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言語学者の鈴木孝夫は、言葉の意味とは、「ある音声の連続(イヌならイヌということば)と結びついた,ある特定個人の経験や知識の総体である」といいます。

音声符号(記号)である言葉そのものは意味をもたない。聞き手や読み手は、自分たちの経験や知識にもとづいて、送られてきた符号を意味へと置き換え、意味を符号に置き換えているということです。

だから、聞き手や読み手が未経験、未体験の言葉を受け取っても、その言葉は正しい意味をもたらしようがない。

だとすると、「地球環境問題」という言葉は、あなたにとっていったいどのような意味を持っているでしょうか。

あるいは実はあなたにとってはまだ今の時点では意味を持っていないでしょうか。

ちなみに、ジャン・ボードリヤールは、消費社会において記号は意味を持たず、「意味するものの同語反復」という表層的な記号が記号のままで飛び交う状態を指摘していました。このような状態に近いでしょうか。

(おまけ:上の鈴木孝夫の意味論に対して、異論がある方はどうぞ。)





●質問者: ShinRai
●カテゴリ:科学・統計資料 人生相談
✍キーワード:あなた イヌ ジャン・ボードリヤール 地球環境 消費社会
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 31/31件

▽最新の回答へ

[1]まったく体験がないわけではない。 hiko3karasu

人間は思考し、予想することはできます。実際に環境悪化による弊害を経験したわけでなくても、地球環境問題について見聞きし考えることはできますのでまったく経験がないわけではありません。

もっとも考えたことと実際に経験したことが同じとは思えないのでそこの体験の差はあると思います。


[2]地球 + 環境 + 問題 Chiether

環境は、私が常日頃の生活で実感しているものです。

問題は、私が常日頃の生活で実感しているものです。

地球は、意識が希薄であると社会的に問題になりました。

意識が希薄であるままに、地球について語ろうとしても難しいものですが

そのかわり「地域」に置き換えた「地域環境問題」は、地球環境問題よりは理解できます。

他所の話を聞く分には、ソレ(地域環境問題の拡張版)という認識で構わないのでしょうが。 行動する時には不便そうです。

行動が不便なのは、正しく認識できているかどうか不安のまま(是非の判断が弱いまま)行動に移そうとするからではないでそうか。

だから多くの人は、言われるがままに動くのでしょうし。 そうすることでそれが後に間違いが判明してもショックが和らぐのでしょう。

ジャン・ボードリヤールの『記号』は、、音声符号(個人的には、音声波形と言いたい)とは完全に別物でしょう(便宜上、ジャン記号と呼びます)。

「地球環境問題」という一連の言葉に、ジャン記号の存在を認めるのであれば

その記号に対して、ジャン記号に、消費意欲を煽るような甘いコーティングがなされた。 下手するとジャン記号とまったく無縁、あるいは正反対の商品、マーケットが提供されるでしょうし。事実そういった部分も消費社会の中で実際に生じています。 さらに困った事に、そういったジャン記号を無視した話題に言われるがままに動く人が居るようにも感じます。

# ジャン記号については、それが日常生活の慣例となってしまっているような事にまで割り当てていくと話が尽きなくなりますな。 つまりそういう性質を持った話題、定義、概念であることにも注意すべきです。


[3]>1 同じ意見です bei_koyata

「環境問題の中で、広域に問題を及ぼすもの」と捉えます。

環境問題にぶつかった経験のない人はいないでしょう。環境問題の全体像を捉え切れなくても、部分は分かる。部分が分かれば、それが広域に問題を及ぼすか、どんなものが広域に問題を及ぼすかは想像できます。「地球環境問題」であれば、誰にとっても生きた言葉・表層だけでない言葉になりえます。

あと言葉は文脈で意味が限定されていって、生きた意味を持ちますから。どういう文脈で使われるかにかかってきます。

鈴木孝夫さんの意味論については、経験・体験がなくては正しい意味をもたらしようがないと言い切ることはできないと思います。やはり大抵の場合、言葉は文脈の中で使われます。その言葉の意味を知らなくても文脈から推測することができます。

聞き手や読み手は、(A)「自分たちの経験や知識にもとづいて、送られてきた符号を意味へと置き換え、意味を符号に置き換えている」のは確かですが、例えば耳が聞こえない人にラの音を説明することはできます。人は音に色を見ることができ、感情を喚起することができるので、その理解されることを伝えることで、完全ではありませんが、正しい意味をもたらすことができます。

経験についても、実際に自分が経験したことがなくても、例えば経験した人を観察することで、実際の経験の内容をかなり正確に想像・推測することもできます。知識についても、社会で暮らしてきた限り多くの部分を人と共有しているので、欠けているだけでまるっきりそれにまつわる知識がないということはありえません。


[4]単純な符号というには異論があります。 aki1960

日本語(や中国語など)の場合、高機能言語であることと共に、漢字という「符号」を用いる点で、単純に「意味を持たない符号」と言い切ることはできないのではないでしょうか。

その根拠はたとえ知らない単語であっても、類推する、憶測することが可能である点です。

もちろん、その作業が経験や知識に基づく処理であることは事実ですが、お題について全くイコールの知識・経験がなくても、そのお題を組み立てている漢字・単語から想像を無限に膨らませることが可能です。

「地球環境問題」も、まずは「地球」「環境」「問題」と分解できます。

受け取り手の経験・知識による、という部分においてはその通りですが、出てきた3つの単語のどれにウエイトを置くか、という部分は「単純な符号」と言い切るには異論のあるところではないかと考えます。

単純な記号であれは、3つの単語のウエイト配分は等価であり、それぞれを意味に置き換えた上で結合することになります。

お題の「地球環境問題」については、現代においてポピュラーであるが故に、オゾン層の問題、森林伐採問題など、本来的な地球環境に着眼した受け取り方もあるでしょうし、自分の生活の中で身近なゴミ分別を最初に思い浮かべる方もあるでしょう。

つまりほとんどの日本人が、具体的な例を挙げることができます。

しかし、その具体例として挙げたものが、その人物にとって経験と知識が豊富かどうか?という点については疑問があります。

例えば、オゾン層を破壊する要因の1つである「フロン」や、オゾン層が破壊されることによって発生する「問題」、過去排出されたフロンによって、今後何十年にも渡ってオゾン層が破壊され続ける事実と、最終的な見通し、などについての深い知識と経験がなくても、「オゾン層破壊」を具体例として挙げる事が可能です。

何かの試験で出題された場合の「地球環境問題」と、身近な人と話す場合の「地球環境問題」では、その符号に対する経験や知識ではなく、「誰に伝えたいか」という点で意味が変わるということにもなります。

この点において、言葉を「単純な符号」と言い切れないのではないでしょうか。


[5]>4 言葉 Gay_Yahng

世の中の全ての事象には言霊が宿ります。

「言葉あれ」というのはこの世のあらゆる事象に対し真の名があることを示しています。

言葉というのは最初に事象があり、その事象を表すものですがそれはすでに事象の中に含まれます。しかし人間の不完全な言語が正確に表現することを妨げます。

音素として言葉をばらばらにして考えるのは西洋思想的科学手法ではあり、音程、イントネーション、音の強さなど正しく発音した時の言葉ごとの意味をわざわざ意味のない音に分けてしまっていると言えます。

世の中の事象を正確に知るには真の言葉に気がつくことが必要であり、それを知ること(感じること)が悟りであります。


[6]わたしにとっての地球環境問題 sidewalk01

後々、自分や自分の子孫に影響をもたらす。エコバッグやゴミの分別、チャリ通、リサイクル、冷房切る、などしている時と、出来ていない時がある。というのがパッと思いつきました。


[7]>5 言葉あれ。 sidewalk01

人類誕生以前には言葉なく事象のみだったと思うんですが、その辺の解釈ってどうなんでしょう。


[8]>7 哲学的・宗教的な解釈に広げる必要がありますね。 aki1960

宗教的な例では、神の「光あれ!」で始まったことからも、全ての事象には予め言葉があったと思われます。

バベル以降、人類は異なる言葉を使うように神に定められた、ということからも、神は万能ですから、すべての事象に対してそれをあらわす言葉が無い、という事態はないはずです。

哲学的には、例えば地球上の生き物は、言葉を主に「音」としてとらえますが、生き物がいない場所で「音」が発生した場合、そこに「音」があったといえるのか?というような見方も面白いかもしれません。

我々の感じる「音」を、例えば「光」として感じる生物がいた場合、それは「音」ではなく「光」ではないのか?

そこに生き物がいなければ、果たしてそこに発生した事象は「音」でも「光」でもなく、事象があるのみではないのか?

まぁ、当初のお題からずいぶんズレてしまいますけど。


[9]>8 その言葉が意味を持つとはどういうことか ShinRai

aki1960さんのいろいろなご検討には感謝いたします。

しかし、地球を知っていて、環境を知っていて、問題を知っている人にとって、

地球環境問題に意味が生まれるのかということは、大きな問題です。


その人にとって意味があるか、意味がないか。


意味とは何か




この問題にしつこくこだわりたいと思います。




私自身、地球環境問題に取り組んでみて(環境省の財団でお給料をもらう仕事として地球環境問題に3年間取り組んだ経験があります)、自分の中に意味が生まれるまでに1年以上の時間と、さまざまな体験と、人に対して講演をする必要性があって、やっと意味が生まれたのが本音です。



地球を知っていても、環境を知っていても、問題を知っていても、地球環境問題を知っていることとは、まるで関係がないというのが結論でした。


[10]>6 それらの小手先な対応で、問題は解決すると思っておられますか ShinRai

自分にとっての意味と、地球環境問題そのもののもつ意味と、かみ合っていますか?

あなたにとって地球環境問題とは、いったい何なのでしょうか。


[11]>3 地球環境問題は解決可能だと思いますか ShinRai

地球はいったい今どんな状態にあるとお考えですか


[12]>2 シニフィアン(意味するもの)という点では同じかも ShinRai

>ジャン・ボードリヤールの『記号』は、、音声符号(個人的には、音声波形と言いたい)とは完全に別物でしょう(便宜上、ジャン記号と呼びます)。

同じかもしれないとも思いますが、、、、、


地球環境問題について、真剣に考えていくと、ものすごい絶望に打ちひしがれるということはありませんか


[13]>10 うーん sidewalk01

“あなたにとって”に応えたのつもりですが、“そのもののもつ意味”とかみあいが悪いようで、また“あなたにとって”と問われているのですが、結局何を答えればいいんでしょう?


[14]>9 ShinRaiにとっての意味を一言で表すと sidewalk01

どんなかんじですか?(一言でなくてもかまいませんが)


[15]>13 すみませんね、でも、まだまだ掘り下げてみてください ShinRai

禅問答みたいですみません


[16]>15 ではとりあえず。今の私の小手先な対応それのみでの問題解決は恐らく不可能でしょう。 sidewalk01

その理由として、パワーとしては非常に小さいからです。

では、環境問題の解決に繋がる根本的な対応があるかと言いうと存在しません。

何故なら答えはまだ出ていないから。

環境問題の“正しい意味”が必要十分条件だとも思いません。

なぜなら環境問題の解決というものは種によっても異なれば

同種の人間にとっても答えは1つではなく、

完全に解決した状態などありえないからです。

但し、確実に必要なのは環境問題“改善”のための行為と試行錯誤です。

ベストではなくベターを積み重ねることしか出来ないと思います。


[17]>9 人、個人としての問題というよりは aki1960

「地球環境問題」の解決を阻む要素の大きなものは、国家間の思惑の違いと、企業活動によるものではないかと思います。

人間は、組織や自分よりも上の人間の命令、またはその利益のためであれば、非道なことでも案外できてしまうものです。

「地球環境の保護」に異論を唱える個人は少ないでしょうが、国や企業という立場であれば、具体案に対して異論・反論も多々あるのではないでしょうか?

例えば、発展途上国からすれば、先進国はこれまでさんざん地球環境を汚染してきたのに、いまさら同じ条件をつきつけるのはズルイ!とか、企業であれば、全ての企業に同じ足かせをつけるという条件でなければ同意できないとか、あるいは補助が必要だとか、社会貢献度によって条件を緩和して欲しい..etc.といった具合に。


[18]>17 国家のエゴイズムはたしかに存在していますね ShinRai

国家のエゴイズムと、企業の利益至上の活動は、たしかに地球環境を、いまでもさらに搾取の対象にしていますね。

搾取というのは、外部経済として収奪してくるということと、外部不経済として、ごみを環境に捨てていること。


それが、もうすでに絶望状態の地球環境を、もっともっと絶望的で、もう回復不能な状態においているという気はしますね。


その企業や国家の活動と、われわれの生活や意識、そしてわれわれにとっての地球環境問題の意味は、どのように結びつくでしょうか。


[19]>14 そうですね、私の場合の意味はですね ShinRai

このいわしやはてなの質問で何度も議論の対象にしてきたこととも関連があります。


地球環境問題とは、人類が自然を改造し、自然から略奪し、自然は無限であるとしてゴミをばらまいてきたことのツケだと思います。


自然の反対概念が文明であり、われわれの生活はすべて不自然。


われわれの人口が増えたことが不自然。


7万5千年前に、裸になって、デジタル言語を使い始めた人類のやってきたことは、大いなる勘違いと無知なるが故の暴力的自然破壊だった。


それはすでに後戻り不能なまでに地球環境を痛めつけている。


いわゆる成長の限界を超えてしまった。


われわれは、地球環境問題を、文明の原罪として素直に受け入れるしかない。


これからどんどんおかしくなる。異常気象、海洋汚染(海水、魚類など)、砂漠化、温暖化、そして穀物不足と大量飢餓。


そういう時代がやってくる。そのときになって、じたばた騒ぐな。


もうすべてが手遅れなのだ。


地球に対して、ほかの動植物たちに対して、人類がこれまで行ってきた破壊行為を謝罪して、ほそぼそと生きるか、淡々と滅ぶしかない時代がやってくるだろう。


と、こんな感じかなあ。


[20]>16 もう達観するしかないのではと思うのです ShinRai

どうしたら改善するのかという問い自体が、もう時代遅れというか、遅すぎて意味を持たないというのが、私にとっての地球環境問題の意味です。


すでに終わっている



あとは滅びるのみ



考えに考えた結論がそれでした


[21]>12 アプローチの仕方が違うんです。 Chiether

言語、数字、文字、果ては縄目から象形文字まで。ありとあらゆるものがシニフィアンです。

ですから「シニフィアンとは何か」という点では、両者の見解に違いがあってはならないものです。

……ルーンの存在を知っている人は、そっちの方が感覚的に分りやすいかもしれません。

鈴木氏は「言葉(シニフィアン)の意味(シニフィエ)=文字の連続(=言葉,シニフィアン)に関連づいた経験や知識の総体」と定義しています。

ジャンは「記号(シニフィアン)は、意味(シニフィエ)を持ない」と述べながらも「意味するもの(シニフィエ)の同語反復は、表面的な記号が?」と記号性を示していて問題を抱えています。

つまりジャンが主張したいのは、消費社会の中では、これは例えばですが

「ペプシ(シニフィアン)が何かの意味を示している(シニフィエ)」のではなく

「炭酸のイメージ(シニフィエ)→ペプシ(シニフィアン)」「青のイメージ→ペプシ」「M.C.ハマーのイメージ→ペプシ」といと主張したいのに、そのシニフィエには当然シニフィアンが付きまとっているのでクタクタな表現になっているものであると私は認識してます。

(というか、シニフィエの同語反復という時点で言葉上の問題を抱えます。 シニフィエに対する「同語反復関係にある表面上の(個別認識に最低限必要な)シニフィアン」が正しい意図であると認識しています)

※ 私がジャンに、あまり良いイメージを抱いていないのは「消費社会」を強調するところにあったりします。 「固有名詞」と「普通名詞」とかで分けていれば、こんなツンデレしなくても良いのですが。


さて、話を戻して。

鈴木氏の考えでいくと「地球環境問題(シニフィアン)」とは

「地球(シニフィアン)とそのイメージ(シニフィエ)」+「環境(シニフィアン)とそのイメージ(シニフィエ)」+「問題(シニフィアン)とそのイメージ」で結びつく個々の経験や知識の総体(シニフィエ)ということになります。

その中の私が持ちえる経験や知識(つまり、地球環境問題の意味,イメージ。シニフィエ)は、

「地球→漠然としている」「環境→実害がないと認識しがたい」「問題→解答欄があって、回答がある」ということから

「地球環境問題」に対して「実害がないと漠然とした認識しか持てないが、誰一人として無回答で提出してはならないもの」というイメージがあります。

ジャンの考えでいくと「地球環境問題」という表面上のシニフィエには、

「地球」「(※)温暖化」というシニフィエとそのシフィニアン。

「オゾン」「(※)ホール」というシニフィエとそのシフィニアン。

「食糧」「(※)危機」というシニフィエとそのシフィニアン。

「(※)異常」「気象」というシニフィエとそのシフィニアン。

―― (※)は、マイナスイメージの言葉です。――といったように、

「危機を煽るイメージ(シニフィアン)」を持つシニフィエ達(意味するものの同語反復)を、かき集めて

「地球環境問題」あるいは「地球環境問題対策」という名を掲げたマーケット(消費社会)成長を遂げていると考えられます。

んで。私は、このジャンのロジックが現実社会に発生してしまっていると感じています。

そのロジックが成り立ってしまった原因は、私達個々が「地球環境問題」という言葉からイメージするものが

ハッキリとしていないという事にあるのではないかと考える次第です。


[22]>21 地球+環境+問題=地球環境問題か? ShinRai

ジャンが消費社会に重きを置きすぎている点に、抵抗を感じておられるようですね。

しかし、消費社会というのは、消費行動を超越して、消費そのものとは無縁に、現代社会のありようをいっていませんか。つまり現代社会において人類が言葉すら使い捨ての消費するだけで、消化しない、意味を求めないということも意味しているのではないでしょうか。


もう一点、「地球」は知っている(つもり)、「環境」は知っている(つもり)、「問題」は知っている(つもり)であるときに、「地球環境問題」を知っていることになりえるでしょうか。

記号的には、まったく別の意味を持ちうるということはありえないでしょうか。


[23]確かに当事者としての切実な意味はない seenone

私にとっては、知っているつもりの地球と知っているつもりの環境に何らかの問題が発生しているんだな、という漠然とした問題意識が喚起されます。


[24]>23 わたしも hiko3karasu

テレビ番組で見た程度の知識で知ったつもりになっている、漠然とした問題意識しかありません。

環境問題もいろいろとあると思うのですが、今は何が一番問題なのでしょう?


[25]>24 今の問題、、、 ShinRai

そうですねぇ、私も何が一番という問いに対する確たる答えをもっているわけではありませんが、とくに大きな問題として思えるのは、、、

1) 過剰開発による世界からの森林(自然林、天然林)の喪失。そこに住んでいた動物や昆虫や植物の絶滅。炭酸同化作用の減少と温暖化ガス増加。

2) 地球規模での海洋汚染。

カドミウム、すず、水銀などの重金属、PCB,ダイオキシンなどの有機化学物質、人間の排泄物、温排水、プラスチックごみの絶え間ない海洋中への河川や大気からの流入。

3) 温暖化による異常気象現象の増加。砂漠化の広がり。

などは、大きな問題ではないでしょうか。私自身も実感できていませんので、想像をふくらませてみました。


[26]>19 もうすべてが手遅れなのだ。 seenone

地球環境問題とは、これからますます劣悪な環境になるであろう地球における人類の、否定的な未来を表した言葉なんでしょうか。

覚悟しときなさいよって事なんでしょうか。


[27]>26 否定的な未来も、すべて人類の責任で惹起するのだから ShinRai

覚悟せよ。

誰を恨むでなく、絶望するでなく、動物のようにひたすら前向きに生きる気持ちをもちなさい。

余計な心配はしないで、ひたすら今、身近なものたちとの幸福を求めて生きていくほかはない。

ということですかね。


[28]>20 達観ではなく hiko3karasu

ニヒルですね。

たかが100年か200年くらいの間の変化です。いままで人類が直面したことがない状況です(たぶん)。技術によってもたらされた変化ですから新たな技術によって人間は適応していけるかもしれません。

あとは間に合うかどうか・・・・。


[29]>27 意識の上だけでも。 seenone

出来うる限りの最善の対策とともに、覚悟して生きたいものですね。

人類よりもはるかに長い歴史を持つ地球のポテンシャルに期待して。

そして地球が人類を許してくれるのを期待したいと思います。


[30]>28 7万年の現生人類の文明発展の最終局面と捉えるべきかもしれません ShinRai

たかが100年か200年というのは、近代以降に問題があるというお考えでしょうか。

近代以降、人間の破壊力は絶大となり、人口もこの200年間で60億人くらい増えているし、絶滅した動植物や昆虫の数も劇的に増加したといえるでしょう。


ただ、私は、必ずしも近代の問題と言い切れないのではないかと思っています。


7万5千年前に、ハダカ化し、ディジタルな言語を生み出して、ディジタルに思考することを始めた人類の思考・判断に内在するバグ(あるいはシステム欠陥)のようなもののために、人類は他の動植物を絶滅に追い込むと同時に、自らも絶滅させる方向で、地球環境を破壊しつつある。

このところは、とくに、そのように考えるようになりました。


自分たちだけが偉い、自分たちは神様の似姿である、といった考えを持ち始めた時点で、人類は滅びを運命づけられたといえないでしょうか。


[31]>30 自然との協調 hiko3karasu

また「ディジタルな言語」がでましたね。いまだこれには意義ありなんですが、まあ置いておいて。

ところでハダカ化ってなんですか?

現在問題になっている環境問題は産業革命以降の環境汚染の延長だと考えます。人類がグローバルな視点を持てなかったため自分たちのしていることがどのような影響を与えるか考え付かなかった時代です。

その前の人類は、どうにか動植物・自然の復元力を超えていなかったのではないかと思うのです。

他者からの搾取が当たり前である西洋的思考からの脱却が必要なのでは?

アジアは脱西洋、自然との協調を模索していくべきなのではないでしょうか?

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