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景清の「錣引き」とはどういうエピソードですか?

●質問者: neyorawa
●カテゴリ:旅行・地域情報 芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

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1 ● masanobuyo
●60ポイント

「錣引き」は、1185年(元暦2年2月19日夕刻)『錣引き』(しころびき)、源氏の十郎と平家の景清の一騎打ちで、景清が十郎の錣(兜の後)に熊手を掛けようとして四度目に掴んで引き合ううちに、錣が切れて十郎が逃げ延びる。「遠からむ者は音にも聞け、近くば目にも見給え。これこそ京童の呼ぶなる上総の悪七兵衛景清よ」…十郎の錣を長刀(なぎなた)の先に高く掲げた景清が名乗る話です。


http://waiwai.map.yahoo.co.jp/spot?sid=ilIrLr6Gh9SMj4PwVwX02wEX7...

http://209.85.175.104/search?q=cache:8pAR2JEy4hQJ:ja.wikipedia.o...


2 ● dfo
●10ポイント

http://sutekinaomaturisyasinnkan.web.fc2.com/kagekiyo.html

3、錣引(壇ノ浦景清)

平家一門は源義経の度重なる奇襲戦法に敗れ、ついに本州の端、下関壇ノ浦まで追い詰められていた。ここで敗れれば平家は海の藻屑と消えてしまう。平家方はどうしても源義経一人を葬って戦局を打開する必要があった。そこで平教経(たいら の のりつね)は平家一番の猛者、悪七兵衛景清を呼び寄せ、義経を討つように命じる。景清は大薙刀(おお なぎなた)を抱え壇ノ浦の浜縁を駆け巡って義経を探し回り、これぞという武将の姿を認め、勝負を持ちかける。その武将は義経ではなく坂東武者の三保の屋(みおのや)であったが、三保の屋は逃げるところを呼び止められた恥をすすごうと景清の勝負を受け、激しい一騎打ちとなる。戦況不利と見た三保の屋は隙を見て逃れようとするが、景清はその兜の後ろの部分、”しころ”をがっちりと掴んで離さない。両者”しころ”をはさんでの引き合いとなり、ついには頑丈に作られているはずのしころが引きちぎれてしまう。両者互いに倒れこみ、向き直って互いの強さを誉めあう。「景清どのの、腕の骨こそ強かりき。」「三保の屋どのの、首の骨こそ強かりき。」。

盛岡八幡宮山車資料館の壁面に貼られている戦前の鉈屋町の絵紙が、景清伝説の代表ともいえるこの場面の山車の唯一の製作例である。沼宮内愛宕組の『悪七兵衛景清』(平成18年)も錣引の一場面と思われるが、薙刀を持っているだけで兜は掴んでいなかった。大薙刀はその人物が景清であることを連想させるための小道具である。


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