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石川五右衛門と服部半蔵の間に、何か関係ってあるのでしょうか?

ちょっとしたつながりでも、2人が誰かを通じて面識があった、などでも、
どんな些細な情報でも構いません。

2人の関係性を探りたいと思ってます。

よろしく御願いします!

●質問者: shoma22
●カテゴリ:趣味・スポーツ 芸術・文化・歴史
✍キーワード:服部半蔵 石川五右衛門
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 3/3件

▽最新の回答へ

1 ● jo_30
●27ポイント

「石川五右衛門と服部半蔵」というテーマはなかなか魅力的ですが、これをある程度真面目に語るとなると、「石川五右衛門、とは誰か?」「服部半蔵、とは何者か?」から説き起こさなくてはなりません。これは実は結構厄介な問題です。(ちなみに半蔵はここでは家康に仕えた二代目半蔵こと服部正成のことを指す、とします。)


まず、歴史資料の上で言うと、石川五右衛門という名の盗賊が実在したであろうことはほぼ確定できるものの、その素性その他一切に関しては想像の域を出ません。我々がイメージする「石川五右衛門」に関する大半の話は、後世に作られた歌舞伎・講談の類から生み出されたフィクションです。特に1802年に出版された「絵本太閤記」などの影響は大きく、秀吉の命を狙った男=タダの泥棒ではない、という伝説がそこで生み出されました。(参考:石川五右衛門と白波五人男(オノコロ交響曲))まあ、このあたりまでは、この参考のリンク先を読めば大体書いてあるようにあらためて解説するほどのこともないでしょう。


とりあえずこのように、我々のイメージする「大泥棒:石川五右衛門」像は基本的にフィクションにより形作られているわけで、「実在の石川五右衛門」と「実在の服部半蔵」に資料上接点が見いだせる筈がありません。そこで、「たとえフィクションであるとしても、仮にそういうフィクショナルな五右衛門の素性があったとして、その素性における半蔵との関係如何」をここでは問うことにします。


まず、諸説ある中で一番半蔵と関係が生まれそうな五右衛門の出自説は、「彼が忍者出身であった」という説でしょう。しばらくこの説に従えば、五右衛門は伊賀の「百地丹波(三太夫)」のもとで忍術を学んだということになっております。織田信長の天正伊賀攻めで戦死したと伝えられる「百地丹波」は、元をただせば源平の合戦で戦死したと言われる伊賀忍者の祖「服部平左衛門家長」の末裔である上忍三家の筆頭。そして半蔵の親で、そもそもは伊賀の一族の筆頭であった初代服部半蔵こと千賀地(のち服部)半三保長とは親戚関係。(参考:伊賀忍者と甲賀忍者)従って、半蔵から見れば五右衛門は「分家の見習い(のち脱走)」という感じになりそうです。ただ、半蔵自身は忍者ではなくしかも伊賀生まれでもないので、彼にしてみれば単に自分の出自の地である伊賀に残っている分家の関係者……という遠い関係に過ぎず、面識というものもちょっと生まれそうに有りません。


ただ、まず一つ考えられる接点としては、その半蔵が自分の出自を頼らざるを得なかった「家康伊賀越え」の際です。1582年本能寺の変に際し、上洛していた家康は半蔵らの案内により密かに伊賀を越え大阪から伊勢まで脱出に成功しました。これがのちの家康による伊賀勢の保護につながるわけですが、これは五右衛門釜ゆでの12年前です。釜ゆでにされたとき五右衛門には「母親」と「10数人の仲間」がいたとされています(物語では幼い一子もいたと言います)ので、大体年齢でいうと30歳前後でしょうか。そうすると、その12年前……は、五右衛門が伊賀で修行をはじめたとされている19歳の頃、という話と符号します(ただしこの場合百地丹波は戦死していなかった、という説を取らなくてはなりませんね…)。つまり、このとき両者は顔を合わせている可能性があります。(五右衛門自身がそもそも伊賀交野郡の出身である、という説を取るとしたら、信長の伊賀攻めの際も伊賀にいた可能性があるわけで、これはちょっと難しいですね。)

なお、一説にある通り「三好氏の家臣石川明石の子」という説を取るとすると、伊賀を出た千賀地(服部)半三保長が使えた十二代将軍足利義春(およびその子義輝)を京より追い落とした三好氏家臣の子である五右衛門と、服部家は敵対関係ということになるわけですが、これは半三自身がのちに将軍を見限って三河に行ってしまうので因縁というほどの物はないでしょう。あくまで「別の説を取るなら」という感じです。


さて、また元の説で次の接点を考えますが、このあと五右衛門は盗賊に半蔵は槍を取って戦場を駆けめぐり、両者の接点はなかなか生まれようもありません。そこでフィクションに力を借り、実在したとは言えない1594年の「とある忍者(石川五右衛門?)による秀吉暗殺未遂事件」が一応実在したと仮定して、更にその黒幕が冷戦関係にあった家康だった……という説を考えてみます。というか、そのアイデアを元にしたのが司馬遼太郎の出世作「梟の城」(リンクは映画版のあらすじ)です。この作品では、「京を荒らし回っていた盗賊=石川五右衛門」と、「伏見城に忍び込んで秀吉と対峙した忍者=重蔵」と、「伏見城でつかまり『五右衛門』を名乗って大泥棒として釜茹でされた男=風間五平」がそれぞれ別人という設定になっています。そして、「盗賊:石川五右衛門」でなく、「忍び込んだ男=重蔵」に仕事を依頼するのが家康の密命を受けた半蔵ということになっており、仮にフィクションを前提に話すなら、クライアントの代理人と実行者という関係で「忍び込んだ男」と「服部半蔵」は関わったということになるでしょう。ちなみにこの「暗殺未遂」を実在とし、更にその黒幕を翌年讒言により切腹させられた秀次だ、とするお話もあるそうですが、こちらを取ると半蔵との接点が消えてしまうので良くないですね。


最後に、これは完全に想像ですが、石川五右衛門はなぜ「釜茹で」刑にされたか、という点が、調べていて妙に疑問に感じました。歴史を振り返っても「釜茹で」刑は日本の刑史上でこのとき唐突に現れそして唐突に姿を消します。蒲生氏郷が釜茹でを好んだ、という話もありましたが(参考:釜茹での刑と言えば)定かではありません。古代中国では度々行われたようですが、見せしめというだけなら、先に信長の命を狙った杉谷善住坊に準じて「鋸引き」という方法もあったわけで、唐突にこの手段が用いられているのが解せないところです。また、一介の盗賊にも関わらず秀吉の命により京都所司代前田玄以直々に彼を捉え刑に処したとか、五右衛門が死後に立派な戒名を与えられたという話があるなど、彼の死についてはどうも色々とよく分からないことがあります。その辺りの線で、半蔵の何らかの関与を考えてみようとしましたが(刑罰の方法の持つ意味とか、あるいは弔ったこととか)、やはり完全に「お話」レベルにしかなりそうもなかったので、こちらは想像に留めておくことにします。

◎質問者からの返答

すごく詳細に有り難うございます!!

どうしても曖昧、というか本当かどうか分からないところもありますが、

教えていただいた内容をもとに自分でも考えてみます。

ありがとうございます!


2 ● w83
●27ポイント

石川五右衛門は伊賀の抜け忍であったという説があります。ただ石川五右衛門が師事した人物は百地丹波(三太夫?)であり、服部半蔵とは関係ありません。

また服部半蔵は、代々襲名していく名前であったので、服部半蔵は歴史上複数います。ただ世間一般で知られている服部半蔵は、服部正成のことです。生まれは三河国(正成の父は伊賀出身ですが)であり、出身地は石川五右衛門と異なるようです。

こうしてみると、石川五右衛門と服部半蔵のつながりは忍者ということになるように見えます。しかし服部正成は忍者ではなかったといわれています。伊賀忍者を統率する立場であったにすぎないのです。ただ武勇に優れた人物で、槍の名手として知られていました。

というわけで石川五右衛門と服部半蔵は関係がないといえるでしょう。関係があるとすれば、両者とも伊賀に縁のある人物、という程度ではないでしょうか

http://www.2nja.com/

伝説の忍者のところで両者のことがかかれています。参考までに。


3 ● harunobu-1984
●26ポイント

梟の城でWikiしました。石川五右衛門 - Wikipedia

『梟の城』(ふくろうのしろ)は、司馬遼太郎の小説。

服部半蔵、石川五右衛門など、実在人物も巧みに配置されている。

忍者同士のアクションシーンが見どころの映画です。

五右衛門の煙管と強さについて、

江戸時代、宝暦明和の陰謀事件で死刑した藤井右門定之、捕方がかかっていっても煙管一本、扇子一本で対応されて逃げられてしまい、何としても捕らえることが出来なかった…

武術談義、(黒田鉄山 甲野善紀)壮神社 p37に記載が5行程度書いてありました。

石川五右衛門の強さを例にして又煙管を獲物(武器)として使った所から話がでたと思われます。



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