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縄文時代と弥生時代に関してです。
学校の教科書では、弥生人がやってきて弥生時代になった。
縄文時代の骨格はごつく、弥生人はごつくない等と習いましたが、
私は腑に落ちません。
そんな民族大移動があったとは思えません。
どなたか私の直感を補足してください。


●質問者: martytaka
●カテゴリ:政治・社会 芸術・文化・歴史
✍キーワード:学校 弥生人 弥生時代 教科書 民族
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 5/5件

▽最新の回答へ

1 ● kappagold
●20ポイント

>学校の教科書では、弥生人がやってきて弥生時代になった。

断定的ですね。

これは、学者の間でもまだ決着のついていない問題です。

そのようなことを、一方に断定してしまっているので、martytakaさんが腑に落ちないのも尤もな事です。


でも、弥生人が朝鮮半島(これも中国という話もあります)からやってきたという話の方が優勢です。

移動手段に関しても、大型の船があったということに関して幾つかの論拠もあります。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/traffic.html

http://blog.canpan.info/ariua/archive/110


また、現在の人口から考えると民族大移動というイメージを受けるかもしれませんが、昔の人口は現在に比べると極端に少なかったと考えられるので、実際には一部落ぐらいしか移動してこなくても、そこで農耕により食料が安定して人口が増えていけば、狩猟により食料事情が不安定な民族よりもいつの間にか人数が多くなっているという事も不思議ではありません。


「大陸から弥生人が民族として大移動してきて弥生時代になった。」という説明であれば、私もそんなことはなかったと考えます。


狩猟民族と農耕民族が共存している時代があって、段々農耕民族が優勢になって行った。その結果、縄文時代から弥生時代に変わって行った。と考えるといいと思います。

昭和の時代から平成の時代に変わるということであれば、はっきりと変わり目はわかりますが、縄文時代と弥生時代の変わり目ははっきりはしていません。



以下は、学者の間でもまだ決着のついていないことに関するURLです。

参考まで。

http://reikoyamamoto.blogzine.jp/ynot/2005/07/_vs__ae0e.html

実は、「弥生人はどこからきたのか」という問題について、発掘された土器や農具を基に「縄文人の子孫だ」という考古学者と、人骨の検証から「大陸からやってきた渡来人だ」とする人類学者で対立している問題の“ガチンコ対決”でもあるというわけだ。

両者が同じテーブルにつく一つのきっかけとなったのは、国立歴史民俗博物館が数年前に「弥生時代は紀元前810年頃に始まっていた」という発表を行ったことだった。これは、従来の説であった紀元前300年頃を500年以上もさかのぼる。「炭素14」という、時間が経つにつれて減少する物質の量を測定することで、年代が分かってきたのだ。考古学の人たちはそれで、「縄文の文化は1?3割程度の渡来の文化を取り込みながら、ゆるやかに弥生を形成していった」という説を強めた。

一方人類学においては、1950年に北九州や山口県で、明らかに縄文とは顔つきの異なる大量の人骨が発見されたことで、弥生時代は朝鮮半島や中国からきた“渡来人”によるものだという説が優勢になっている。

しかし今回、考古学(文系)が初めて最先端の科学技術を取り込んだ測定で新説「500年問題」を提示したために、人類学(理系)側も情報を共有しようと思うようになってきたらしいのである。

現在はまだこの議論、すなわち縄文人と渡来人のどちらがマジョリティとなって弥生を形成したのか、あるいは縄文人と渡来人の割合はどのくらいだったのか、ということについての決着はついておらず、さらに、500年も前だったということが分かったために、今後“弥生人のルーツ”発掘するべき遺跡についても見直しが図られるという(果てしない作業だ)。

◎質問者からの返答

なるほど

言語学的に朝鮮語と日本語、中国語は兄弟語族ではないので、朝鮮人や中国人が

移ってきたというのは腑に落ちないです。

もし、朝鮮人や中国人が日本に来て大きな影響力を

持ったのならば、日本語はそれらの言語と兄弟語族であるはずだし

、そうでないとなると、移民は縄文人の中に埋没していったと考えるか

征服者(=渡来系)が被征服者(=縄文人)の言葉をワザワザ使うように

なったことになります。

昔は人数が少なかったといっても要は割合の問題が重要だと思います。

何割が渡来系だったが重要になります。

と考えると、やはり渡来は埋没するほどの規模だったが

縄文人は彼らから技術や文化を重宝したと考えるのがベターな気がします。

まして日本古来の宗教(=神道)は仏教伝来までメインだっただけでなく

仏教伝来後も消えなかった事からも、縄文人が弥生人になったと考えるのが普通

のような気がします。

いかがでしょう?


2 ● chinjuh
●20ポイント

中国語と日本語が兄弟でないことに関しては同意できますが、

朝鮮語と日本語に関しては共通する点が多く、無関係とは思えません。

http://blog.hix05.com/blog/2006/10/post_20.html


また、半島からわたってきた民族が、土着の縄文人の言葉を話しているという点ですが、

わたしは話していないと思います。

沖縄の言葉は日本語のバリエーションとして説明がつきそうですが、

アイヌ語はかなり違うと思います。自分でかじってみた感じでは中国語と日本語の関係よりは近いけれど、

朝鮮語と日本語の関係と比べると、もっと遠いんじゃないかという気がしています。

http://www.dai3gen.net/ainujomo.htm

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/03/post_7d50....



頭が悪いので主観的な説明になってしまいますが、

やはり弥生人はどこかよその土地から来たのではないでしょうか。

ただ、大挙して押し寄せて日本を征服したか、というと

そのあたりはよくわかりません。

◎質問者からの返答

>朝鮮語と日本語に関しては共通する点が多く、無関係とは思えません。

朝鮮語と日本語が兄弟語族ではないのは学会でも共通の事実ですよ。

単語レベルでの共通は意味をもちません。

こんなレベルの話をするつもりはありません。


3 ● kappagold
●20ポイント

征服者(=渡来系)が被征服者(=縄文人)という関係とは考えていません。

私の思い込みだけですので根拠は薄弱ですが、日本は、聖徳太子が言う前から、和というものを昔から大事にしていたのではないか、と思っています。


和というのは、「皆が同じになる。他人にあわせる。合わせないやつは征服する。」という意味ではなく、「各々が違うバックグラウンドや能力や意見をもっているが、一つの方向性を持って、それらをともにぶつけ合いなが ら、もっとも良いものを生み出していくこと。そして、そのためには、各人が自分の能力や考えを最大限生かすための努力を怠らないと同時 に、他人の意見も受け入れ尊重できる寛容さも持ち合わせることが必要だとということ。」です。

この中で、他人を受け入れて尊重できる寛容さというのが、重要です。縄文人の流れを汲む日本人は昔からこれをもっていたのではないでしょうか。


弥生人が渡来してきて農耕を始める。そして、狩猟を主とする縄文人は、文化の違う彼らを排除するのではなく、違う文化を尊重して、受け入れて特に戦争することなどなく、日々暮らしていたのではないでしょうか。

そして弥生人の集落も徐々に大きくなったり、新たに渡ってくるものがあったり。

弥生人は弥生人で日本の中で農耕文化を少しずつ築いていったのでしょう。


違う文化を持ちながら、戦争する事もなく暮らしていく中、縄文人の中ではあくまで狩猟にこだわるもの、農耕文化を受け入れるものなど色々とあったと思います。

そんな中で、狩猟文化にこだわり続けていた縄文人が安定した食糧供給が出来ずに徐々に減っていったのではないかと考えています。

当然、弥生人の文化を受け入れて現在へ繋がった縄文人もいると思います。

(狩猟文化だったものがいきなり農耕文化に鞍替えして、うまく行く人の確率がどのくらいあるかという問題もありますね。)


もともとの農耕文化を持つ渡来系がなった弥生人、農耕文化を取り入れた縄文人がなった弥生人両方いると思います。


割合に関しては、1ヶ月や1年の間に急に渡来して、渡来系の割合が高くなったというよりは、何百年かの間に少しずつ渡来系の割合が高くなったのだと考えています。


大きな戦争の後も見つかりませんし、縄文文化と弥生文化の混じったようなものが出土したりしているので、結構仲良くやっていたのではないかと思います。


上記は私の考えなので、参考程度に聞いてください。

http://q.hatena.ne.jp/

◎質問者からの返答

2つの人種が混在し共存して徐々に混ざっていったという意味ですね?

となると、弥生人と縄文人の人口比は半々前後という意味でしょうか?

となると、やはり朝鮮語、中国語とも兄弟語族でないどころか

同系列でもない事からも、やはり不自然です。

なぜ、日本古来の宗教である神道が残り、言語も日本語が残ったかを

考えると、縄文人9割、弥生人1割ぐらいの混在で、

主流は縄文人だったと考えるのが妥当でないですか?

(まあ、9対1なのか8:2なのかはよいとして)

>何百年かの間に少しずつ渡来系の割合が高くなった

う?ん

この割合が高くなったと言っても、累積でも半分は超えないんだろうなあと

考えます。

>結構仲良くやっていたのではないかと思います。

これは絶対に確かだと思います。

渡来人の持つ技術を常に重宝し、擁護したことは歴史的にも間違いないです。

海外のものに飛びつくのは、そのよしあしは別にして今も昔も同じですね。


4 ● rsc
●20ポイント

下記URLが参考になると思います。遺伝的には、初めに、縄文人がやって来て、後から、弥生人がやって来て混ざったみたいですよ。

http://www.jissensha.co.jp/opinion/20040915-2.htm

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-17.html

http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-267.html

http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html

http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1172050873

◎質問者からの返答

稚拙


5 ● kappagold
●20ポイント

言語に関しての私のイメージとしては、例えて言うと

昭和時代に、ブラジルに日本人移民が移り住み、そこで、ブラジルに馴染みながら少しは日系の文化も持ったままブラジル人とは仲良く暮らしています。

居住地としてはやはり日系の人は日系の人で集まりやすい傾向があります。言語は、現地で暮らすために現地の言葉を使っていて、日系3世ぐらいになると、現地の言葉が主流になっています。

縄文人の中に渡来人が入ったのも同じような状況だったと考えています。


割合が変わって行ったことについては、

この後、ブラジル人の出生率が1近くに落ちて高齢化が進み、日系人の出生率が3とか4とかに上がったら、いつの間にか日系人が主流になります。

狩猟文化と農耕文化という食に関する文化の違いが、人口変化に大きな影響をもたらして渡来人の割合が増えて行ったような気がします。

http://q.hatena.ne.jp/

◎質問者からの返答

ブラジルの場合は、ブラジル人が主体で、そこに日系は集まりながらも何代かかける間に

ブラジル社会に同化していきました。

日本語を話せない日系人なんて普通ですよね?

あなたは、なぜ弥生人の割合の方が大きいと考えるのですか?

そこが疑問なのです。

渡来人は何百年の間に多くが来たが、それらは日本に同化していったと考えるほうが

私がすでに書いたように言語学的にも宗教的も無難ではないですか?

つまり、数は多かったが割合的には少なかったと考えたほうが無難でしょう。

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