うちの階段の踊り場にはいつも読み終えた少年雑誌が山積みにされていました。その踊り場の居心地がよく座り込みながら何度も同じ雑誌を読んでいたことを今でも思い出します。私にとって階段の踊り場は癒しの空間でしたね。
幼稚園児の時に植木屋で祖父が1m程度の高さのを買ってくれました。
11か月間はまったく活躍する事もないただの青々とした針葉樹として立ってるだけなのですが、
12月になるとオーナメントで飾られて、家の前を通る方々から眺められる存在でした。
昔祖父と一緒に住んでいた家で、私たちの身長を定期的に柱に刻んでいました。
小学生のときはこのくらい、中学生のときは…という感じで、すごく懐かしいです。今帰ってみてみてもとても懐かしく感じる良い思いでです。
うちの父が、私たち兄弟の誕生日に成るといつもケーキを買ってきたのを思い出します。
丸いケーキのときもあれば、普通のケーキの寄せ集めのときもwwありましたが、懐かしいですね・・!
誕生日にお祝いされるって、なんだか暖かな気持ちになりますね。
父は無口な人でしたが、こういうところはなんだか好きでした。
家の一番目立つ柱に寄りかかり背丈を刻みましたね。それは何年も残りそのときの様子が思い出されましたね。今でも実家に残っているでしょうね。
生家の階段はとても急(傾斜角が大きい、踏み台1枚1枚が狭め)で、子供の頃に滑り落ちたことがありました。その階段を祖父母も利用していましたが、いつも「よいしょ」と声賭けしながら祖母が昇っていたのを思い出します。
ふふ、一ヶ月の間の栄光がなんか素敵ですね^^赤鼻のトナカイさんみたいです。オーナメントで飾られているおうち、結構ありますよね。私もながめちゃいます。すてきだなぁ。
一戸建ての階段は急なのが多かったですね。子供の頃、親戚の家に行くと急な階段があり普通に歩いていても手が付けるほどのものでしたね。今でも印象深く心に残っています。
私がまだ子供で、祖母が元気だった頃に
月に一回、日を決めて親戚がうちに集まる日がありました。
おばさんたちがみんなでご飯の用意をします。
用意はなかなか大変そうなのですが、
同じ年頃のいとこも集まって、みんなでご飯を食べて遊んで、
その日はとても楽しみでした。
大人たちもお酒も入って世間話して楽しそうに過ごしていました。
いつの間にかその集まりはなくなってしまいましたが、
なかなかといい思い出です。
なんとなくうちも物を置いていました!本とか、なんかよくわからない小さい椅子とか。結構危ない気もするのですが、なんとなくおいちゃいますよね。
それから、学校等の踊り場はひろくて、よく子どもであつまって遊んだり、密談したりしていましたw楽しかったなぁ。
椅子に座って食事をとり始めたのは、私が小学生になってから位だったでしょうか・・・。食事時以外は部屋の隅に片付けていました。足が折れ曲がって収納できる訳ではないので、斜めに立てていただけですが。
ありましたね?!で、お母さんたちがご飯つくっておじさんたちは飲んでいるみたいな。
子どもたちはまわりで遊んでいました。うちもいつの間にかそんな集まりがまったくなくなってしまいましたが、ちょっと寂しいですね。子どもの頃、おもしろかったなぁ。
うちでは元旦には必ず決まった親戚の家に集まっていましたね。大人は1階で宴会、子供たちは2階で大はしゃぎで楽しんでいた光景を思い出されます。
いまのプッシュホンなんかより、イエの中での存在感が圧倒的でしたね。まさに「けたたましく」ベルが鳴る、という感じでした。
父が8ミリフィルムに凝っていました。
まだビデオのない頃です。
たまに開く映写会はとてもわくわくしました。
壁にスクリーンをかけて、じっと見守ります。
声は入っていなかったと思います。
スクリーンに自分の姿が写ってるのを見るのは、なんだか恥ずかしかったものです。
フィルムをかけてない時は、弟と決まってスクリーンに向かって、
影絵だなどといって、手でキツネだのかたどって遊びました。
そのうちに家族の姿を撮るのもビデオに変わりましたが、
ワクワク感は8ミリフィルムには、とうてい敵わなかったと思います。
ねじを巻くのは祖父の日課でしたので、その祖父の姿と一体となって思い出します。
クリスマスツリーは今でも目を閉じれば楽しかった光景が浮かんできます。家の片隅に置かれたツリーに飾りつけをして楽しんだり、点滅するライトを眺めていたりと思い出されます。うつにツリーは地味でしたが今でも楽しかった記憶が心に刻まれています。
小さい頃の日曜の夕御飯が思い出されます。
多分、今の家庭とそんなに変わらないと思います。
サザエさんを見ながら家族で食べる夕御飯です。
『あー、もう休みも終わりか。』と思いつつ食べるのです。
テレビを見ながらのご飯はあまり良くないのかもしれませんが、
私にとっては、家族でサザエさんを見ながらのご飯の光景は、
それはそれで確かに団欒と言うものを感じさせてくれました。
昼間は全く意識しないのですが、眠れない夜とかには、木目が顔に見えたりして・・・あー怖かった。子供の頃の懐かしい思い出です。
今は居ない犬や猫、小鳥とかの家族。
人間より寿命の短い生き物はどうしても先にいなくなってしまいますが、「この場所が好きだったな」とか、「この柱の爪とぎキズはやっぱりすごいものがあるな」とか、イエのいろんな場所を見ていると元気に走り回っていたわんにゃんや、玄関にいた十姉妹とインコを思い出します。
イエのキズや痛み具合も思い出ですよね。
私も急な階段を降りていて、お尻で真ん中あたりから下まですべり落ちたことがあります!
飼っていたネコがすごくびっくりして見てました(笑)
急な階段ってお年寄りには特に大変ですよね!
親戚の家に急な階段があって、その家の従兄弟は足取りも軽くあがっているのですが、私は怖くて手をついてあがっていました。
上にあがるときはまだいいのですが、降りるときのほうが怖くて・・・後ろ向きになって手をついてそろそろと降りていたのを覚えています。
急な階段は危ないですよね。
高校の頃に住んでいたイエの、私が使っていた部屋の天井には、なぜか「立体的な箱を繰り返すパターン」が印刷されていました。
それが、じっと見ていると、出っ張っているように見えたり、逆に凹んでいるように見えたり、不思議な気持ちになりました。
昭和40年代のデザイン。今は作っていないだろうなあ、あの天井の板。
私は幼児の時に一度引っ越しを経験しました。ここが新しい家だよと連れて行かれた場所には、綺麗な新築の家が建っていましたが、庭の周りに塀は無く、地面も工事中そのままのようになっていました。庭の端の方などはかなりデコボコしています。とりあえず必要な家屋だけ建てて、自分で出来ることは自分でやって資金を浮かそうという事だったのだろうと思います。
引っ越しが終わってしばらく経つと、父と母の庭作りが始まりました。外構は、最初は生け垣でした。父がどこかから生け垣にする木をたくさんもらってきて、測量の杭から杭の間に紐を張り、その内側に綺麗に植えていきました。私は測量の杭の間に紐を張る仕事を手伝いました。といっても邪魔をしていただけのようでしたが。この木は結局あまりうまく根付かなかったようで、ほどなくしてブロック塀に変わってしまいましたが、緑の柵が張り巡らされると、それまで荒れ地だったような庭が、急に見違えるようになったのを覚えています。
母は、花壇作りを始めました。特に隣家との境の方の庭はデコボコでしたが、そのデコボコしたあたりに柵を作り、土を盛っていくと、とても立派な花壇になったのです。整地するよりこの方がずっと早いし、綺麗だし楽しいし、うちの母ちゃんは頭がいいなと思いました。
花壇にはまだ何も生えていなかったので、私は近くからビンボウ草のような花を一杯摘んできて挿しました。母はそれを見て大笑いしていました。数日後、私の摘んできた花たちは枯れ、花壇の最初の肥料になっていったようです。
それから父は、庭木を植え始めました。最初に植えられたのはニシキギでした。ニシキギには、枝の表皮を突き破って、コルク質の2枚の翼(ヨク)が伸長してくる特徴があります。それを見た私は、何だこれと、翼をベシベシ折って遊んでいました。それを見た父は慌てて、こらー、何やってんだ!! ニシキギを見ると、今でもその頃を思い出します。
さらにしばらくすると、庭に砂が運び込まれました。何を作るのかと見ていると、父は私を家の中に入れ、呼ぶまで絶対に出てくるなと言うのです。仕方なく室内で遊んでいると、夕方近くなって、父が「来てみろ」と呼びに来ました。庭に出てみると、なんと出来上がっていたのは砂場でした。庭の一角に太い角材で四角に区切られた枠が埋め込まれ、そこにたっぷりの砂が入れられていました。掘ってみなと言われて砂遊び用のシャベルで掘ってみましたが、どこまで掘っても砂です。深く砂が入れられた本格的な砂場です。面積は狭いですが、それでも幼児が一人二人座って遊ぶには十分な広さがありました。
私は「すげー」としばし呆然としていました。こんな物が庭に出来るなんて、まるで公園に住んでいるようだと思いました。決して暑い季節ではなかったと記憶していますが、夕焼けを仰ぎながら、父は額の汗を拭いていたようでした。
父は、この庭を森のようにしたいなと言っていました。母は、日当たりが悪くなるからだめよ、野原のようにしましょうと言っていました。私は、そんなのつまんないよ、公園みたいにしようよと言いました。そのどれもが叶えられていった庭作り。こんな庭作りの様子が、今も私の心に刻まれているイエの風景です。
家の電話は肌色でした。たしかにプッシュポンより存在感がありましたよね。
子供の頃、ダイヤルをまわすのがなぜか面白くて受話器を置いたまま触って遊んだりもしていました(^^;
あと、電話に出るのはちょっと怖くて電話がなると母を呼びにいっていました^^;
小学校から中学校まで住んでいた、某社の社宅。私のイエは1Fにありましたが、1Fにもベランダがありました。地上からの高さは1mくらい。洗濯物や布団を干したり、ちょっとした鉢植えを育てるくらいのスペースがありました。
そのベランダの下は、芝生が植えられていたのですが、あまり手入れもされず、伸び放題になっていました。
そこに、秋になるとコオロギが沢山やってきて(というか、前から棲んでいた?)、夜になるといい声を聞かせてくれました。一番多かったのがエンマコオロギで、数匹捕まえてきて虫籠で飼っていたこともありました。玄関の薄暗いところに置いておくと、昼でもいい声で、コロコロリー、と鳴いてくれました。
その社宅は、今はもう取り壊されてありません。草むらもなくなったみたいです。
コオロギ達の末裔が、どこかで生きつづけてくれているとよいのですが・・・
椅子に登ってネジを巻くのは僕の仕事でした。
毎日じゃなくて週に1度ぐらいだったかなあ。赤いマークが出てくるとゼンマイが切れるサインだったので。
最初は手をいっぱいに伸ばさないと届かなかったのが、だんだん背が高くなって楽勝になっていったことを覚えています。
父親に背を測ってもらって柱にしるしを付けてました。改築して見えなくなってしまいましたが、子供心に背が伸びるのが嬉しかったですね。
飲んでましたね。スゲー楽しそうだったのを覚えてます。
つかってましたね!ダイヤル(?)まわすと「ジーコ、ジーコ」なんともかわいらしい音が鳴ってました。
祖母は毎年花を植えてましたね。手入れも丁寧で、花だけでなく生き物を愛でる姿勢をシッカリと持っている人でした。
だったんですが、70cmくらいのツリーに心躍らせてました。
急に寒くなってきた日の午後、学校から帰ると、母が編み物をしていました。
でもスイスイ編んでいるのではなく、本を見ながら一生懸命編み目を数えたりしています。
何ができるの?と覗き込むと、手袋でした。
誰の手袋?私の?私の?と聞くと、母は苦笑しながら、その予定なんだけど、と言いました。
予定?
うん、完成すれば。
完成…しないの?
なんかすごくむずかしいのよ、あ、話してたらまた間違えたみたい。
こんな感じですごく悪戦苦闘しています。
母は裁縫は得意でしたが、編み物は初めてのようでした。
私は母の横を離れて、カバンを置いて、キッチンに行きました。
たいてい何かおやつが用意してあるからです。
おやつ、ありました。その日のおやつはドーナッツでした。
たくさんあったので、母と一緒に食べようと持っていきましたが、母はそれどころではありません。
うわぁ、食べたいけど、今手を離したらどこを編んでるか分からなくなりそうよ、
あーんするから口に入れてよ、なんて言っています。
しょうがないなぁ、もう、とドーナッツをちぎって口に入れてあげました。
翌日学校から帰ってくると、母はすっかり編み物になれていて、
スイスイ楽しそうに編んでいました。
わー、すごい、上手になったねぇというと、母もうれしそうにしていました。
私の手袋はすぐに完成しました。
でもよく見ると、片手は編み目がガタガタでへたくそです。
もう片手はとっても上手。
でも母の努力と上達の様子がよくわかって、手袋に編み込まれた愛情が伝わってくる感じでした。
あったかな、すてきな手袋ができあがりました。
次に母はあなたとお揃いよと、自分の手袋も編みはじめました。
紅茶をいれて、その日のおやつはなんだったでしょうか。
よくおぼえていませんが、紅茶の香りと何かの甘い香りに包まれながら、
ゆっくりと流れる時間がとてもすてきでした。
私は、編み物をしているお母さんの姿っていいなぁと思いました。
ふとテレビか何かで見た、お腹の大きなお母さんが編み物をしていたシーンを思い出して、
母のお腹に手を伸ばしてみました。
母はびっくりして何?と言っていました。
私も変なことをしちゃったなぁと思って、笑ってごまかしました。
母も、次はお父さんの腹巻きでも編もうかと笑っていました。
何気ないひとときでしたが、とても幸せを感じる記憶として今も時々思い出す、
すてきなイエの風景の一コマです。
凄く寒いところに住んでいましたので、ストーブ(薪、石炭)をガンガン焚いてますと、ストーブが真っ赤になります。頼もしく感じたものです。その熱を利用してお湯を沸かすタンクも付属していました。洗濯ものも良く乾燥しましたよ。今の家より冬は湿度が保たれていたかも?煙突掃除は女の役目でお袋が頑張ってました。思い出しますね。
受話器を取ると交換手が「なんばん、なんばん」と出ます。なんばんてナンだろうと子供の頃思ったものです。勿論「何番、何番?」でした。記憶違いかもしれませんが、彼女らは「なんばんガール」と呼ばれていた??
私の親戚の家も、古い建物で、狭くて急で踏み込みの浅い階段がありました。うち(私の家)は平屋で、ふだんは階段のないところで生活していたので、余計に不慣れで……しかもきれいに磨かれている! いとこたちのまねをしてすたすたと上り下りしようとして何段か滑り落ちたこともありますし、後ろ向きになって手をついて降りていた記憶も鮮明です。
今思うと、あの家が建てられたころには住人(私の曾祖父母の世代)は和服で生活していたはずで、スカートやズボンに比べて足元の自由がきかないはずのに、すごいな、と思います。
祖父母の家は田んぼに囲まれた中にありました。梅雨時などアマガエルがたくさんいました。家は古い日本建築で、廊下側は壁がなく、全部ガラス戸になっていました。上半分は透明の板ガラスで、下半分はすりガラスです。
祖父母の家で、雨で外に出かけられない日など、廊下のガラスのところに座り込んで、ガラスに張り付いたアマガエルを、おなか側から観察していました。すりガラスの向こうに見えるのはただの緑色のぼやんとした物体で、それが透明なガラスのほうに移動するとくっきり見えるのがおもしろくて、すりガラスのほうに張り付いているカエルをなんとか上の透明なほうに移動させようと念じてみたりしたものです。
家の外の緑色のトーン(カエルの身体の色、その向こうにあるヤツデの深い緑色、さらにその向こうに見える生垣の深い緑色と、生垣の隙間から少しだけのぞく田んぼの稲の緑の色)、それと家の中の茶色のトーン(廊下の木の色、窓枠の色)の組み合わせは、最近は自分の環境の中で見ることがないなあ、とふと思いました。
家の蔵には急な階段があり、小学生のときに急転直下しました(笑)
いまだに後頭部に傷が残っており、我慢強かったですが泣いてしまいました。
祖父母の黒電話は今でも健在です。
9を回すときなど、戻るのに時間がかかっていらいらしました。
いまでは、そんな時間を待てるだけの余裕が持てるようになりました。
ありますね。お寿司を注文して食べます。
親族総出ですので、何度か席を変えいろいろな人と話をするのが楽しいです。
家族全員でツリーの飾り付けをする作業が楽しかったです。
いまでは飾りつけをすることはありませんが、
幼い頃に夢中だったときが楽しいです。
いまではあまり多くないと思われる父の書斎がありました。
父は仕事が終わると自分の部屋にこもり、研究や調査をしています。
ときどき、部屋に入れてくれるのがうれしかったです。
いまでは、父が大切にしていた書籍や工具だけが残っていますが思い出が鮮明に蘇ってきます。
子供のとき測ってもらいました。実家にはまだ傷があるはずですね。
小学校低学年くらいまでなので、だいぶ昔の話ですが…
我が家のクリスマスツリーは小さかったのですが、
当時の私に取ってはとても大きな物でした。
クリスマスツリーをしたから眺めるのが好きでした。
私も狭い家でしたが、父の部屋がありました。
百科事典や全集があり、それを中学生の時期に読むことができてよかったです。
本が整然と並べられている姿はさながら小さな図書館でした。
私も小学生くらいまではやってました。
妹や弟のも一緒に記録されているので、懐かしいです。
懐かしい!実家にありましたが、懐かしいです。
黒でつやがあるので汚れが目立ちませんでしたか?
親族が全員集まって、ご飯を一緒に食べます。
そのときにしかあわない親戚もいるので賑やかに過ごさなければならず、
あまりいい思い出ではありませんでしたが、滅多にある機会ではないので、
記憶に残っております。
家も本家に行って、宴会もどきのことをしてました、男ドモは酒で真っ赤になり、女の人はセッセとそのお世話、なんと囲炉裏端でした!当時としてはとっても贅沢なキリンレモンも飲めましたよ。
まで付けて、みんなで飾るのがたのしかった・・・もう昔のこと。
階段のてっぺんから転落、下においてあるバケツにどっぷり飛び込みました、運良くかすり傷のみ、急な階段でした。
聞こえてくるとルンルンします
クリスマスツリー、うちは木の種類は何かわからなかったのですが、本物の木に飾り付けをしていました^^
まず綿の雪をつけて、そしてサンタさんや煙突の家、トナカイやスティックキャンディーの形の飾りなど。それとこれまでのクリスマスにもらった小さなお菓子入りブーツや、ケーキについていた食べられない飾りも一緒にツリーに飾り付けたりしていました。
最後にチカチカ光る電飾を飾って出来上がりです^^
飾りつけも、出来上がってみているのも楽しかったですね。
今は甥っ子がこだわりを持って「これはここー」と飾り付けたりしています。親戚にも子供がいないのでケンカもなく、飾りつけは甥っ子独りの独壇場です(笑)
私の実家には、私が小さかった頃にタンスや柱に貼ったシールや水にぬらして貼り付ける(移す)シール(?)がまだそのまま残っているものがあります。
水うつしのシールドラえもんが少し移しそこなってくにゃっとなっていたり、シールの枠部分までタンスに貼っていたりします(^^;
子供の頃はシールとか、貼れるものが好きで、そしてなぜか柱やタンスとか大人の困る所に貼っていました;;
材料になったのは、電気製品の梱包に使われていたダンボールでした。大きな箱だったので、おそらく冷蔵庫か洗濯機が入っていた箱だったろうと思います。それを父が小さな家に改造してくれたのです。
他のダンボールを足して三角の屋根を付け、箱の側面には窓と扉が開けられていました。窓の内側には母が余り布でカーテンを付けてくれました。扉もちゃんと閉めることができるので、閉めると中はすてきな子供の隠れ家になります。
箱の中には座布団を敷いてもらいました。箱は壁際に置かれましたので、壁に接している側なら寄りかかってくつろぐこともできます。今思えば小さな箱ですが、小さな子供には十分な大きさでした。
私はその箱の中が大のお気に入りで、毎日その中で遊んでいました。自分が中に入っていない時は扉を開け、入り口に当時大好きだったワンコの縫いぐるみを置きました。ワンコのお留守番です。
その家は、一度は崩壊の大惨事にも見舞われました。中でウトウトしてしまった私は、寄りかかる方向を間違えて、窓が開けられた側に背をもたれさせてしまったのです。背中を支える感触が弱いのに気付いて、しまったと思いましたが、もう箱はひしゃげてしまっていました。子供心に自分で自分のしてしまった失敗が許せなくて、泣くに泣けずに涙をこらえていると、母がガムテを持ってきて、別のダンボールで補強して直してくれました。その後父が箱の側面をぐるりと模造紙で覆ってガムテを隠し、下の方にはカレンダーか何かの花の写真の切り抜きを貼ってくれました。崩壊した家が、花壇に囲まれた真っ白な家に生まれ変わったんです。父が早く中に入ってごらんと言いましたが、私はもっと外側から眺めていたくて、入り口を開けて犬のぬいぐるみを置いて、ずっと生まれ変わったそのダンボールの家を眺め続けていました。
先日猫の寝床をダンボールで作っていたら、母に、あなたも子供のころダンボールの家に住んでたねと笑われてしまいました。猫のダンボールを、幼かりしころダンボールハウスがあった場所に置いてみました。猫が入ったダンボール箱を眺めながら、子供時代の懐かしい思い出に浸りました。
私が中学生の頃、確かにうちにも黒電話がありました。
玄関近くの「電話台」の上に鎮座していて、そこで立って電話を掛けるのです。
コードレスなんて夢のまた夢。
「電話機の前が、電話を掛けるための場所」として、決定づけられていました。
ただ、ダイヤルは「9」を回しても比較的スピーディに戻ってくるタイプでした。
呼び出し音が「ジリジリジリ」とうるさかったですが、少し懐かしいような。
その名残という訳ではないですが、今、携帯電話の着信音を「黒電話」に設定しています。
私が子供の頃に住んでいた家は、2階への階段が急であるだけでなく、1階から上り始める部分が建物の隅に当たっていたため、90度曲がっていました。そこだけ階段のステップが、細長い菱形のような形をしているのです。しかもそこを降りるとすぐに玄関のステップがありました。
狭いスペースを最大限有効に使おうという設計だったのでしょうが、よく転んだりしなかったものだと、今思い出してみると感心します。
うちのはうすい緑色でしたが、ジーコジーコです。音も確かにうるさかったですね。早くかけたいときはあのジーコがいらいらしてました。でも今考えると味があってよかったなあって思います。あと受話器が重かったですね。
昔はケーキはお誕生日とクリスマスしか食べれませんでした。だからもうホール型のケーキを切るときの私たち子供たちのチェックはすごかったです。カンペキに均等に切らないダメ!だったので、「もうちょい右!行きすぎ!」とか・・・。もうかじりつき状態でした。ケーキを切る母は大変だったでしょうね。
私は子供の頃、祖母と一緒の家に住んでいました。祖母は日舞の師範で、大変厳しい人なんです。ああいう世界は武芸に通じるところがあるようで、祖母の周りには、まるで武士のようなキリリとした気が漲っていました。祖母は一人で部屋でくつろぐような時も、常に姿勢を正し、背筋をすっくと伸ばして座っていました。
もちろん着ている物は全て和服です。髪を乱れなく結い上げ、シャキッと襟元が整えられた姿は、子供にはちょっと近寄りがたい雰囲気がありましたが、かっこいいなぁと憧れも持って見ていました。
祖母の部屋は純和室で、とても清楚にまとめられていました。余分な物は何も置きませんので、飾られた季節の花がとてもよく映えます。祖母はいつも自分で花を生け、部屋に飾っていました。花を生けている時の祖母は、とても優しい顔をしていました。いつものキリリとした厳しい表情が、とても優しい表情に変わっているのです。
そういう時は孫の私も近付きやすいので、ちょっと恐る恐るですが、おばあちゃん、と声をかけてみます。すると、こっちへおいでと呼んでくれて、この花は何々っていう名前なんだよ、おばあちゃんは若い頃、この花をいっぱい花束にしてもらったことがあってね、なんていう話もしてくれました。おそらくその花束を贈った人が、私のおじいちゃんにあたる人だと思います。
花を生け終わると、お茶の時間です。お茶といっても祖母のお茶はお抹茶です。手慣れた手つきでシャカシャカと点てて、はいどうぞと飲ませてくれます。お菓子はたいてい羊羹でした。お抹茶の苦さと羊羹の甘さが、厳しくて優しい祖母そのままのようで、祖母と過ごしたこのお茶の時間も忘れられません。
私はずっと、キリリとした気の漲る祖母の顔ばかりを見ていたと思います。でも今になってみると、優しい祖母の顔ばかりが思い出されます。
その後引っ越しをして祖母とは別々の家になりましたが、私の心に刻まれているイエの光景というと、引っ越した後の家よりも、祖母と一緒に過ごしていた家のことの方が強く思い浮かぶのです。
五人家族の我が家では、子供の頃から鉄板でお好み焼きやら、たこ焼きやらみんなで作れるご飯をよくやっていました。父の釣ってきた魚を
母が刺身サイズにおろして、すし飯作って、家でにぎりを自分たちで握って食べたり。すごく楽しかったですね。昔の鉄板はちいさくてなかなか焼けないんですよね。たこ焼きなんか一回につき一人4.5個ずつ。でも自分でひっくり返したり、ほんと楽しかった。親に感謝です。
小さいときのタンスは、シールだらけでしたね。私のときは、こすると絵が張り付く?タイプのシールがはやってて、それをあちこちにごしごし貼り付けてました。
妹と隣同士でお布団で寝てたんですが、小さいころはよく寝る前にしょうもないおしゃべりに花が咲いて、げらげら笑って寝られなくなっちゃったりした夜もありましたね。兄弟っていいですね。けんかもよくしたけど・・。
クリスマスになると毎年ツリーを飾っていました。
今では飾ることもありませんが、いずれまたあの美しい光景を復活させたいものです。
綿の代わりに脱脂綿をちぎって雪に見せたり。今にして思えば、小さいながらも工夫して飾り付けてたものです。
私の実家は海に面していて、夕方になると水平線に沈む夕日が見られます。綺麗ですが、お天気に左右される(あたりまえ)ので、毎日が観賞に耐えうる景色というわけではありません。子供の頃から見ており、のどかな風景や、たまに幻想的な美しさをみせたり、飽きることがありません。地方ならではの贅沢ですね。
子供の頃やりました。ガムのおまけに付いてたりしますね。所構わず貼って親に叱られました・・・思い出の1つです。
みんなやってるんです。私も貼っていました。ときどき見ると、何か懐かしい気分になります。
うちも、タンスや押入れに貼ってありました。
なんだかしみじみしちゃいますねー。(笑)
私の子供が小さい頃はシールノートを作って、
そこに貼ることにしていました。
ちょうど今、台風第13号が本州太平洋側をかすめるように移動しています。東京もだいぶ雨足が強まってきました。こんな時思い出すのは、台風で停電になった夜のことです。
その夜も段々雨足が強まり、風も出てきて、本格的な台風の勢力圏内に入りました。もう子供が起きている時間にしては遅い時間でしたが、私は不安で、父母と一緒にテレビの台風情報を見ていました。
もう寝なさい、朝になれば台風は通り過ぎているからと言われて自分の部屋に行きました。念のためと渡された懐中電灯を枕元に置き横になりましたが、風雨の音が気になって眠れません。何かあった時に恐いと思い、部屋の電気を点けっぱなしにしているので、よけいに眠れません。トイレに行く振りをして部屋を出てみると、まだ父母はテレビの台風情報を見ていました。
台風どうなった?と居間に入ったとたん、電気が消えました。思わず変な声を上げて叫んでしまいました。父は落ち着いて手元の懐中電灯を点け、大丈夫、すぐつくからと言ってくれましたが、いつまで待っても復旧しません。電池がもったいないのでローソクを使おうかということになり、テーブルの上にローソクが灯りました。
ローソクの揺らめく炎が外の風雨の音と合わさる感じがして私は恐くなりましたが、そんな様子を察した母が、クッキーとお煎餅を持ってきてくれました。目がローソクの灯りに慣れると、段々不安感が薄らいできます。父が子供の頃の思い出話を始めました。初めて聞く話なので、私は台風の不安も忘れて、話に引き込まれていきました。母も、そんな話初めて聞いたわと楽しそうです。ローソクの灯りは家族の心をいつもよりずっと近付けてくれました。
話が佳境に入ったその時、パチパチッと蛍光灯が瞬いて、電気が復旧しました。急に辺りが真っ白になったかと思うまぶしさでした。しかし私はそれでホッとするよりも、せっかくのローソクで過ごす楽しい時間が終わってしまったことを残念に思う気持ちの方が強かった感じでした。
今わが家では、時々ローソクで楽しむ夜を設けています。全国規模で呼びかけられるキャンドルナイトのほかにも、時々思い立ったようにローソクで過ごす夜を楽しみます。ローソクの灯りに照らされながら過ごしていると、私は子供時代に心が帰っていく気がします。懐かしい光景が蘇ってきます。
今夜も一応、ローソクを準備しています。おそらく今回は使うことはないと思いますが、テーブルの上に用意されたローソクを見るとあの夜のことが思い出されて、何があっても家族がいてくれれば安心だという気持ちにさせてくれます。
うちは兄弟が多かったので、洗濯物の多い家でした。洗濯物はカゴになんか収まりきれないほどの量で、いつもはみだしたシャツやパンツ、靴下が廊下にあふれ出していました。ときどきテレビで大家族の番組を見るたびに、洗濯の大変さを想像しています。
兄弟が多かったのでいつもケーキはほんの一口しか食べることが出来ませんでした。大人になったらいつかケーキを腹いっぱい食べたいと願っていたなあ。はい、いつか腹いっぱい食べてみたかったものは他にハンバーガー、お寿司、ピザでした。常にもうちょっとほしいというところでなくなっていたんですよねえ。
いつからかバースデーに買うケーキも
普通のケーキになってしまったのですが
子供の頃は、砂糖?などで作った飾りが上にのった
バースデーケーキを飼っていましたね
甘党なのでケーキも時々買いますが
バースデーケーキを見ると子供の頃を思い出しますね
普段はケーキ屋さんのショートケーキの類をよく買ってきますが、バースデーのケーキだけはいつも手作りです。
子供もケーキ作りを手伝ってくれるようになりましたし、作る過程がまた楽しくて我が家では定番行事になっています。
今年はどんなケーキを作ろうかと考えるのも楽しいですね。
ありましたねぇ!
ごくたまに家電を買った時の箱を使って自分で住みやすく改造して遊んでいました。
今は自分の子供が同じように自分の領地を作って自給自足を目指しているようです。
昔と違うのは家電、特にテレビの大きさが全然違うので隠れ家の規模もかなり贅沢になっていることでしょうか。家は狭いというのに…
うちはそんなに立派なストーブはありませんでしたが、その当時は珍しい青い炎のストーブ(ブルーフレーム)の何ともいえない炎を見て過ごすのが好きでした。
時々芯を削る必要があってゴリゴリ削り器を回してまたきれいな青い炎なるのが子供ながらに不思議な感じでした。
子供の頃住んでいた家の屋根裏は、父親が写真の現像場所
として、ところ狭しながら時々作業していました。
幾つかの現像液等、順番に移す作業し、少しづつ画像が
浮かび上がるのが不思議に思いつつ隣で静かに見ていました。
独特のにおいと部屋の薄暗さが強く印象に残っていますね。
ぼくも何枚もシール、タンスに貼りましたよ。ただし、今、思い出しても不思議なんですが、合板の安いタンスにはべたべた貼ったのに、高価なおばあちゃん専用のタンスには1枚も貼っていないんですよね。空気を読んだ、というヤツでしょうか。
私も、私が生まれたときに父が買ってくれたもみの木が庭にありました。
庭でしたから飾り付けをしても、外なので、家の中で楽しむのは窓からだけでしたが・・・
毎年どんどん大きくなり、冬には雪が積もって、だいすきでした。
今我が家にあるのは組み立て式のツリーです。
私の名前のついたもみの木にまたかざりつけをしたいです。
ぼくは小学生でした。
電話帳2冊分くらいの、今考えるとものすごくでっかいテープレコーダーが我が家に登場したんです。現在の年齢がアラウンド40の方ならきっとどなたでも経験されたと思いますが、家中、静かにしてもらってのテレビ番組の録音。録画ではないですよ、録音、音声だけを記録して、それを後でもう1度楽しむって事をしました。
「熱中時代」だったかな、水谷豊のドラマを録音したのを覚えています。
家の階段から落ちたことがありました。その後、事故の再発防止用に父親が手すりをつけたり、スベラーズと呼ばれる階段の段にくっつけるひっかかりとでもいうのかな、滑り止めをつけてくれたものでした。
うちの階段は何故だか段数が13段あって、それがなんとなくイヤだったのも思い出しました。
私が小学校高学年の時のことです。オーディオ好きの父が蓄音機をもらってきました。ゼンマイを巻いてターンテーブルを回す、古い古い蓄音機です。でもラッパは付いていません。蓄音機も後年になるとラッパをケースの中に収めたコンパクトな製品が登場しますが、これはそうではなく、本来なら大きなラッパが付く蓄音機でした。父は、おそらく戦争中にお国のためにと供出してしまったんだろうと言っていました。
父のラッパ作りが始まりました。ラッパはただ朝顔型に開けばいいという物ではありません。綿密な計算によって、ラッパの開き具合を決めていかないといけないのです。父は何日もかかって計算を繰り返し、図面を引き直していました。母はそれを見て、あのくらい熱心に仕事してくれたらいいのにと笑っていました。でも私は趣味に真剣になる父の背中が好きでした。この時の父の背中が、まず私の第一番目の「心に刻まれたイエの光景」です。
やっと図面ができあがり、次の休日にラッパの製作が始まりました。材料は真鍮板です。まず父がボール紙で型紙を作りました。型紙をテープで仮止めして、組み立てればちゃんとラッパの形になることを確認します。続いて型紙を真鍮板に乗せてケガキます。ケガキとは、針のような物で表面を引っ掻いて線を付けていく作業です。ケガキが終わると真鍮板の切り出しです。ケガキと切り出しは私が手伝いました。
その間に父は木を削り出して型を作っていました。その型に合わせて真鍮板を曲げていくのです。こうして出来上がったパーツを、ハンダ付けして組み立てていきます。私は軍手をはめて、組み合わせる真鍮板どうしを動かないように押さえる係です。それを父がデカいヒーターのハンダゴテでつないでいきます。
まず最初は要所要所だけをハンダで止めていきます。そしてラッパの形に組み上がったら、仮止めしたハンダを全部溶かしてしまわないように注意しながら、接合部分全体にハンダを流していきます。これは息を飲む作業でした。もたもたしていると仮止めしておいたハンダに熱が回りすぎて外れてしまいますし、手早くやりすぎると熱が回らずハンダが流れません。その中間の一瞬の頃合いを見極めてハンダを流していく緊迫した作業の様子が、私の二番目の「心に刻まれたイエの光景」でした。ハンダゴテの熱と父の熱気が渦巻くような光景でした。
そして出来上がったラッパに本体との接続金具をハンダ付けし、最後に外側に、振動を防止するためのパテを塗っていきました。まだパテは生乾きですが、ひとまず出来上がったラッパを蓄音機に取り付けてみました。すばらしい立派なラッパの完成でした。
母が、できたの?とお茶を持ってやって来ました。さっそく音を鳴らしてみました。レコードは古いジャズです。軽快なスイングが流れてきました。父はご満悦で聴き入っています。母も、あらすてきと楽しそうに聴き入っていました。私は自分がこのラッパを作るためにどんなに重要な作業を担ったかを母に自慢したかったのですが、音楽に聴き入っている母に声をかけるのはやめにしました。この手作りのホーンから音楽が流れ出した時の様子が、私の三つ目の「心に刻まれたイエの光景」です。
この時私は、手作りの装置で音楽を奏でることのすばらしさに目覚めたのだろうと思います。この時に心に刻まれた光景が、その後の私の手作りオーディオの原点になってくれたと思います。この時の手作りホーンの付いた蓄音機は、今も現役ですばらしい音楽を奏でていてくれます。
もう50年以上も前です。当時は家を造るのは大工さんでした。今のように工場で部材を加工したり、ユニットやパーツとして作り上げたものを使う工法はありませんでした。大工さんにお願いして、木材の準備から設計、組み立て、など一連の作業をしてもらう時代です。
豊かでなかった我が家は、家を建てるとき新築する程予算がありませんでした。そこで、道を隔てたところに立っていた家を買い取り、それを改修することになりました。道の向こう側から、こちらの敷地まで家を運ばなくてはなりません。大仕事が行われました。
すでに建っている家を土台から切り離し、家の形を保ったまま持ち上げ、レールのような鉄材の上に乗せます。誘導するためのレールを敷き、その上をコロを使って滑らせながら動かすのです。動かすのはジャッキで手動です。実は、この作業がどのように行われたのか断片的にしか記憶にないのです。
道路を越えて家を動かすのですからある一定時間道路を封鎖しなければなりません。当時は交通は少なかったものの、道路封鎖となると夜中しか許可が出なかったようです。大きな工事になっていることはわかっていましたが、幼かった私は夜中の様子を見ていないようです。
道の向こう側にあった家が、朝起きてみると道のこちら側にあり、その姿は柱の上に屋根が乗っているような丸裸のようなものでした。家の周りに置いてあったたくさんのレールや短い鉄の棒(ころ)、そしてとぐろを巻いているワイヤーなどから工事の様子を想像したものです。
今なら重機を使ってやるような工事を、当時はほとんど人手で行っていました。家を動かすという大がかりなことをしても、建築費用が節約できたのでしょう。柱や屋根をそのまま活かした改修ですから、間取りの制約もあり、部材も再利用のものが多かったようです。新しい家と言うものではありませんでいしたが、父が最初に立てた家でした。それまでの借家からの引っ越しはやはり嬉しいものでした。
ものが豊かになった時代、もうこのようなことをする人はいないでしょうが、昔は古いものでも活用し、いろいろと工夫して生活していたのだと思い出しました。
子供のころは、家においてました。小さいものですけどね。電飾のピカピカに感動してましたね。
しまいには、シールを貼り終わった後に残った「ふちどり」まで貼ってましたね。ベタベタして貼れるものはすべてシールなんでしょうね。
台風のときの窓に恐怖を感じてました。
ガタガタ言うあの音と、ピューピュー言うすきま風。
両方とも怖かったな?。眠れない夜は何度もありましたね。
よくやってました。子供のあのサイズってけっこういろんなところに潜り込めて、今思うとありえないような場所にも隠れてました。とにかく、かくれんぼは一大イベントでしたね。
障子は当然のこととして、ふすまも穴だらけにしてました。子供ってモノを破壊することに抵抗がないのかな。障子も張り替えてちょっとしたらすぐ穴だらけにしてたな?。よく怒られたものです。
皆でわいわいやったなー
懐かしい!!!
隙間にもぐりこんで・・・押入れとか。
うちの実家は、私が小学生3年生の時に、一部屋を残して建て替えました。
その古い家のイメージが 心に残っています。
写真とかもないので、本当に心に刻みこまれたイメージだけです。
外観のイメージと障子が部屋の中にあったぐらいしか覚えていません。
部分的にしかイメージに残っておらず、今から思い起こすと どういう家だったんだろうなって
ちょっと残念な気持ちがありますね。
もう少し ちゃんと覚えておけばよかったと。
小学三年生までしかいなかった家だから、そんなに記憶できたもんじゃなかったと思いますけどね。
新しい家に引っ越したりするのは うれしいことですが、その前に住んでたところだって
住めば都ですからね、大事にしたいものです。
と、そのうち引っ越したいなと思っているの昔の家を思い出して
ふとそう思いました。
その日は友だちが家に遊びに来てくれていました。しかし些細なことで言い争いになり、それが、何だよ、そっちこそ何だよとドツキ合いに発展し、しまいに取っ組み合いの大げんかになってしまいました。しかしその頃、私は柔道を習っていました。相手の胸ぐらを掴んだ瞬間、ケンカに技を使ってはいけないんだったということを思い出しました。その一瞬の隙をついて相手のパンチが顔に入り、私は鼻血を出してしまいました。友だちはびっくりしてもうケンカどころではなく、大丈夫か、大丈夫かと鼻血を拭いたりしてくれました。
しかし負けん気の強かった私はケンカに負けたことが悔しくて仕方がありませんでしたし、もう一つ、いつも道場で厳しくケンカ禁止を言い渡されていたのにそれを破ってしまったことへの後悔も合わさって、もうどうすることもできないような気持ちになっていました。
しばらくしてすぐに鼻血は止まりました。友だちは何度もごめんな、ごめんなと謝ってくれましたが、私はただ黙って壁を見つめるばかりでした。
友だちは知らないうちに帰っていました。そんなことにも気付かず、私はずっと壁を見つめ続けていました。壁に小さなシミがありました。そのシミが、涙でだんだん大きく見えてきました。そのうちシミが見えなくなりました。涙を拭いました。また小さなシミが見えました。そのシミが涙越しにまた大きくなって…。そんなことを真っ暗になるまで繰り返していました。
母が帰ってきて、あらあらこんなに真っ暗になっても電気もつけずに、といいながら電気のスイッチを入れてくれました。すると私が座っていたすぐ横の床の上に、メモ用紙が置かれているのに気が付きました。友だちの字で「本当にゴメン、反省する、明日からも仲良くしてくれ」というようなことが書いてありました。すぐご飯にするから居間にいらっしゃいという母の言葉に振り返るころには、もうすっかり笑顔になっていました。明日は自分こそちゃんと謝ろうと思いました。
その壁は、今は部屋の模様替えで家具に隠れて見えません。でも、あの時見つめていた小さなシミは、今でも心に深く刻まれています。その友人とも、今もずっと友情が続いています。謝る心の美しさを教えてくれた、最高の友との思い出の一コマです。
私が小学生のころ、超大型の台風が直撃しました。夜だったのですが、停電、雨漏りで大変でした。祖母は大変怖がっていましたが、冗談好きなところはいつもどおりで笑わしてくれました。小さかった私達を怖がらせてはいけない、と思い、一生懸命冗談を考えていたのかもしれません。
小学生のころでしょうか。チャボを10羽ほど、名古屋コーチンの雄一羽飼ってました。ある日、チャボのメスが卵を抱きました。それを見て父がいいました「コーチンとチャボのあいのこが生まれるかもしれないな。ひょっとしたら、コーチンぐらいの大きさで、チャボみたいに足の短い鶏が生まれるかもな」といいました。
それを聞いて私達は、本当にそんな不恰好な鶏が生まれるのか、見たくなりました。鶏のヒヨコは3週間ほどで孵りますが、ものすごく待ち遠しいと思いました。一週間目に検卵してみました。夜に卵を一個づつ懐中電器にあてて見たのです。すると黒い影があったので、大興奮。ますます待ち遠しくなりました。
そして19日ぐらいから、毎日見に行きました。ある夜父が親鶏をどけると、卵から孵ったばかりの雛がいました。黄色いヒヨコでした。ただ孵ったばかりで濡れていて、地肌が見えてややグロテスクでした。でも、とても興奮しました。
その後他にも数羽孵り、すくすくと育ちました。残念ながら当初期待していた体が大きく、足が短い不恰好な鶏は誕生しませんでした。しかしそれぞれが異なる羽色の羽が生えてきたので、どういう鶏になるのだろう、と興奮して大きくなっていくのを見ました。
オトナになった今ではと被害とかそういう事も考えてしまう
台風の襲来ですが
子供の頃は、学校が臨時休校になるのが嬉しくて
兄弟で夕方の天気のニュースなどを見て
台風が接近してきたら
明日は、休みになるかな?とかおしゃべりをしたものです
台風接近と聞くと思い出す風景ですね
小学生までは悪さをすると物置小屋(蔵)に閉じ込められました。扉を閉められると真っ暗になり、蜘蛛やムカデが出てこないか恐怖に耐えて。暗闇に目が慣れてくると、古い箱やかび臭さ、隙間から入る光であらぬ妄想に走り、『あけてー、ゴメンナサイ、もうしません。おばけがこわいよー』と降参しました。高学年になってからはトイレに鍵をかけて閉じこもることで大人に対抗してました。
物置小屋もそうでしたが押入れが多かったですね!
いずれも閉じ込められると洞窟ごっこをしましたね。
その後隠れ家として楽しんでいましたね。
昔の飯台は小さな足が曲げる事が出来る様になっていました。
家庭映画やドラマに出てくる懐かしいものですね。
いけない事ですが、足台としても利用しますね。
今はキャタツやら机がありますね。
今や写真もフイルムが少なくなってきました。
昔の8ミリフイルムを映写機にかけるとフイルムを送る音が何ともいえない感性が出ますね。
あの音はマニアっぽいものなのかな。
屋根裏部屋は隠れ家としてもよいですね。
個室や物置としても使えますし、展望台としても面白い。
貴重な空間ですね。
今やペットも家族の一員。
その生活痕が懐かしい。
ペットのはかない生活の思い出は貴重ですね。
ちゃぶだい無くなってて寂しい
実際に見る機会はなかなかないでしょうね。
テレビで見ていても、なかなか大変そうな作業でした。
究極のリサイクルなんていってしまうと変かもしれませんが、
家を大切にする心が伝わってくるような気がします。
昔は手間をかけて物を大切にしましたね。
今は手間をかけると値段が高くなるので新しいものへと変えてしまうんでしょうね。
もし近所の家が「曳き家」をしたら、きっと見に行ってしまうと思います。(笑)
犬、飼ってましたが、逝っちゃいました。遺伝子操作で犬の寿命を延ばす研究はないのかな。
小さかった頃タンスにシールを隙間無くベタベタと貼っていましたね。そのタンスの異様な光景を今でもよく覚えています。なつかしいですね。
家の玄関には鳥かごが置いてありセキセイインコやジュウシマツを飼っていました。毎日玄関に座り込みエサをあげたり、鳥たちを可愛がってた光景がなつかしく思い出されます。
悪いことをしたら母親に物置小屋へよく閉じ込められましたね。暗く狭く湿った感じの物置小屋がすごく怖くて泣け叫んでいた光景がいまでも目に浮かんできます。
家の中でかくれんぼはよくやりましたね。しかし家の中だと隠れる場所が限られてしまうのですぐに見つかっていましたがあの頃の楽しかった光景は今でも思い出されます。
大きめのダンボールを少し改造して自分だけの家を作りましたね。ダンボールの中のあの空間がたまらなくよくて家というか自分の城のような気分でいたことを覚えていますね。
小学校の頃に住んでいた借家は、手入れもしていない、鬱そうと茂った木々で囲まれていました。木造1階建てで、あばら家と言っていいほど、ご近所さんでも名が知れた、おどろおどろしい家でした。
台風が来ると、猛烈な風雨で、家の周りの木々や竹が、今にもひび割れそうな音を立て、激しい雨音と共に木々のきしむ音が家中に響きます。
雷がピカっと光ると、嵐で狂ったようにざわめいた木々や竹が照らされ、今にも得体の知れないシルエットが窓越しに襲ってくるように見えたんです。
台風のお化け、まさにそんな感じでした。嵐が過ぎ去るまで、布団にくるまって夜を過ごした覚えがあります。
飼ってました!なついてくれていて本当に可愛かった。ペットの寿命は延びているらしいですが、認知症に罹るペットも多いようで考え物ですね。自然に逆らいすぎるのは人間もペットもよくないのかもしれません。
入れられましたねー!すごく懐かしい。そのときは反省するんですけどね。。
ベタベタはって、怒られてました。今思うと悪いことしたなとおもいますね。
でしたー!今の家庭ではそうでもないんですかね?兄弟でのケーキの争奪戦が懐かしい!
うちの父は持っていませんでしたが、男の夢ですよね。いつか作りたいなぁ。
いいですね?。私には兄弟がいたので、年に2回は異なるケーキを楽しめることができる機会でした。一年に2回の楽しみなイベントでした。
私もビックリマンシールやウルトラマンのシールを貼って怒られました。
まだ、ものの大切さが分かってない頃の残滓でしょうね。
学校で悪いことをすると押し入れに入れられました。
トイレにも行けないので、ひたすらガマンして耐えました。
外からのついたてで戸が開かないようにしているんですよね。
小さい頃でしたが、弟と一緒に障子を破いていました。
障子は張り替えなければならないなんて幼い頃の私には知る由もなかったので、
キャッキャ言って楽しく破いていました。
祖父母は笑って許してくれていたと思うとうれしいです。
犬も猫も小鳥もみんな命の大切さを私に教えてくれました。
幼い頃に大切な動物と生き別れる経験が何かしらのプラスになるんだと信じています。
集合住宅だと金魚や熱帯魚以外のペットを飼うことができないですけど。。
ペットとの死別は幼い頃、最も印象深い出来事でした。
あれだけかわいがって、一緒にいた動物が死ぬなんて悲しい思い以上の気持ちを抱かせるには十分なイベントでした。
私も幼い頃、よくやりました。
障子を破く子ほど、行儀が悪いと言われていたのですが、何回も破きました。
いまでは、障子を通じて物の壊れやすさを知ることができたと納得しています。
悪いことをしたから怒られた、ということすら忘れてしまう闇の恐怖。
押し入れの外では、家族が楽しそうに話していると泣けてきました。
いまでは、懐かしいいい思い出です。
仮面ライダーやウルトラマンのシールをよく貼りました。
今では、便利なシールは餓死のスプレーがありますが、当時は。。
両親が怒るのも無理ないことが分かります。
誕生日プレゼントは我が家の一大イベントでした。
年によってですが、子どもにケーキを食べたい希望を取り入れて、
何度か親自身の誕生日ケーキも買ってくれました(笑)
はりました・・・。ガラスにも。やはりどこのおうちでもやるんですねww
おばあちゃんちに今でもあります。あのじこじこの回すのが楽しいですよね・・・!
私も兄弟してやりました。
なんこもダンボールを集めて、巨大な要塞を作っていましたが、今考えると子供ながらなかなかやるなぁ。
すると、家の中でもみつかりにくかったように覚えています。特に、布団にはさまっているとみつかりませんでした。
でもそのまま寝たりして、家の人たちにかなり捜索されておりました。
かっていましたね?。大事にみんなで育てていた記憶がなつかしいです。
文鳥はひなからそだてて、すごくなれててかわいかったです。
誕生日の丸いケーキ、懐かしいです。
私も子供の頃はケーキは誕生日かクリスマスにしか食べれませんでした。子供の頃は生クリームの白いケーキ、ショートケーキ系が一番好きでした^^
兄弟での上の飾りの取り合いも懐かしいです(笑)
うちはクリスマスにアイスクリームケーキを買ってもらったときが嬉しかったです。(笑)
今のように美味しいアイスではなかったのですが、とてもウキウキしましたねー。
なんとも言えない感じです、母が障子張りをしていたのを思い出します。
これは凄い!凄い思い出をお持ちですねぇ?、今なら重機である程度簡単ですが、貴重な経験ですね。
転落しました、それも他人に家で!屋根裏に隠れたようですが、足の踏み場を間違ったらしい。なんと、下にある椅子に落下。ちょっと、顔を打ったようでした。
撮影時間は5分程度、しかも現像!のために写真屋にもって行き、3?4日待つ、やっと出来たフィルムを撮影機に装着、部屋を真っ暗にして見ます、スクリーンなんて無くてシーツを壁に垂らして・・・でした。無音!大人になって考えると「Hビデオ」としての役割が似合う感じです。
薄い鉄板で出来た皆が備えていたストーブなんですよ?。真っ赤になったストーブに水滴を当てると「チぃーン!」と音がしたものです。
祖父が山の中でしていた仕事は養鶏業でした。
20畳ほどの部屋が五つほど連なった棟が2棟。
鶏たちはその部屋の中で走り回り、天井からつるされた餌の入れ物をつつき、
部屋に置かれた小さな部屋(高さが5?60センチくらいで、入り口にはカーテン)
に入って卵を産んでいました。
何十羽もめんどりがいる中で3羽ほどのおんどりが、めんどりを守るように胸を張って歩いていました。
たまにしかやってこない私はよそ者でしたから、雄鶏に強烈なとび蹴りを食らったこともありました。
毎日、鶏の産んだ卵をカーテンの中に手を突っ込んでとるのですが、
一度、ヒヤリとした感触にびっくりしたことがありました。
何事かと思いカーテンをめくると中には大きな蛇が!
卵を丸呑みにしていたんです。
子供だった私は、本当に怖くて怖くて。
時期は忘れてしまったんですが、ひよこが大量にかえる時期がありました。
今も写真を見ると、まっ黄色でにこにこしてしまうんですが
部屋中まっ黄色。
黄色のヒナがうじゃうじゃいる光景。
その中で祖父が笑っていたのをよく思い出します。
鬼ごっこもかくれんぼもしなくなりますね。
なんでだろう。
4?5歳の頃だったので、燃料や煙突がどうなっていたかまでは覚えていないのですが、幼稚園の頃の黒くて丸い円筒形のストーブを思い出しました。
今ではエアコンや小型の足元ヒーター等を使っているので、あまり目にかけない光景になってしまいましたが、ストーブにヤカンを乗せていたあの頃の記憶が、とてもノスタルジックな気持ちにさせてくれます。
昔 ロングノーズガーという魚を飼っていました。エサをとりかたが特長のある魚で、おもしろかったです。ある日川でエサ用に小魚をとっていると、下級生に見つかりました。仕方が無いので、エサをやるところを見せました。
その様子を見ていた母にあとで怒られました。仕事で大事な書類をいれてあるところに、父が招いた人以外いれては、いけないと。深く反省しました。
小さいころはケーキはなく、好きな食べ物をお腹いっぱいに食べさせてくれました。
いつからだったか記憶にありませんが、姉が頼んだのでしょうか。店でケーキを買ってきてくれるようになりました。ところがある日から、母が焼いたケーキになりました。
見た目のはなやかさでは店で売っているものにはかないません。しかしチョコスプレーやアラザンをまぶしたイチゴのケーキは、母が家計と相談しながら、愛情をこめてつくったものだったのでしょうね。年をとるにつれて、そう思うようになりました
今は「ブレーカーが落ちる」というのが普通になったのだろうな・・・と思います。
家電製品を使い過ぎると、今はつまみ状のスイッチ・レバーが落ちるんですよね。
便利になったもので、そのつまみを押し上げるだけで、直ぐに電気は復旧します。
昔のイエ、木造・平屋の時代は「ブレーカーが飛んだ」とか「ヒューズが飛んだ」と言いました。
当時のブレーカーは、蓋を開けると細い金属で出来たヒューズが2本、ネジ留めされていました。
一定以上の電力が流れた場合、加圧電流の熱で、そのヒューズが溶けて切れる。
通電中間点のヒューズが切れる事で、ヒートアップによる火災防止になるわけです。
かつてのような金属板のヒューズ画像が無いか探したら、説明付きでありました。
懐かしいタイプのブレーカーの様子です。
>http://www.suitcase.jp/archives/2006/03/post_20.html
電気を使いすぎてヒューズが溶けた時、大概夜なんですが、弾けるような激しい音がするんです。
バチンッという音が響いた瞬間、イエ中が真っ暗になる。
我が家ではよくヒューズを交換しました。
1?2本入りで、100円もしないの値段だったかな。
冬場にコタツやストーブを使い、さらにホットプレートとか使った日には、一気にバチンッ!!
ヒューズが飛ぶと、子供で身軽だった私が交換役として駆り出されます。
いそいそと踏み台代わりの椅子を持っていき、ブレーカーのある高さまで上る。
懐中電灯を銜え、手元不如意の中、小さなネジとヒューズという金属板を相手にしばし格闘。
便利な時代になると、飛んだヒューズ交換も、懐かしいイエの光景になっています。
昔はヒューズで今はブレーカーですね。
ヒューズも今は小型電気機や自動車等に使われていますね。
ヒューズとブレーカーの使われる範囲がありそうです。
鶏小屋は懐かしいですね。
昔は鶏を沢山飼って新鮮な卵を取るという夢を見てましたね。
現実には難しいですね。
天気予報や震災ニュースで災害が出ると学校が休みになると思い、期待してましたね。
災害で学校が休みになると大変なのに、そんな事は考えなかったですね。
今も災害が起きる度にそんな事を考える子供がいるらしいですね。
夕ご飯は楽しみですね。
朝より昼より夜が楽しみです。
ご馳走が沢山あるからかな。
虫のコオロギは今が盛りと飛び回っていますね。
何処でも入り込んで何処にでもいる。
そして、何処でも鳴いていますね。
そういえば、子供の頃、住んでいた家の庭の一角にはミミズがたくさんいる場所があって、
父と釣りに行く前に必ずそこでミミズを掘ってから釣りに行ったものです。
今だったら、もう掘れないと思います。(笑)
子供ってすごいな。
私も最初は網目がばらばらだったので、その苦労がめちゃくちゃイメージできます。でもお母さまの愛情がすごく伝わってきますね♪
おばあちゃんは、編み物もそして和裁も得意でした。もっともあたしが習いたいと思った頃にはもうなくなってしまっていたので、習えずじまいでしたが。
おばあちゃんがめがねをかけて、セーターをほどいた毛糸で椅子マット!?を編んでいたのを思い出します。その作品は今でも大事に椅子の上に鎮座しています。
その影響もあってかうちの母も編み物は大好き。ほとんど動いてばかりで座る暇もない母が座るのはいつも夕飯の片付けを終わってお風呂に入る前のひと時です。
こたつにはいってテレビを見ている父のそばで編んでいました。
みるみるうちに帽子ができあがって、子供の頃は帽子のあたたかさを感じたものでした。でも母の愛情も感じたのは今頃です。
私が編み物に興味をもちだした高校の頃、わからなくなるとよく聞いたものでした。最初からセーターという大作に挑んで、パーツを全部編み終わったところで断念。すると母は見事に完成させてくれました。
昨年は父用のセーターを編んで、うれしそうに父が着ていました。
昨年あたりからアクリルたわしやストールを編むようになったので、毛糸を交換したりして楽しんでいます。幸せなイエのひとときですよね♪
○夕沈みのコオロギの音はいいですね?・・
今鳴いています。・・(そんな季節になったんだね?・・)
○小さい頃我が家ではペットとしてウサギと猫を飼っていました。
今思うとよく猫がウサギを襲わなかったな?と・・
ウサギのための餌は雑草でした。よく草刈ガマを持って兄弟と一緒に草取りに行ったものだな?・・
○小生は独り者ですが書斎がありますよ。・・
アパート住まいですが6畳と3畳間があり・・
3畳間を書斎にしています。・・
これってちょっとした贅沢ですね。・・(ヤッタ?!・・)
○道すがら豪邸に出会うことがままあります。
どんな人が住むのか?・・興味が尽きません。
豪邸に出会うと感動!します。
(あの・・「富田」という表札の家・・凄かったな?!・・)
○道すがら「SHIMADA」という表札の家に感動!
一口に言ってムダのない家!・・
庭は芝生が敷き詰めてあって他には何もない・・(花壇もない)
ただそれだけ・・シンプルイズベスト!・・?・・(そこがいいんだなぁ!)
嫁を説得のうえマンションを購入したそうです。
たしかに最初が肝心かもですね(笑)
家が狭くて書斎はなかったんですが、父用のライティングデスクがあって(扉をあけて台になるみたいな)よくそこで仕事してましたね。父が亡き今も実家にあるその机を見ると父を思いだしますね・・。
私も子供のころから、兄弟が動物好きで、どこかからもらってきたり、拾ってきたりで、絶えずなんらかの動物がいました。それぞれに思い出があります。鳥、ネコ、犬、ハムスター、ひよこ(鶏になった)ハツカネズミ、みんなステキな(悲しい思い出もあるけど)思い出をくれてありがとうの気持ちでいっぱいです。
「サザエさん症候群」とゆう言葉があるほどですよね。
明日から学校だったり、仕事だ?って憂鬱な気分になるんですよね。
サザエさんが今も続いてることがすごい!
ヒューズって大変だったんですね。昔よく実家で飛んでましたけど、たぶんあれは押し上げるだけだったと思うので、ブレーカーだったのかな?それを直すのは父の仕事でした。そうゆうとき、父は頼れる存在に感じてました。今はくつべらを使って自分で押し上げてます。うちよく電気飛ぶんです。
昔、いた小学校で、冬教室の真ん中にそうゆうストーブがあり、それを囲んで、机が丸く並んでました。その小学校には3年しかいなかったんですが、すごく暖かくてその机の並び方も楽しくてよく覚えてますね。もちろん、ストーブのまわりには柵がしっかりとありました。上にヤカンの図も懐かしいですね。
よく、家から放り出すよ!といわれて怒られました。あのころは恐怖だったな?、家から放り出されるのが怖くて怖くてたまりませんでした。今では理解不能ですが。(笑)
サザエさん症候群。もっと早い時間帯からなっているときもある、と自慢にもなりませんが。サザエさんをみんなで見ているようだと、家庭はうまくいっているのかもしれませんね。
鬼ごっこよりもよくやったのは、ドロケイですね。あのころはなんであんなことで楽しめたんだろう。今の子供はやってるのかな?ゲームばっかりやってそう。時代は変わりましたね完全に。
家でたくさん飼ってました。今では怖くて触れません。親も気持ち悪かったんだろうな?。昆虫って男の子ぐらいにしか理解が出来ない趣味かもしれません。
というものが家にありました。子供のころは足がぜんぜんつかなくてよくぶら下がってました。今でもある健康器具なのでしょうか?いつの間にか家から消えていました。我が家では、健康器具というよりは、子供の遊び道具として大活躍していた感じです!
うわー。
みなさん大体にたような経験ってされてるんですね。
いま、現代でやると虐待では?と通報されてしまいそうですよね。
でも、私も例に漏れず・・・。
私の家の場合は、物置や、押入れのない家でしたので
(米軍ハウスにすんでいました)
悪いことをするとひきづられてバスルームへ。
そしてそこに閉じ込められる・・・というか、そこでびんたでした。なぜあんなに音の響くところでびんただったのか母よ。
私が生まれてから20歳まで育ったのは米軍ハウスでした。
区画整理で、今は道路になってしまいましたが。
横田基地の近隣の市でしたので、昔の将校さんが住んでいたのかな?
敷地も100坪ほどあり、そこに平屋の米軍ハウスが6軒ほどあつまったところでした。
ほかにも少しはなれたところにちらほらと米軍ハウスはありましたが、私がすんでいた時期には
ほとんどそれは一般人の所有物で、賃貸物件になっていて、米軍の方は基地の中で住まわれている方が殆どでした。
バスルームは6畳ほどの部屋で、そこに日本人仕様のお風呂と水洗トイレがありました。
床は全部タイル張りで、1ルームマンションのユニットバスの大きいばんってかんじでした。
水洗トイレを流すときはレバーではなく天井近くにある水のたまったタンクからぶら下がっている長いチェーンをひきます。
そのときのジャーーーーーーーーーーという音がものすごく怖くて。
夜はいつも走ってバスルームを出ていました。
ある日にはキッチンの天井が落ちてきたことがありました。
つり天井というやつで、厚さが何十センチもあるような石の塊が落ちてきたんです。
母と二人、下敷きにならなくてよかったと今でも思います。
リビングの壁にはニッチがあったりしましたが、当時の私や母には、その使い道が思いつかず
結局本棚で隠してしまったのでした。
最近インテリアの本などが気になる、今は、あの米軍ハウスよかったなあと、しみじみおもうのです。
壁はコンクリのような塗り壁で、すんでいるときは鋲がさせないしいらいらしたものでした。
私が住んでいたときでも築50年?とかいわれてたきがするので戦後すぐにたったものだと思いますが、取り壊されてしまったのを思い出すと悲しくなります。
今もその近隣にあり、最近は米軍ハウスは人気があると聞くと、ああ?もったいない。と思います。
けれど、日本の風土にはあってなかったように思います。
母と二人で暮らした今はもうない米軍ハウス。懐かしいです。
今は知らない人が多いのかなー
曳き家なんて、まさかないだろうなー、と思って検索してみたところ、何と、ありました!動画が!
http://jp.youtube.com/watch?v=ojDZ3iYCs4A
120年前に建てられた民家を2人で、1日掛けて10m移動とのことです。
鉄のレールの上を建物がゆっくりと動いています。
http://web.mac.com/suz1000/Site/%E4%B8%80%E5%AE%AE%E3%81%AE%E6%B...
shig55さんの「道路を越えて」曳き家というのは凄いですね。
見てみたかったなあ・・・
古い実家の家には、一本の杉の木が生えていました。すごく太いというわけではないのですが、子供の手からそう遠くないあたりに足をかける場所があり、登ることができました。
一番したの枝はちょうど子供が寝そべれるだけの太さと長さをもっており、ここが格好の場所でした。
親に叱られたとき、一人になりたいとき、高いところで寝そべりたいときは、決まってこの木の上に登って寝転んでました。
ものごころをついてからは、本を持ち込んで読んでいました。
座ることもできるのですが、だんぜん寝転がったほうが気持ちがよいのです。夏の朝すがすがしい空気を吸い込んだり、夕焼けを見つめたり・・そのときの光景が今でも忘れられません。
弟もここがおきにいりで、しょっちゅう木登りの競争をしてました。私が競争に勝ったとき、弟に泣かれたので、しかたなく譲ることもありました。寝そべることができる木の枝のすぐ上の枝も座ることはできたんですが、寝そべることはできなかったので、二人でくだらない話を木の上でしてたこともあります。
ちょうど真下には犬小屋がありました。その頃は外で飼っていたワンコが、またか・・・という感じで私たちを一瞥し寝そべっていたのを覚えています。
秋も深くなると隣の南天の実が赤く色づいてきてコレを見るのも好きですた。
母親が、「ごはんだからおりてらっしゃい」というのを何回聞いたことかw
そんな杉の木も現在はなくなってしまいました。もしあったら再度登ってみたいですが、折れそうでこわいですw
うちの小学校にもありました。ちょうど中心のところに。雪が降った日などは、柵!?にぬれた手袋やくつしたをかけてみんなで干していました。
実家では現在も石油ストーブですが使っています。ストーブで焼く切干芋やおもちはおいしかったですね。
またうちでも部屋を乾燥させないためにやかんがずっとかかっていました。
今でも母は小豆を煮るときはストーブにずっとかけていますし、煮物をするときもおなべを置いています。
実は・・実家のワンコであるエリーはとても寒がりで・・・小さいときからストーブにべったり。私も実家にいくと寒がりで必ずストーブのそばにいるので、いい場所のとりあいをしていますw
エリーがまだ小さいころ、あまりにもストーブに近づきすぎて、しっぽの毛がこげたことがあります。
びっくりしてあわててケージをストーブのまわりに置いて近寄れないようにしたのを覚えています。
うちはブレーカーだったんですが、ブレーカーが飛ぶと、夜なんかは真っ暗になっちゃうんですよね。
ブレーカーが落ちたってわかりきっているんですけど、弟と二人で、「おおっ!停電だー!!」っていってました。
そして父が懐中電灯をもって、ブレーカー押し上げてました。
横浜に住んでいたときのマンションのアンペア数が小さかったものですから、電子レンジとホットプレートを使っているときにドライヤーを使うもんなら一発で落ちていました。
それでも私はできず、ダンナの仕事でした。
今はアンペア数が大きいのでそれほど落ちることはなくなりましたが。
私の祖母は厳しい人ではなかったですね。
ただ優しかった面影が残っています。
私が絵を書くと「上手だね。」と褒めてくれて、
その絵をずっと取っておいたりしていました。
ただのいたずら書きのような絵だったのに。(笑)
あと祖母の作るお醤油のおにぎりが美味しかったのと、
いつも和服を着ていて、髪の毛をまとめるための油の匂いがしていたのを覚えています。
昔、住んでいた家は、大雨が降ると雨漏りしました。
それも何箇所も・・・、(笑)
あちこちに洗面器や缶などを置いて、漏れてくる水を受けていました。
置いている容器によって水の音が違って、なんだかメロディのようでしたよ。(笑)
以前も書きましたけど、いつか鶏を飼うのが夢です、目標です。
ぼくが育った家でも昔、昔は飼っていたそうです。ぼくが生まれたころには近所に家も増えて時を告げる鶏は飼えない状況になったと聞いて、残念に思ったのを覚えています。
鶏小屋を自分で作って、毎日エサをやって卵をもらう。あこがれます。
日曜の夜は鳥の唐揚げがよくメニューとして選ばれていました。うちは兄弟が多かったので、母親が鳥を2キロほども揚げている姿を思い出します。それからキャベツの千切りの山盛りにマヨネーズ。うまかったなあ。
うちの父親もよく釣りに行っていました。ただ海釣りではなく川や池に行くのが好きだったようで(我が家の地理的状況もあって)、うちに持って帰ってくるのは鯉やフナばかり。鯉やフナは上手においしく料理するのが大変なんですよね。今のぼくなら鯉は唐揚げにするんでしょうが、当時はもてあましていました。母親でさえ困っているのを覚えています。
うちにもありました、柱時計。古いものでしたがちゃんと動いて音も鳴っていました。毎時30分になると1つだけ「ボーン」と鳴るんですよね。夜中にはその1つだけの「ボーン」がなかなかに不気味に響いていました。
障子の張替えのときは兄弟で破いていました。
ぼすぼすと破っていったり、破れた端を持ってどっちが途中で切らずに長く破れるかを競争したりしていました。
猫が来てからは年中猫が破っています、よじ登ってみたりで爪あとが(^^;
私の実家は今も大雨が降ると雨漏りがします;;
台風などのときは洗面器では足りずにバケツを置いています・・・。
でも甥っ子はそれも面白いみたいで落ちてくる水を観察していたりします(笑)
雨漏りの音は独特の音楽ですよね。
自分のうちで家族でわいわい作るご飯は楽しいですよね。
お好み焼きもたこ焼きも、たこ焼きの中にはたこではなくソーセージやちくわとかが入っていたり、たまに何も入っていなかったり(笑)
たこ焼きは作りながら食べたりしていました^^
川魚はおいしく料理するのが大変ですよね。
うちの父は海のほうによく釣りに行っていたので、海の魚ばかりでした。
スーパーとかで見ない魚もいて、3枚におろして醤油とみりん、お酒、砂糖でみりん漬けにしておいしく食べていました。塩焼きとかではくせがあって食べにくいみたいです。
小学生の頃、伯父さんがよくつれていってくれましたね。夜釣りは子供一人で行かせてくれなかったので、伯父さんが帰郷するのが楽しみでした。
ある日、夜釣りをしていると、街灯の光があたる水面がゆらめいていました。何か大きな魚が、水面に集まる何かを食べているようでした。何がいるのか好奇心が湧いて、釣り糸を垂れてみました。
すると大きなあたりが!!興奮しながらリールをまきましたが、糸が細かったので切られました。今度は前より大きな針、太い糸で挑戦。見事に釣り上げることができました。釣れたその魚は、30センチ強ぐらいの大きさでした
初めて釣った大きな魚だったので、小学生の私は興奮しながら帰宅しました。家に替えると、図鑑で魚の名前を調べました。ノミノクチという魚で、ハタの一種でした。料理方法は、鍋にすることにしました。祖母が魚を捌いてくれて、皆で美味しくいただきました
小さい頃、縁側のある家に住んでいて
縁側で昼寝したり庭の芝生を眺めたり
祖母に耳掃除をしてもらったりした記憶が
今でもハッキリと覚えています。
そのためか、今でもいつか縁側のある家に
住みたいって気持ちを持ってます。
縁側のある家っていいですよね。
うちにもちょっとした縁側があります。
私が小さい頃はお父さんと近所の友達がよく将棋をしていました。
その頃はどうしてあんなところで?テーブルですればいいのに、と思っていましたが、
今から思うと凄く気持ちがいい時間だったんだろうなと思います。
vivisanさんの木登りの話を読んで私も木登りが好きだった頃があったなぁと思いました。
木の上って景色が変わって凄く気持ちがいいですよね。
私が子供の頃、家の木に登るのが流行ったときのことです。
その時、兄や親戚の子が登れるけどもまだ幼い私には登る事ができずに木の下でよく泣いていました。
そこでお父さんが、足や手を引っ掛けやすいように、カマボコ板大くらいの板を木に打ち付けてくれました。
それで、のぼる事ができるようになって、とても嬉しくって、同じ年のまだ木に登ったことのない友達を誘って、
登らせてあげたりもしました。
階段の板は今も二段だけとれずに残っていてそれを見ると、その頃の事を思い出します。
昔、縁側に座って足をプランプランさせていた思い出があります。
あと縁側でスイカも食べました。
もちろんタネはプイプイ飛ばしましたよ。(笑)
テーブルに貼ってしまったシールを剥がそうと、ものさしか何かでガリガリ擦った跡が今も残っています。
数年前にドライヤーで暖めて綺麗にとれるのを知りました。もっと早く知っていれば、こんなキズにならなかったのに。。。と、見るたびに後悔してしまいます。
小さい頃に自分の机にシールをペタペタと張っていて。。。
大きくなってから恥ずかしくて机に張られたシールをはがそうにも綺麗にはがせなくてw
ああ、なぜこんな目立つ所にシールを張ってたんだわたしゃ(^^ゞ
まぁ、これはこれで思い出になりますけどw
当時ですらかなりすでにおんぼろの古アパート。
そういえば昔はヒューズを交換してたっけ、冬場はとくに頻繁にw
懐中電灯片手にもって、ここ照らしてって頼まれたり。
昔の記憶(といっても10年くらい前ですがw)を思い出しました。
子供のころから見てたサザエさんの影響が大きい気もしますw
縁側で家族皆集まって、思い出を作る。
今の家はあいにく予算の関係でアレですがw、いつか素敵な縁側がほしいですね。
庭の自然をじっくり眺めながら、時をゆっくりとすごしてみたい。
フローリングの床やドアの木目模様をじっと観察してた時がありましたw
私の場合は動物に見えたりしたことが多かったかな。
あっ、これライオンさんだっとか。
でも、後から見ると、あれったしかここら辺にライオンさんがいたはずなんだけどどこだ(゚、。 )?
って二度と見つからなかったりも。
想像力が豊かだったのかなw
うちの家は父が自分で設計、建築をしたのですが、
私が生まれてすぐ、仕事が忙しくなり、家づくりが中断してしまいました。
でもアパート代ももったいないので、半分しかできていない家でむりやり住むことになったそうです。
なので、私が小学校に入るまでは、基礎しかない部屋が2つありました。
そこは私にとっては家の中にある公園みたいなもので、夜になっても三輪車にのったり、貼られた床の柱のところを平均台のように歩いて遊んだり、兄は掛けてある梯子をジャングルジムのように登って降りられず大騒ぎになったりもしましたが、家っていうのはそういうものだと思っていましたwww。
また、時々父の家づくりが再開すると、父が木を切ったり叩いたりしているのを簡易的に作られた仮の廊下からずっと見ていました。
そして、ものめずらしく見ている私に余った木を四角やら三角に切って積み木用として渡してくれたりもしました。
また、父の釘うちがとてもうらやましくて釘を打ったりもさせてもらったこともありました。
だいたい作業は私が幼稚園に行っている間に進みましたので、
帰ってくると廊下が増えていたり、階段がピカピカになっていたり、
どんどん家が出来て行くのを見ることができて、本当に楽しかったです。
私が生まれる前に出来た部屋と後からできた部屋では、若干出来栄えが違います。
父も7年で腕が上がったことも良く分かり、家族の為に精一杯作ってくれたのだと強く思う家になりました。
母は今でも「お母さんはお父さんが作ってくれたこの家が大好き!」と言っています。
古いアパートに住んでるとき、柱にしるしつけてもらって。
目に見えて成長を感じることができていいですよね^^
しるしとともに当時の記憶も刻まれる。
当時はこんなにちっちゃかったっけって昔を思い出すきっかけにもなったり。
懐かしいです。
目の前が一面に田んぼで訪問者がよく来ます。
時には家の中に入ってきたりすることも。
庭の草木の陰にもよく潜んでいて、夜には田んぼの帰るとともに合唱が聞こえてきます^^
窓の明かりに誘われて虫が集まってきて、それを目当てにくるのかなぁカエルさんは。
時に小さなカエルさんから大きなカエルさんまで。
窓越しにまじかで見れるから、瞬きしてるとことかはっきりと見れてカワイイです^^
ただ、時々、窓に張りついてるのを知らずに窓を開けようとして、窓と窓の隙間にカエルさんが入ってしまって
そこから無事助け出すのに一苦労することも多々ありますが(^^ゞ
子供のころ、家の建て替えに伴って一時的に住んでいただけなのですが、とても古い木造平屋建ての家に住んでいたことがありました。外壁はペンキを塗った板張りですが、所々板が浮いて剥がれそうになっています。中もけっこうボロボロで、漆喰の壁は隅っこの方が剥がれ落ちていました。柱も傷だらけで、押し入れなどは一度閉めると子供の力では開かないくらいに敷居が歪んでいました。入居した時は、えらい所にきたものだと思いました。早くこんな所は出たいと思っていました。
しかし、そこは私達家族の仮住まいを最後に、取り壊されることになっていました。ですから燃やしてしまわない限り、何をしても自由だったのです。まず私は、押し入れの大改造に取りかかりました。狭い家で自分の部屋が無かったので、代わりに押し入れをもらったのです。押し入れは二段になっています。その上段と下段を仕切る板をなんと大胆にもノコギリで切断して取り払い、敷居が歪んだ襖も取り払って代わりにカーテンを取り付けると、一畳の素敵な部屋が出来上がりました。電灯はテーブルタップで引きました。家財道具などは倉庫に預けてあったので、ダンボール箱が机代わりでした。空のダンボールだと軽くて動いてしまうので、庭に転がっていた漬け物石くらいの石を中に積めて重石にしました。取り払った板を使って中に棚を吊ったり、フックを取り付けてカバンや帽子を掛けられるようにしたりして工夫すると、狭いながらも素敵な私の城になりました。こんな事をしている間に、だんだんこの古い家に、何とも言えない愛着が湧いてきていました。
新しい家が完成してそこを引き払った後、いよいよそこが取り壊されると聞きました。ちょうど春休みか何かで学校がなかったので、私はその懐かしい家の最後を見ようと出かけていったんです。行ってみると、もう家の周りはぐるりとシートで囲まれて、中が見えなくなっていました。中で重機の音がします。ここに住んでいた者ですとお願いして、ちょっとシートを捲って中を見せてもらいました。大きな重機が首を振って、バリバリと家を壊していました。家って、こんなに簡単に解体できてしまうものかと驚きました。壁が引きはがされると、懐かしい部屋が露出しました。そこもどんどん壊されていきました。住んでいた時はあんなに頑丈だった建物が、今はまるで紙屑を引きちぎるようです。人が住んでいた時は一生懸命中の人を守っていた家が、今は覚悟を決めてされるがままになっているという印象でした。私は辛くなってしまって、ありがとうございましたとその場を立ち去りました。
今でも、あの家が取り壊されていた時の光景が目に浮かびます。こんなことなら転居する直前にもっとあの家に感謝しておくんだったと、ちょっと後悔しています。
わが家を新築した時も、父が庭作りに張り切っていました。今でも思い出すのは、石を探しに父と川原に出かけた時のことです。父は植木のスペースの周りを、石で囲いたがっていました。そこで使えそうな石を川原に探しに行こうということになったのですが、川原に着くと私は遊んでしまって、石探しや石運びを全く手伝いませんでした。父は一人で石を探しては、近くに止めた軽自動車の荷台に運び込んでいました。この軽のバンも石探しのためにわざわざ父が知り合いから借りてきていた物で、どんなに父がこの石探しを楽しみにしていたかがよく分かりますが、結局私は何も手伝わないまま、お昼になってしまいました。
父がお弁当を食べようと呼んでくれたので行ってみると、その時父が座っていた石がとてもいい形をしているように感じました。そこで私は、この石ももらっていこうよ、ちょっと大きくて運びにくいけど、この石があったらこんなふうに庭で座れるよと言うと、父はそれは名案だと賛成してくれました。おにぎりを食べ終わった後、二人で重い石をよいしょと持ち上げて車に乗せて家に持ち帰りました。それからその石はずっと庭に置かれています。私はこの石を一つ運ぶしか手伝わなかったのに、父はずっと、私が探して持ってきてくれた石だと言って、大切にしてくれていました。その石に腰を掛けて庭を眺めていた父の姿が懐かしく思い出されます。今は時々母がそこに腰掛けて庭を眺めています。
趣味のこととはいえ、お父様から素晴らしいものを受け継ぎましたね。ラッパ作りに打ち込むお父様の技術だけでなく、古い物を蘇らせようとする熱意も、きっと感動させられる光景となって目に焼き付いて来たのではないかと思います。それを温かく見守るお母様の存在もいいですね。
私は、父が存命だった時には、何も受け継ぐことが出来ませんでした。今になって、あの時の父はすごかったなぁと思うことばかりです。今となってはもう、何も聞くことが出来ません。何一つ教えてもらえません。もっと子供の頃から父を尊敬してくれば良かったと、今になって思います。
私は、ずっとカーテンに向かって涙を堪えていたことがありました。その時のカーテンは、もうとっくに捨てられていたと思っていたんです。ところが、物持ちのいい母は、それをずっと捨てずにとっておいたんですね。押し入れの奥からその布が出てきた時には、ちょっと感動してしまいました。
たしかあの時、私は小学校高学年くらいの生意気盛りで、父と意見が衝突して、自分の意志が無視されたか何かで悔しくて泣いていたんだったと思います。今思うと絶対的に私の方が間違っていましたが、当時は自分の意見こそが正しいと信じ込んでいたんですね。
そのカーテンは不思議な幾何学模様の、とても特徴のある布で出来ていました。懐かしい模様に再会して、色んな思い出が蘇ってきてしまいました。泣きながら見つめていた物って、記憶に深く残りますね。
あー、これ、わかります。うちもそうでした。っていうか、昔は結構、そういうことありましたよね。家を改築したり増築したりしている間、よそのアパートなんかに引っ越す余裕がなくって、その改築中の家にずっと住み続けるっていうこと。それで大工さんと毎日会うもんで話をするようになったり、まとわりついてなにかお手伝いをさせてもらったり。
大人が作業しているのを見ているのは子供にとって楽しかったんですよね。
うちにはなかったので憧れました
私が子供の頃、日曜日の夜は必ずカレーライスでした。
4人家族ですから、特別沢山作るという訳でもなく、ごく普通のカレーライスでした。
カレーは好きでした。今でも好きです。
そして、日曜夕方には、サザエさんを毎週必ず見ていました。
という訳で、「サザエさん」と「カレーライス」が、何となく、日曜の夕方の心象風景として心に刻まれています。
縁側はいいですね。
今もこんなにも恋焦がれるものなのに、我が家は気がつけば洋式な仕様・・・。
あんなに田舎の縁側も好きだったのに、蓋を開けてみれば日本家屋とは程遠い家になりました。
もちろん自分の家は大好きなんですが。
よさを知ってるせいか?家にはないせいか?
天気のいい日はここに縁側があったらなあと思います。
今の野望は縁側風なウッドデッキを作ることです!奥行きそんなにいりません。
夕日というものはなぜあんなにも郷愁を感じさせるのでしょうね。
素敵な夕日を見てらしたんですね。
我が家の二階からの夕日も格別です。
私が夕日を見るたびに田舎のことを思い出すように
子供たちはこの家を思い出してくれるかしら?
と思います。
うちのかいだんの踊り場には本棚を設置したスペースがあります。
二階に上っていくつもりがついそこで本を読みふけってしまうこともしばしば・・・・。
あと、うちの子供も階段から落ちたことがありますねー。
どんどんどん!って音がしてびっくりして、即脳神経外科へ・・・。
子供の頭って柔軟で、以外に平気だったりするんですよね。。。
でも、やはり頭は心配なので、用心に越したことはないんですが。
でも、特に対策は練らず・・・
atomatomさんのお父様は素敵!
うちは日曜大工は私の仕事ですから私がしなけりゃ誰もしません。
私の家も黒電話でした。
10年ほど前、どの友達の家も、おばあちゃんちでさえ!
プッシュホン、留守電付きになって、うちはまだまだジーコジーコ。
プッシュ回線での電話案内利用には四苦八苦した思い出が。
でも、あの回してダイヤルの戻る間が余裕あるかんじで私は好きでした。
回すといえば・・・
今はプッシュホンになれ、黒電話の名残はないのに
テレビだけはいまだに「チャンネルを回す」といってしまいます・・・
なぜか、7歳5歳の子供もダイヤル式のテレビを知らないのに「ちゃんねるまわす」といいますねー。
脱線すみません。
何故か子供だけ集まって、麻雀したりw
会席では、親戚のおじさんおばさんの話を聞いて、へぇ、って思うようなことも聞けたりして。
やっぱり、ああいう場だからこそ学べることも多いですしね。
階段のとこの壁に絵とか飾ってますね。
やっぱり絵とか飾ってあると雰囲気が違います。
家の階段に、物とか飾れるスペースがあれば、いろんなものが飾れて楽しいのになぁ。
本棚のスペースがあるっていいですね^^
私の場合、家の周りにはそういった木がなかったので登る機会がありませんでした。
なので、今まで一度も木登り経験がありませんw
ただ、お二人のお話を聞いて、子供の時にみた木の上から見る景色はきっと世界が大きく変わって見えただろうなとか、肌で感じる風や空気、気持ち良かっただろうなぁと想像してしまいました。
私もそういった体験をしとけばよかったなぁ(^^ゞ
私の家はもともと小さいアパート暮らしだったので小さいツリーしかおけなかったですね。
今見ると本当に小さなツリーですけど、子供の時はそれでも大きく感じてたのになぁw
親と一緒に飾り付けしたり。
そういえば、このエントリーを読んでたら、枕もとにプレゼントが置かれてた時の記憶も思い出してきました^^
プレゼント、楽しみにしてたっけなぁヽ(´▽`)ノ
子供の頃の記憶というのは曖昧ながらも、温かい記憶と共にワンカット・ワンカット、イメージが脳裏に残っているものですね。
私も生まれたての頃・幼稚園・小学校と、何度か引っ越しを経験しています。今のイエは中学以降から住んでいるので、記憶も何も鮮明に覚えていますが、子供の頃に住んでいたイエの記憶も怖いことから温まる光景まで、うろ覚えながらもいくつかのシーンが忘れられません。
今のようにデジカメやビデオなど、各家庭に必ずあるなんて頃でもなかったので、家族の思い出写真はあれど、イエそのものの記録は、ほぼ皆無に近いです。建築士の父ですら、当時のイエの全貌を覚えていないくらい(笑)
でも、昔だからこその温かい光景、イエの姿、形に残っていないからこそ、無性に心に残る風景があるのだと思います。そして共に過ごした家族の記憶も、温かいものほど、共有しているものが多いかな・・・と、家族談話をしていて思った今回のテーマでした。
vivisanたちの木のぼり談義を読んでいて、ふと思い出したのが「樹のブランコ」です。
子供の頃の家には木こそあれど、手入れがされていない家だったので、木のぼりはもっぱら幼稚園と小学校の木や森で堪能しました。幼稚園に満たない頃に住んでいた家の庭には、うろ覚えながらも柿の古木があり、子供心に登ってみたかったです。
話はそれましたが、友人のイエに、大木とまでは言えないけれど、大きな樹がありました。アメリカナイズドされたご家族だったこともあり、その樹の太い枝に、ロープでぶら下げたブランコが付いていて、とても羨ましかった思い出があります。
木にまつわるイエの思い出は、どれをとっても、子供心をくすぐる話題が多いなぁって感じたのですが、それだけ子供にとって木の温かさ、自然の温もりというのは魅力的なもので、その子たちの人生にも大きく影響しているんじゃないかなと、ふと思いました。
私の子供時代も、雨漏りの酷い家だったので、凄く懐かしくなりました(笑)
そうなんですよね。昭和のコントじゃあるまいし、今じゃあんまり考えられないけれど、当時は雨漏りといったら、たらいや洗面器やら、家中に置きまくりました。
台風や大雨の時なんて、家族総出で天井眺めて、「あ!あそこあそこ!!」なんて雨のしずくが垂れ落ちる前に、洗面器を落下点に持って行く。思い返すととっても滑稽な、今では楽しい家族の一致団結シーンのひとつです。
親戚がきたときは決まっていっしょにお昼を食べたりするので、長方形の大き目のちゃぶ台(大きめだとちゃぶ台とはいえないかもしれない)を複数個つなげて、大勢が座れるようにしてましたね。
今でもイエでは人が集まる人数が多い場合は2個、3個とつなげます。
ちゃぶ台って今考えると本当に機能的ですよね。折りたためて移動することができる。使わないときは折りたたんで収納しておけば広いスペースを使うことができる。
これって昔からある日本の知恵だったんだろうな・・って思います。
確かに泣いているときって、何か1点をじっと見つめているような気がします。私はよく親に叱られて泣いていましたが、そんなとき見つめるのは床でした。じゅうたんの模様をくっきりと覚えています。頭の中では後悔だらけでこんなことしなきゃよかった・・とか思っているのに、涙がとめどもなくでてきて、模様がぼやけてかすんでいるのになぜか覚えていますね。
イエは新しい実家に移ったのでそのじゅうたんはもうありませんが、今でも模様はっきりと覚えています。
友達とケンカしたあとだったりすると、どうしても素直になれなかったんですよね・・。でもそれが友情を深めるきっかけにもなったんですね♪
末永く友情が続いていきますように♪
私の実家は玄関側から夕日が見えて、玄関の引き戸がガラス張りだったこともあり夕暮れになると玄関とそこに面している部屋が夕日色に染まっていました。
山が多い地域なので、夕日も山に沈んでいきます^^
最近立て続けに数軒の解体される家を見ました。
なんか今年はすごく建て替えや住み替えをする人が多いみたいです。
来年あたり税金が上がっちゃうとか、そういうことでもあるのでしょうか。
建て替えで家を解体するのは当たり前ですが、
最近は住み替えで家を売っても、たいてい解体になってしまうらしいですね。
中古住宅は売れないので、お金をかけてでも更地にした方がいい、
みたいな話を聞きました。
でも、まだきれいな、これからも十分住めるような家を、
持ち主が変わるたびに取り壊すのって、すごく無駄だなぁと思います。
今は紙一枚だって、これ何かに使えないかなぁとか、リサイクルできないかなぁと考える時代なのに、
家を一軒取り壊したら、一人が何年かかってリサイクルに努力しても追いつかないほどの無駄が出ると思うんです。
節約や省資源が呼びかけられている時代に、こんな大きな無駄をしていていいのかな、と思います。
昔の家って、何百年でも住み続けましたよね。
おじいさんのそのまたおじいさんの代に建てたような家に、
代々みんな住み続けてきたのが普通だったと思います。
今は家も使い捨ての時代なのかなと、
取り壊される家を見て、そんなことを思ってしまいました。
でも、Catnipさんの住んでいた所は、しかたがないですよね。
もう最初から取り壊しが決まっていた、これが最後と決まっていた家。
最後にその家を本当に好きになって住んでくれた人に巡り会えて、
きっとその家は喜んでいたと思います。
その家に使われていた何かがリサイクルされて、
形を変えて巡り巡って、またCatnipさんの家にやってきていたりしたらすてきですね。
私の親戚はみんながあまりにもばらばらな地域にすんでいたためにあまり集まることはなかったのですが
夫の親戚はことあるごとにあつまります。
嫁の立場としては、はじめはしんどいなあと思うこともあったのですが。
みんなでわいわいと集まり話すのは本当に楽しいですね。
ただ、お酒が進みすぎてしまうのが気になるところですがw
私は一人っ子なので、兄弟姉妹でのそういう思い出っていうのが全くないんです。
兄弟姉妹がいたら、毎晩お泊まり会や修学旅行の夜みたいで、きっと楽しいでしょうね。
でも、だからでしょうか。
親と離れて自分の部屋で一人で寝るようになっても、
うちは父や母が時々、今夜はみんなで寝よう、なんて言い出して、
リビングのテーブルをどけて椅子をどけて、
そこにみんなでふーふー言いながらお布団を持ってきて、
普段と違う、特別なお泊まり会みたいなことをやってくれたんです。
私は三人分のお布団の上をマットにしてデングリ返しをして遊んだりしました。
そのあとは、みんなで横になって楽しいおしゃべりです。
やっぱり笑いすぎて寝られなくなってしまったこともありました。
なんかすごくなつかしいです。
大人になって集合住宅に住むようになってからは
あまりありませんでした。雨漏り。
たまに階上の方のお風呂が溢れたりで水が漏れることはありましたが
雨漏りのように続くものでもなく・・・。
雨漏りのときの家族の連係プレーはすごいですよねえ。
うーん、経験したくはないものの、懐かしいものですねえ。
日曜日の朝、剣道稽古の行きかえりに通った千曲川の土手。大きな空に雪山が並ぶ田園地帯は信州らしい光景で、田舎を離れても脳裏に焼きついています。ここにはリンゴ畑やブドウ畑などが広がっているのですが、脇の支流の小川に小さな木橋がかかっていて、小学生の頃は格好の遊び場になっていました。
友だちといっしょに遊んだのは、「プー棒投げ」。童話クマのプーさんの中で、プーがコプーたちと遊んだ棒投げ遊びです。橋の一方から各自の棒を落とし、反対側に誰の棒が一番早く流れ出てくるかを競う(?)遊びでした。小枝を拾っては落とし、また拾っては落としで、のどかな春の日が過ぎていきました。
唱歌「故郷」の作詞者高野辰之は、千曲川をはさんだ向こう側の町出身です。つまり彼が詠った田舎の風景は、あちらの町からうちの町を見た信州の田園風景だったのかな……と、よくそんな思いを巡らせます。
すごいですね。家って、動かすことができるんですね!
本当にゆっくりゆっくり動いて、まるでかたつむりさんみたいだと思いました♪
長く住んだ家を、こんなに労力をかけて移動させてまで住み続けるって、すごいことだと思います。
今の家は築何十年かしたらもうぼろぼろ。
こんなふうにして動かして住み続けるなんて、ぜったいしないような作りですよね。
家も使い捨ての時代。もったいないなぁと思います。
下の、古民家再生はすてきです。
昔の家、本当に古い伝統的な家は、百年たっても立派に住み続けていけるんですよね。
そういう家に住みたいなぁ。
イエの光景とまったく関係のない投稿になってしまいました。
住んでいる地域の自然がそのまま暮らしの風景になる。
田舎って、そういう暮らし方なんじゃないかと思うんです。
狭く仕切られた壁の中にしか個人の暮らしがない都会生活と違って、
きっと田舎の暮らしっていうのは、開放的な家の作りともあいまって、
見渡す限りの景色とイエという空間が一体になっているんじゃないかと思うんです。
イエの光景と言われて広い自然が思い浮かぶような毎日を送ってこられたasukabさんが、
とてもうらやましいです。
私もそんな所に住んでみたいなぁと思います。
TinkerBellさん、温かなお言葉、どうもありがとうございます。ここのところ忙しくて、ほとんどイエはてなを訪ねていませんでした。やっぱり時間がないと投稿も楽しめないですね。「イエ」は時間があってこその場所とあらためて思いました。
田舎には行政上の町はあっても街のないところが多いですよね。そういう風景もありだと嬉しいです。