら。)


[16]>15 こんなに回答をしてもらえるなんて感動です。 Nigitama

書き殴った質問にもかかわらずありがとうございます。


[17]>13 シャイな日本人 gday

それと、「日本の英語は文法に偏っている」というのが「真」であるかどうか、また、そこから導き出されていると思われる「日本人は文法はできる」ということが「真」であるかどうか、非常に疑問です。むしろ、「文法的な間違いを恐れて英語を使うことを恐れるという本末転倒が発生している(ことがよくある)」と言い換えるべきです。

これについては賛成できる部分とそうでない部分があります。

「べきである」ということについて言えば同意です。いわゆるシャイな日本人ですね。かつての私もそうでした。おおむねほとんどの日本人にあてはまると思います。

しかし、『「文法ができる」ということが「真」であるかどうか、非常に疑問です。』については現在他の非英語圏の英語学習者と英語で話をする機会が多いのですが、相対的に日本人は文法がまともだと思いますよ。他の非英語圏の人達は結構達者に流暢に会話しますが往々にして文法が苦手(分かっていない)という状況をしばしば目にします。これの原因は日本人は座学(=文法中心)で英語を覚えるのに対して彼らは耳と口で英語を覚えるので組織的に文法を覚えている訳ではないという事情によります。あくまでも相対的なことですが、私は「真」であると実感しています。


[18]>17 なるほど! nofrills

「日本人は文法はできる」という言い方の「日本人」が、具体的に誰のことなのかが食い違ってしまったようですね。「ふだん英語を話している(使っている)日本人」については、異論はありません。


「日本人は文法はできる」という言説には問題があると私は思っていて、それはその「日本人」が「日本人一般(日本の学校教育を受けてきた人)」であるかのように扱われ、特別に英語を勉強していない人の多くが、「中学高校と6年間も習った」にも拘らず、謙遜でなく本当に「ノー・イングリッシュ」な状態であることから、「学校英語は文法ばかりで実際には役立たない」といった、非常に極端な「文法否定論」みたいなものが、まま見受けられるためです。また、「文法」の全否定はしていないにせよ、今の教科書での「文法」という語の居場所のなさ、「一般の日本人」を相手にした場合の「文法」という語の受けなさは、かなり残念に思っています。「文法」がdirty wordであるかのように扱われるのは、しのびないです。


ゆっくりと時間をかけて、体系としての(英語の)文法を学べることは、日本の英語教育ですぐれている点のひとつなので、それは文部科学省にも忘れないでいていただきたいものです。「文法が嫌なら/文法ができても会話ができないのなら、『文法』をなくせばいいじゃない」というのではなく、「しゃべりまくれないのなら、文法をやって、応用の場を作ればいいじゃない」という方向に向いてほしいと思っています。いきなり「イタリアの人やスペインの人のようにしゃべりまくれ」と言われても、日本の人にはたぶん無理ですし。


[19]まずは日本語の力を otayori

私は長年語学を勉強したわりにイマイチの語学力です。

特にヒアリングと読解力。話すのも簡単な言葉だけです。

気がつけば、日本語で本をあまり読まなかったから

「だいたいの意味をつかむ力」がどの言語でも足りなかったようです。

でも旅は度胸があれば、ガイドブックを参考にすれば

他の言語でもカタコトやゼスチャーで通じることが多いのも知ってしまいました。

外国の普通の人は、英語の話せない人もいるので、自分の国の言葉で説明します。

話せる人も通じなかったとき初めて、英語の単語を使うので

かえってカッコイイな、と思いました。

中学英語をしっかりと学べば、あとは仕事で必要な人だけでいいかも?

なんて思うことがあります。海外に興味のない人もいるでしょうし。

もし英語を身に付けるなら、その英語の勉強量を増やすより

日本語力と違う価値観の人を理解する心を養うのが先かな?と思ったりします。


[20]そんな雰囲気 もちろんあります morite2

ものすごくありますし

英語に限ったことではないとの意見もありますが

圧倒的に英語ができる人に生徒はあこがれます

少しでも発音がいいと生徒の目は変わります。


お金と時間の無駄というのは「その通り」だと思います

今の日本では英語ができないと生きていけないというようなことはありません

言語としても全然違います

一方ヨーロッパ特にスペインや北欧の国では生活に関わることなので英語がうまい人が本当に多いです

こんな状態では残念ながら留学するか、アメリカンスクールに行くかしないと英語は身につきません(少なくとも「しゃべれるようになる」というのを目的とした場合)。


[21]>10 同意見です takaramonob

全く同じ意見です。

加えて言わせていただきますと、「今の英語教育では」という点で、英語が話せなくて恥ずかしい場面に居合わせる子供がいるとすれば、それは、別のスレッドにもありますように、”英会話教育”に通ずる環境にある子供でしょうね。

親の「したほうがいい」「しなさい」は、子供の(人生の)時間の過ごし方に大きく影響しますが、当の子供本人は、親の言うことを自分の意思を決定付ける材料にはしていないと思います。

大人の知っている世間では、たしかに英語が話せると立場がよくなる機会はあると思いますが、子供の世界では、自慢のタネぐらいにしか機能していないんじゃないですかね。

年齢にもよりますが、純粋に自分の意思だけで英語を話せるようになりたいと強く願っている子供なんていないと思います。

かと言って、成果のでない英語の授業を受けている子供がかわいそうとも思いません。

私個人としては、小さな子供の英語教育は無意味と思っていますけど、一般的には、親がしたほうがいいと言えば、子供も「きっとそのはず」という反応をしていると思います。


[22]>19 そうですね。 takahiro_kihara

僕も、最低限必要な語学力は現状でも中学までの英語教育で身につくのではないかと思います。

あとは、その人が必要な語彙なり会話の仕方なりを、実際に身につけていくのが良いんでしょう。

「習うより慣れろ。」とも言いますし。

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