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日本美術における「南都復興」とはなにか、要点をわかりやすく教えてください。

●質問者: neyorawa
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
✍キーワード:復興 美術
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

▽最新の回答へ

1 ● martytaka
●50ポイント

治承(じしょう)4年(1180)、平氏の南都(なんと)焼き打ちにより、東大寺・興福寺は甚大な被害を蒙(こうむ)りました。東大寺においては、大仏殿が焼け落ち、本尊盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が大破したのをはじめ、堂塔伽藍(どうとうがらん)の多くが、内部に安置されていた幾多の尊像とともに灰燼に帰しました。しかし、平氏の没落と源頼朝の覇権確立を背景に、後白河法皇をはじめ、朝野をあげて復興に取り組んだ結果、建仁(けんにん)3年(1203)には東大寺総供養が行われるにいたりました。

この間、東大寺再建の大勧進(だいかんじん)として諸堂・諸仏の再興に尽力したのが、中国・宋を三度にわたって巡礼した経験をもち、当時すでに六十歳を超えていた俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)その人です。重源の指導のもと、大仏の再鋳(さいちゅう)や大仏殿の再建、仏堂内の諸仏の造立が次々と実現してゆきますが、その過程で、仏像の世界では巨匠運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派仏師(けいはぶっし)によって写実性と躍動感に富んだ鎌倉彫刻が成立し、また建築の分野では大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる新しい様式が開花しました。この鎌倉新様式は、奈良?平安前期の古典的美術と、新しく渡来した宋様式の研究・消化によって確立したと考えられますが、重源がその成立に大きく関与したことは疑いありません。

また重源は、東大寺再興のための拠点として、周防(すおう)・播磨(はりま)・伊賀(いが)・摂津(せっつ)等に別所(べっしょ)を設け、ここにも重源独自の思想にのっとった形式の仏像や舎利(しゃり)関係の工芸品などが納められました。若くして醍醐寺に、つづいて高野山に入り、真言僧として歩んだ重源の思想の根本には、真言密教の土台の上に築かれた阿弥陀・舎利信仰があったと考えられますが、天平の昔、大仏鋳造に献身的に協力した高僧行基(ぎょうき)の存在も大きな影を落としていたはずです。

◎質問者からの返答

ありがとうございます。ただちょっと、詳しすぎるという意味でレベルが高く、日本史に明るくない私にはやや難しいです。こどもニュース的な要約もいただけると助かります。よろしければよろしくおねがいします。いろいろとすみません。


2 ● nofrills
●45ポイント ベストアンサー

まずは百科事典を。

http://jp.encarta.msn.com/text_761577854___24/content.html

1180年、平重衡の南都焼討ちによって東大寺、興福寺の伽藍と仏像の多くが焼失したが、その復興事業が建築界に新風をもたらすこととなった。

上記百科事典の内容を要約すると、重源という人が中心となって進めたこの復興事業では、「力強い構造をもち、豪壮な印象をあたえる」新しい様式の建築物が出てきたが、「従来の穏やかな和様との隔たりが大き」かったため、重源のあとはすたれてしまったそうです。


これを踏まえて1番のご回答をお読みになると、頭に入りやすくなるのではないでしょうか。上のURLには代表的な建築物の名称も出ていますので、重源の「力強い」様式のイメージはつかみやすいかと思います。


また、彫刻の分野では、「南都復興」といえば「運慶、快慶」。写実性の高さ・力強さが第一の特徴といえると思います。以下に参考となるURLとその抜粋を列挙します。


DVD「日本の国宝・至宝」の紹介文:

http://www.vortex-int.co.jp/shop/324.html

第10集【南都復興 運慶・快慶】

新時代、鎌倉美術の開幕は東大寺、興福寺などの南部復興にはじまる。この大事業のなかから巨姿をあらわすのは運慶・快慶を代表とする慶派の仏師たちだった。平安時代後期の夢幻的奈仏像表現に対して、運慶の造形は写実的で力強く、雄大重厚な迫力に満ちている。快慶の表現は理知的で、その作風は安阿弥様と呼ばれ、多くの追随者を輩出した。


彫刻文化財の基礎知識:

http://www.tokyogeidai-hozon.com/lecture/2005-2006okada/okada.ht...

南都復興で運慶快慶などの奈良仏師が活躍し、天平仏や宋文化、武士文化が反映した脈動的で写実的な表現が完成される。

写実表現の一つとして目に水晶を嵌入する「玉眼」が多用されるようになる。


展覧会紹介文、「興福寺国宝展 鎌倉復興期のみほとけ」:

http://www.tokyoartbeat.com/event/2004/561B

1180年……の南都焼き討ちでは、 寺中の堂宇がことごとく炎上焼失するという未曾有の災禍を被ります。復興は翌年から始まり、13世紀前半にかけて堂宇の再建や諸仏の造像がなされていきます。 この復興造営のなかで、明円、院尊らとともに、康慶、定慶、運慶など「慶派」の優れた仏師が造像を担当し、 鎌倉仏教彫刻の新潮流を切り拓いていきます。復興事業のために組織された絵仏師の座である南部絵所では、 彫像の彩色だけでなく、厨子絵や仏画、垂迹図、絵巻などが制作され、伝統的な大和絵に新たな息吹を吹き込みました。……


「慶派」のおはなし:

http://butsuzo.at.infoseek.co.jp/keiha.html

「慶派」の仏像の特徴は?

それまでの平安期の仏像の穏やかさや気品を残した上でさらに力強さが加わり、そばに近づいただけで睨まれているようなリアルな玉眼(頭部の内側からガラス、水晶などを嵌め込んだもの)、ぷりぷりした張りのある太い腕、流れるような衣紋など写実性に富んでいます。


興福寺文化講座「定朝と運慶」籔内佐斗司(彫刻家)

http://www.geidai.ac.jp/labs/hozonchokoku/aboutus/yabu/concept3/...

灰燼に帰してしまった東大寺や興福寺が復興されたときに、中心となって仏像を作った仏師集団を総称して慶派といい、そのもっとも充実した時期の棟梁が運慶でした。……


《……ここに具体例の解説をはさんで……》


私は冒頭に、平安末期の仏師たちについてお話しました。彼らは、定朝様式という造形的にはほとんど区別のつかない仏像を営々とつくり続けました。これは、時代の要請であったわけです。鎌倉時代の慶派仏師たちは、ひとつひとつまったく違う個性を持って見間違えることのないほとけさまを作りました。信仰の対象を作る仏師としてどちらの姿勢が、よいのか軽率には言えないと思います。その時代に適合しえたから、それぞれの時代で素晴らしいしごとを成しえたのだと思います。……

◎質問者からの返答

ありがとうございます。ご提案のとおり、1番の方にもどって読んでみたらとてもよくわかりました。

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