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終戦記念日ですね。

あなたがこれまでにご両親やおじいさんおばあさん、親戚などから聞いた、戦争のお話を教えてください。
いわしですので戦争にまつわる色々なお話もお気軽に色々とどうぞ。

あと、しても損するわけでもないですし、できれば正午の黙祷もどうぞ。

●質問者: hokuraku
●カテゴリ:学習・教育 生活
✍キーワード:あなた いわし お話 戦争 終戦記念日
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 31/31件

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[1]山二つ超えて食料を買いに。 hokuraku

滋賀県は信楽町に住む祖母に昔聞いた話です。


田舎なので直接空襲を受けたなどの話はなかったのですが、山間の町であり物が不足しがちだったのでしょうか、食料の買出しをするために山を二つ(歩いて)越えて買いに行ったそうです。

どちら方面に行ったのかは分かりませんが、一日がかりの距離だったとのこと。

当時は20代だったと思いますが、琵琶湖岸あたりまで行けたのでしょうか。

そのときの彼女の一歩一歩がなければ、私も今ここにいなかったのかもしれません。


[2]召集令状配達人 eiyan

昨夜のテレビ放送で召集令状配達人を紹介していましたね!

100歳に近いその老人は終戦により配達する必要のなくなった未配達召集令状を軍から返却の要請を無視して保管保存していました。

歴史を語る上での証拠書類を現実視させました!

召集令状!人生を変えてしまう恐怖の令状は今でも現存するのですね!?


[3]200km以上離れた場所の爆撃 miraa

今は亡きじいさんから聞いた話ですが、じいさんが住んでいた場所から直線距離にして200km以上離れている場所に、

大きな鉄工所(武器も作る)があり、そこに連日、空から爆撃がなされていたそうです。

そして、その爆撃のドドドドドという音が、200km離れたじいさんが住んでいた場所にも毎日聞こえたそうです。


[4]>1 食料確保 eiyan

戦時中は食料確保は必須命令です。

雑草であれ栽培野菜であれ何でも食料にしてしまいますね。

今では考えられえない環境では死に物狂いですからね!


[5]原爆の話 tadatarai

原爆の煙を見たとか、近所の○○さんはその時たまたま市街地に行って帰ってこなかったとか、その後、海が大変だった(詳細省きます)とか、いろいろ親戚や母から聞きました。祖父母からは、よほど大変だったのか言いたくないと言っていました。


[6]いつの時代でも母は強し。 gon0604

今は鬼籍に入っている我が爺さんは、昔風呂に一緒に入ってる時に

弾痕を見せてくれた。ワシはまだ子供だったので、無邪気に聞いた。

「じーちゃん、これなあに?」

「満州で撃たれてなぁ。痛かったぞー。」

「じーちゃんすげえ!無敵じゃん!」

そんな爺さんも故郷に帰ってからは結核にかかったらしく、婆さんが必死に

働いて、三人の子供と爺さんを一人の稼ぎで養ったらしい。

おかげで爺さんは婆さんに生涯頭が上がらなかった記憶がw


[7]当時17歳だった亡父の話 maki_tetsu

父は昭和2年生まれで、旧制中学校時代に終戦を迎え、そのまま旧制の私立東京専門学校に入学(卒業時には早稲田大学)しました。一番多感な時期に軍国主義を経験したこと、敗戦とともに、あらゆる既存の価値観が一変してしまったことに大きな衝撃を受けたそうです。


父は神奈川県の川崎市に住んでいましたが、工業地帯だったので米軍の格好の標的でした。ある空襲の際にたまたま逃げ遅れたか何かの理由で、防空壕の外に出ていたことがあったそうです。

父は、実家の2階から、米軍の戦闘機が超低空飛行で街を機銃掃射しながら飛び去って行く一部始終を目撃していたそうです。そのとき乗っていたアメリカ人パイロットと目が合った、とよく言っておりました。

(実際、そこまでの低空飛行を行っていたものなのか、動体視力から考えてパイロットの顔まで認識できただろうか、と幾つかの疑問はありますが・・・)


終戦間際、まだ高校生だった父ですが、学徒動員により呉港で工員として赴任の予定で、出発は8月と決まっていたそうです。

もしもう少し早く赴任していたら、直接被爆していたか、無事であったとしても、救助活動の応援等で間接的に被爆していただろうとのことでした。これもよく聞かされました。


最後に有名な話ですが、天皇陛下を隠語で「テンちゃん」と呼んでいたこと。もちろん、家族や親しい人たちの間だけだったようですが。

父はもともと歴史の勉強が好きで理性的な人だったので、天皇崇拝について比較的冷静な視点を持っていたようです。それでも、戦後になってついこの前まで読んでいた教科書に墨を塗り、それまで発禁処分であった論文を読んで自分の知らなかった日本の歴史を知り、といった具合に、全部の価値観、思想がひっくり返ったことでかなりの衝撃を受けたと言っていました。

ですから、もっと純粋に軍国主義を信奉していた人たちにはそれまでの人生がすべて否定されたような感じだったのではないでしょうか?


[8]うちの町は爆撃されずに済んだ miharaseihyou

それなりに大きな工場はあったのですが、軍需物資の優先順位が低かったらしくて数発で済んだようです。

敵方の調査能力に感謝かな。


[9]じゅうたん爆撃と右手の太さの焼夷弾とおばあさん toukadatteba

去年長岡でバイトしてた日が長岡空襲があった日でした。バイトの合間に昼飯を食べようと着席したものの、大混雑の席で、おばあさんと相席になりました。

なんとなく、お互い青春に何していたかという話になり、おばあさんは学校に行きつつ、竹やりの訓練やら、焼夷弾を見た話やら、もりあがりました。

空襲の日ということでふと、長岡空襲はうけたかときいたところ、もちろん、とのこと。


「ある日、もの飛行機の大群が空を覆ったの。でも、それに対抗する日本軍はもういないからねぇ、みんなでにげるのよ。円を組んでアメリカの飛行機はやってくるんだけどねぇ、それが焼夷弾とか証明弾を落とすわけ。照明弾ってしっているかしら、辺りを明るくするための爆弾なんだけどね、あ、空襲は夜あるから明るくするのよ。それがぴかっとひかると辺りは昼みたいになってものすごく恐ろしいの。

で、そのあと焼夷弾がおちてくるんだけど、あなた焼夷弾ってしってる?(なんか爆弾ですか?といった)焼夷弾はね、爆弾であっているけど、一本こんな腕みたいな太さでね、それが16本まとまって空中で炸裂するのよ。学校の訓練で消すとかいっていたけど、そんなのできるわけないから皆で逃げたのよ。

私は山までなんとかにげられた。それでね、山の上からねぇ、みえたのよ飛行機の大群が。

その日はじゅうたん爆撃だったのよ。円陣を描いた飛行機がね、山から、町を囲み爆弾を落としていたの。その輪は徐々に狭まってね、最後に真ん中を爆撃しておわるのよ」

恐ろしいなぁ、とおもって、おばあさんを見ると、おばあさんはそういったあと、にっこり笑いました。

「だからね、この町はとっても交通が便利なのよ。なんにもないところに、あたらしく全部作り直したの」

いやはやずぶとい。そして、前向きだなぁと。


[10]必ず・・・ to-ching

8月15日の終戦記念日は黙祷を誰も居ないところで一人行ってます、原爆の日も同様。色々書きたい事はありますが、若い命が沢山亡くなりました。今の糞餓鬼どもはアメリカとの戦争も知りません・・・。日本の未来は暗いですね。


[11]シベリア抑留 tinkiti

父方の祖父(故人)は満州からシベリアに抑留されたそうです。

多くの仲間を失ったそうです。


[12]祖父祖母の話 yukkie2071

父方の祖父は戦傷がもとで早くになくなりました。

父方の祖母いわく、広島投下の日には瀬戸内海を挟んでもはっきりと明るくなったそうです。

母方は双方健在ですが、届きもしない速射砲を爆撃機に向けて射撃しながら祖父は終戦が近いことをしったそうです。

60年経つと、当時2・30代だった人も8・90代ですよね。

「平成生まれ」と人括りにするつもりはないのですが、真珠湾がどういったものだったかさえ知らない若者が増えてきているような気がします。

いい意味で「戦争を知らない子供たち」が増えていってほしいと思う今日この頃です。


[13]特攻隊 a-nation

祖父から聞いた話ですが、


私の曽祖父は特攻隊員に選ばれ、1945年8月15日に出撃の日を向かえました。

しかしちょうどその日に終戦を向かえたため、出撃は中止になったそうです。

それから戦争が終わって平和な時代が訪れ、曽祖父は歳をとり寝たきりになりました。

もはや意識がなかったので、横にいる幼い日の私のこともよく分かっていなかったと思います。

そんな状態の曽祖父がたまに無意識に漏らしていた言葉が「戻ってきてごめんなさい」でした。

祖父の話によると、「お国のためにあのまま敵の艦隊に突っ込みたかった」と曽祖父はよく語っていたそうです。


ゆとりの産物である(厳密には違いますがw)私にはその気持ちは理解できません。


[14]うちの叔父が海軍のスパイっぽいです。 motsura

うちの叔父は海軍のスパイやってたっぽいです。

酒が入ると武勇伝を語り出すのですが、パールハーバー前に零戦で米軍の潜水艦を威嚇したとか、

いの一号に乗ってて足に魚雷が刺さったとか、武蔵に乗って南方に向かってたとか、本当なら歴史と違うようなことばっかり言ってます。

ただの酔っぱらいの話だと思って聞いているんですが、にしては臨場感あるし、広島の山奥在住なんですが、一時期は赤坂に住んでたらしいし、同期の桜(?)はのちに江田島の海上自衛隊学校の校長になってるし……

死ぬ前に大量の酒を飲ましていろいろ聞き出してみたいのですが、叔母と仲が悪いのでなかなかチャンスがなくて困ってます。


[15]>11 うちの祖父もでした omotimotitto

抑留された方たちはとても辛い目にあわれたのだろうなと思います。

もう戦争は起こってほしくないと思います。


[16]>13 知覧の記念館に行ったことがあります hokuraku

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A6%A7%E7%89%B9%E6%94%B...

知覧特攻平和会館


大学院生の頃訪れました。

館内に流れる静かな音楽。

解説をしている男性の声に混じって、訪問者の小さくすすり泣くような声が時々聞こえてきました。

たくさんの遺影に写っているのは兵士というよりは高校生くらいの男の子たち。

ほんの少しのことで、a-nationさんの曾お祖父さんもここに並び、そして私もこの回答を見ることもなかったのかもしれませんね。


[17]腹痛になった abc1cba

おじいさんが東南アジア?に出兵して現地にあるバナナを食べたら(当時はバナナが珍しかった)

腹痛を起こしすぐ病院行き。結局戦場に行かずに終戦、帰国しました。

まぁいろんな意味で無事帰ってこれてよかったです。


[18]大叔父はこの日に特攻隊で死ぬ予定だったそうです shimarakkyo

いわゆる戦時中の教育を受けた世代よりもちょっと上だったので、「お国のため、天皇陛下のため」と言われても全く納得出来ず、死ぬ事だけが決まっていて、「ものすごい極端な精神状態の波」を潜り抜けて、ようやくその日の明け方に覚悟を決めて「死ぬんだ」と受け入れたら戦争が終わっていた、と。


それからしばらく腑抜けのようだったと言っていました。「こっちに帰ってくるのが大変だった」と。


大叔父とその話をしたのは小学校の時に一回きりです。4年前に亡くなりましたが、もっと色々な話がしたかった。しておけばよかったと後悔しています。


黙祷。


[19]>9 うわあ、すごい。。。 shimarakkyo

にっこり笑ったおばあさんの一言に、不覚にも読んでいて泣きそうになりました。

そうやって前向きに笑えるまでにどれだけの事を乗り越えなきゃいけなかったのかは知る由もありませんが。


人ってすごい。強いなあ。。。


[20]>7 maki_tetsuさんのお父様よりも大分年下ですが、私の父も「おテンちゃん」と言っていました。 shimarakkyo

父は、ばりばりの60年安保&べ平連世代です。


たまたま赴任が遅くなったり、早くなったり、偶然、外にいたか、いなかったかなんてもので多くの人間の生き死にが決まってしまうのですから、戦場とは不条理なものですね。


[21]>17 あははは shimarakkyo

わたしのじい様は「ゲートルなんてかっこ悪いもの履きたくない」一心で、出兵先で一晩裸で池に浸かって肺炎を起こして病院に運ばれ、そのまま終戦を迎えたそうです。


根性あるんだかないんだか。


でもそうやって笑い話が出来、90で大往生を遂げることが出来たじい様を持てた私は幸運だと本当に思います。


[22]虎を捕まえる keisuke09

虎を捕まえて飼っていたという話を聞いたことがあります。

結構飼いならしたそうですが・・・


[23]豆まき?? to-ching

と思った機銃掃射、その様に聞こえたそうです。伏せても着弾率は変らない?と質問しましたが「本能」との答えあり。


[24]蒲団部屋 to-ching

艦載機からの空襲は当たり前になってしまった頃、旅館を経営している家の娘とその姉妹は。あまりの機銃掃射にビックリして、今度空襲があった時はうずたかく積まれた蒲団部屋に逃げ込む計画を立てていたそうです。しかし、次の空襲にあった時はその凄さに腰を抜かしてしまって、ただ伏せていたとのこと、何とか無事でやり過ごしたのですが、例の

蒲団部屋に行ってみると、高く積まれた蒲団は全て粉々となり、綿もぐちゃぐちゃとなっていたとのこと、マニュアル通り(?)その部屋に批難していれば彼女らの命は無かったと言うことです。


[25]何もない山の中の不発弾 nofrills

母は物心がつく前に戦争が終わっていた、という世代です。母の暮らしていた町は、古くからの街道筋であるという以外は特に何の特徴もないところで、工場などもなく、都市空襲の対象となることもなかったのですが(むしろ、都会から子供たちが疎開してくるような町です)、小学校のころに近くの山の中での不発弾処理を見物したことがあったそうです。


その山というのが、本当にただの山で何ら攻撃対象などなさそうなところなので「なんで?」と思ったら、山のはるか向こうに発電所があり、送電線が軍事標的になっていたのだそうです。


米軍はあんな山の中の送電線まで把握していたのだなあということが、話を聞いたときはショックでした。そして、町からそんなに離れていない山の中に爆弾を投下し、町には落としていないということ、別な側に山を越えたところに開けている都市は何度か空襲を受けて破壊されていることなども考え合わせると、当たり前のことですが、戦争での破壊は綿密な調査と計算に基づいたうえでなされるシステマティックな破壊である、ということが実感されてなりませんでした。


[26]>15 日本政府は to-ching

何の行動、抗議をしてません、納得の行かないことです。何故?彼らの苦痛を考えると、北方領土は全て返還すべきです。または、個人的に何らかの補償があっても良いのでは?戦争終わってからですから・・・


[27]徴兵されなかった祖父の話 to-ching

何故徴兵されなかったのか・・・不明、農家の息子だから「こね」なんかも無い、そんな彼はやはり警防団の一員になりました。空襲である中学のトイレに爆弾が落ち、一面汚物だらけ、悪臭が酷く借り出され始末をしたとか・・・。(もちろん水洗ではなかったですから)


[28]戦争が終わって to-ching

母親の家は、某有名なアメリカのキャラクターの名を冠した(今では立派な著作権侵害)洋裁店を営んでいたようです。GHQが上陸当然その看板は彼らには眼に留まります、懐かしいと言うことでしょう。当時中学生くらいだった母親は若い水兵さんに大人気?で他の日本人よりも沢山のタバコ、チョコ、ガムを貰ったようです。その時の写真もあります。あの時の水兵さんもほぼ亡くなってしまったのでしょう。


[29]>5 あのタイミングで落としたから・・・ to-ching

アメリカ軍の良い訳の一つ「あの爆弾で今後失われると考えられる、数百万の命を救った」どう考えますか?


[30]金属供出 nofrills

ふと思い出しました。


子供のころに住んでいた街で、夏休みに、地域のお寺さんに通っていたことがあります。確か禅宗の、なんということもない小さなお寺さんなのですが、かなり古くからあるとのことで、ご住職がその地域についていろいろな話をしてくださいました。


その街は、とある軍需企業の大工場があったので、何度か空襲にさらされているのですが、工場のあるあたりはめちゃくちゃに破壊されたけれども市街地はほぼ無傷で、お寺さんの建物などもすっごく古いものでした(←子供だからやたらと大雑把な認識しかしていないので、正確な年代はわかりません)。ところが鐘だけはわりと新しい。それはなぜか、というお話で、戦時中の金属の供出について私は初めて知りました。


検索してみたら、「戦争の末期に各地で金属の供出が行なわれた際の写真」がアップされているのを見つけました。

http://okadakoike.blog.ocn.ne.jp/nikki/2007/02/post_3b32.html


金属の供出についての説明は:

http://www.e-obs.com/heo/heodata/n211.htm

火鉢や仏具が回収されたことは聞いていたのですが、貴金属としてネクタイピンやバックルまで回収されていたとは、今の今まで知りませんでした。


[31]防空壕 atdai

祖父からも、祖母からも、両親からも、親戚からも

『あそこの防空壕に逃げ込んだ』

『逃げ込んだ防空壕のすぐ近くに爆弾が落ちた』

と、幼い頃から聞いています。

黙祷(-_-)

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