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大西巨人氏の以下「」内の文章で、最後の部分の「私は、この戦争に死すべきである」の箇所が今ひとつ解らないのです。
他のところは小生もここまで人並みにいろいろとありましたで、
なんとか理解できるつもりです。
どなたか、大西氏に詳しい方のご指導をお願いいたします。
なお、小生は小説というものを全く読まない人間でして、
大西氏は先日TVで知ったのが初めてです。
人生は五十年ほどやっておる人間です。ノンフィクションは多少なりとも読んできました。

「世界は真剣に生きるに値しない!
本来いっさいは無意味であり、
空虚であり壊滅すべきであり、
人(人間)は何を為しても良く、
何を為さなくても良い。
私は、この戦争に死すべきである。」

●質問者: West-0071231
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
✍キーワード:TV ひとつ ノンフィクション 人生 人間
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

▽最新の回答へ

1 ● kappagold
●35ポイント

私なりには、虚無感、喪失感(周りの人たちが死んでいく)から、そのような考えるのだと思っています。

しかし、戦争経験者の方の話を聞くと、独特の世界観を持っている人が多い(多分私とは経験が異なるので理解し得ない点があるのだと思います)ので、色々な方の考えを知る事が、理解に繋がるのかもしれません。

以下が参考になると思います。



http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re45.html

http://mitsuhiroiwata.hp.infoseek.co.jp/sinseikigeki/page004.htm...

http://www18.ocn.ne.jp/~yuryo/news4-8.htm

◎質問者からの返答

ありがとうございます。「静岡のトポス」は大変有意義なページでした。

「神聖喜劇」は、知的操作のほどこされた小説世界.....といふ事。「神聖喜劇」は小生のような小説ビギナーには?チト難解過ぎると思いました。

これを読むのには最低五年くらいのインターバルが必要と感じました。やはりこの作品は、巨人氏の「圧倒的文章芸術世界」とでもいうのでしょうか?緻密かつ、文章的芸術観が満載です。

今回、TVがきっかけで、全巻を手にしたのですが、小生には、実感として十年早かったです。


2 ● jo_30
●70ポイント

大西巨人の「神聖喜劇」は巨大な物語ですから、その一部分を一片だけで理解し尽くそうとされるよりも、むしろ「物語の全体性」を味わい疑問を疑問として宙づりにしながら、その中からご自分の人生や経験と重ね合わせるように徐々に理解されるのが本当はよろしいと思います。その意味で、余り「答えそのもの」を提示するのが良いことなのかどうか分かりません。


ただ、疑問に足を取られて先に進む妨げになっているということでしたら、先へ進む助けになる程度に理を通しておく方が良いのかとも思います。

神聖喜劇について論じたサイトは数多く見受けられますが、疑問を感じておられる部分について特に丁寧に述べたサイトとしてこちら(http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re45.html)が見あたりました。


以下、引用します。

まず

そういった『神聖喜劇』の面白さの主要な部分の中でも、私がある独特の興味を惹かされたものがあります。それは、東堂が積極的に召集を受け入れ、太平洋戦争開戦直後のさなか軍隊に入隊するころには「私は、この戦争に死すべきである」と考えるようになった彼の思想的基盤、「我流虚無主義」の遍歴に関する物語と思索です。この長編小説全体がその「虚無主義」への後退と疑惑と抵抗と克服に貫かれてもいるのですから、これは本作にとって一番の中心的課題の一つであったと見なさなければなりません。そしてその「虚無主義」への後退と疑惑と抵抗と克服(の予感)は、作品冒頭から第三部「運命の章」の終わりまでに(作品の前半約三分の一に)集中的に、息をつがせぬ綿密さと執拗さでもって描きつくされてもいるのです。この箇所が私には、とくに強い高揚をあたえるのでした。

とあるように、ご質問の部分の説明は相当広範囲にわたって丁寧に物語り全体の進行と絡み合いながら少しずつ分析されているわけで、言い換えればこれは、そういう語り方でしか本来説明し得ないような微妙さでつながっているということでもあります。ただ、ある程度乱暴にまとめるとすればそれに続く以下の部分

「犬死に」であろうと「私は、この戦争に死すべきである」という、召集を志願する拠り所となったはずの東堂の「虚無主義」は、その実、このたどり直されるなかで明らかになるのですが、それが互いに矛盾しあういくつかの別の要素をもぶら下げ続けているのでした。マルクス主義思想に深く親炙しながら、時代の重圧に屈服する形で「現実変革」を何一つなしえず、その「自己の無為無力」が、「世界は真剣に生きるに値しない(本来は一切は無意味であり空虚であり壊滅すべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい)」という「虚無主義」へと東堂を帰着させていたのですが、「虚無主義」を自己に許容するならば、では、「この現実のこの戦争を阻止する何事も私が実際に為し能わずに現に為していない以上、五体満足な私が実戦への参加から逃げて隠れてただ他人を見殺しにするのは、結局のところ人間としての偸安と怯懦と卑屈と以外の何物でもあり得ないのではないか」という考えをも受け入れなければならない。東堂は自己の「参戦志願の基本動因」をそのように分析・理解したのでした。

が、ご質問に対する答えになると思います。


すなわち、

(1)この論理はこの部分だけで完結しているのではなく、東堂を取り巻く様々な状況・環境と密接に絡み合っていること。

(2)「この戦争で」でなく「死ぬべきである」に重点があること。

(3)虚無主義者東堂にとってこれは、積極的に「死にたい」というよりは、「生きる意味が無く、従って当然戦争に抵抗する意味もなく、かつ卑怯な人間でもありたくないなら」「戦争を受け容れて、ただ死ぬ、それ以外の帰結が論理的に存在しない状況」であるということ。

という感じになるのではないでしょうか。

◎質問者からの返答

ありがとうございます。

「.....それ以外の帰結が論理的に存在しない状況」という解釈は小生にとっては気持ちのよいものでした。」

その時代の温度といふものを、全身で真正直に受け取っている大西がそこにいるということ。やはり、「大西巨人」氏は本当に才気ある真正直人間であったという事でしょうか?真正直人間ではあまりにも一般的すぎる形容だとしたら、業務(兵士)人間としての嘘はつくが、大西としての嘘は絶対に言わない...というところでしょうか。だからこそ、「神聖喜劇」なのでしょうか?小生は「神聖喜劇」のタイトルが不思議でなりませんでした。今回、jo_30様のご返答にてなるほど....と思えるようになりました。

ご返答、真に感じ入りました。すばらしい解釈、注釈にてありがとうございます。

わずかなポイントですみませんです。

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