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お釈迦様は6年半、荒野をさまよって修行をされました。その結果として得た悟りとは、人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。

お釈迦様の体得した悟りは、所を日本に移せば、修験道や神道における禊のようなものかもしれません。文明的なものを、禊ぎ、祓い、清めて、1匹の生物になりきる。言葉のない世界を生きる。

悟りと禊ぎは、同じものだから、天台宗では今でも千日回峯行が尊ばれるし、禅宗は言語を使うなというわけです。

さて、このように禊ぎや悟りを理解したときに、言語以前の人間の心や感情と、言語が生まれた後に形成される意識とを、別々のものとして扱うことが望ましいと思います。言語以前と言語以後とをうまく言い表す言葉を教えてください。
(ひとり一回だけにしますので、ご自身の言いたいことを、要点を明確にわかりやすく書き込みお願いします。)

●質問者: ShinRai
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
✍キーワード:にわか 人間 修行 修験道 動物
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 39/39件

▽最新の回答へ

[1]言語以前と言語以後 taka27a

言語以前=自己内省

言語以後=表現、客観性への依存、働きかけ


[2]えっ!! idetky

> お釈迦様は6年半、荒野をさまよって修行をされました。その結果として得た悟りとは、人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。

これが、彼の悟りの本質ですか!!??


[3]>2 その後の彼の生き方から判断すると ShinRai

そうなります。(もちろん、私がそう理解しているだけですが)


[4]>1 対自と対他という切り分けですね ShinRai

たしかに、そういう切り分けも可能かもしれません。

しかし、我々は内省を言語で行っていることが結構ありませんか。


[5]>1 感性と知性 australiagc

言語が無い状態では情報がどうしても複雑化できないから、身体全体をアンテナにして情報を読み取ろうとする。

五感や第六感(?)を駆使し、得た情報も身体に染み付いた経験と感情 - 感性で処理する。


それに対して言語がある場合は情報が複雑化できるから、身体的なアンテナが鈍る。

その代わりに得た情報を処理する頭脳が発達し、脳に記録された知識と知性での処理に依存することになる。


と、思います。


[6]>5 これはなかなかいいですね。 ShinRai

感性は、全身をアンテナにして、世界に対峙する

知性は、いったん頭の中で処理する

なるほど、野生動物は考えたり迷ったりする時間が短いし、くよくよ悩んだり、うつ病になったりしませんからね。

う?ん、これはいいですねえ


[7]概念形成の起源 heptagon

言葉、単語というのは相手と共有できる概念であり、言語の誕生により、同時に自分と他人とのあいだでの概念のズレも生じた。「赤い」という言葉でもその色のイメージは人の数だけある。ということになるでしょうか。


[8]>7 情報源符号化の問題ですね ShinRai

「赤い」のように分かりやすい言葉であっても、人の数だけイメージがある。

「ラーメン」の場合、九州の人は、トンコツスープのまっすぐ麺、東京の人は醤油スープの縮れ麺、、、、と違いますからね。

コミュニケーションとは何かということにもなりますか。

我々は少ししゃべりすぎなのかもしれませんね。

話せば通じるという期待をついついもってしまうけど、実はデュアル・モノローグなやりとりなのかもしれない。

言葉は記号に過ぎない。概念は恣意的である。それらの記号に自分の心を支配されるなというメッセージを禅宗は発してきたのかな。


[9]>2 お釈迦様は35歳で悟りを開いてから ShinRai

80歳でお亡くなりになるまで、ひたすら遊行生活を続けて、淡々と道を説いたのでした。


[10]融合と分離 dabloger

言語以前では世界と融合して自他の区別はなかった。

言語ができることによって自分とそれ以外の事物を区別するようになった。何にでも名前をつけて区別するのがその現れである。


[11]>10 これもおもしろい、言葉をつかって名前をつけることは対象化しているのですね ShinRai

創世記に人間が動物に名前をつける場面が出てきますが、名前をつけることは、対象化することであり、また所有することにもつながるかもしれませんね。

言葉がなければ名前もないのであり、まさに言語作用でありますね。

言葉がなければ、敵、味方、どっちでもない、といった程度に区別していただけかも。


[12]>6 私はこう表現してます t-saitou

感覚派と頭脳派。


[13]わかる/わからない という言葉があります。 lqdf

「言語以前の」渾然とした意識のあり方から、何かを知覚する瞬間、つまり分かるというのは、文字通りその「何か」を他から「分かつ」ことですよね。


名前を付けることで、区別する。言葉で表すこと即ちわかること、と言ってもいいと思います。


「分かる」「分からない」という言葉をそういう意味で捉え直すのはどうでしょうか。


* * *

(仏教や神道のことは理解の浅い私にはなんとも言えないので、「このように禊ぎや悟りを理解したときに」…というところから考えてみました。私は仏教には自然科学というイメージがありますが、神道はそうでもないです。)


[14]>9 お釈迦様っぽくない Gay_Yahng

>人間も動物の一種である、しかし退化してしまったから自然の中で生きていくことができない。だから、なるべく自然を破壊することなく、わずかな衣服や食糧で生きていくのがよい。というものだと思います。

退化とか自然破壊とか今風じゃないですか?お釈迦様の頃にあった思想ではないような気がします。

仙道に近くないですかね?


[15]自力と他力 ks1106

自分の力で、すべてが思いどうりになると思う自力、と自分とそれ以外の力によって導かれていると思う、他力。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」



昔インドの祇園精舎にて修業されていたお釈迦様が亡くなられました。多くの人が悲しみに包まれて、その死を悼み、精舎の鐘を打ち鳴らしました。鐘の声は暫くは近くの木々や遠くの山々にこだましていましたが、やがては虚空に消えて行きました。

数多の人に敬われ、慕われていた貴い御方でさえも、この鐘の音に似て、今世に留まることは許されず、あの世へ旅立たれたのです。

貴方も、時を告げるお寺の鐘の音に、耳を傾けた事があるでしょう。初めは、お腹に響くような大きな音が、次第に小さくなって、遂には虚空に消えて行きます。

貴方が今抱えている、喜び・怒り・哀しみ・楽しみ、これら総てが、実はこの鐘の音と同じなのです。どんな大きな喜びも、又、哀しみも、そして、今ここに生きている貴方さえも、時の流れと共に、やがては、消えゆく運命にあります。

かように、地上にある総てのものが、同じ所に留まることは許されず、時と共に流されて行く果敢ない運命を背負っているのです。これを諸行無常と申します。

沙羅双樹は、夏の朝早く清らかな白い花を咲かせますが、夕方にはその色もあせて、やがて散ってしまいます。どんなに富み盛えた者も、この沙羅の花に似て、必ず衰えて行くのがこの世の道理なのです。

如何に驕り昂ぶりし者も、久しくその地位を保てる訳では有りません。いずれは誰かに打ち負かされるのが、この世の定めです。ただ、春の夜の夢の如くに。

また、人の迷惑も顧みず、我が世の春を謳歌せし猛き人も、永遠には生きられないのです。時の流れに吹き払われて、遂には滅んで行きます。ひとえに風に吹かれる塵と同じ様に。


[16]二分化 bigvan

言語以後:善と悪、神と悪魔、光と闇、、生と死、私とあなた、迷いと悟り

言語以前:梵我一如、涅槃


[17]言語以前:内在化=体内化、言語以後:外在化=体外化 kuhuusa-raiden

言語以前は、感覚も結果としての行動も、それに使う道具も、能力を体の中に内在化させていく必要があった。道具を使いこなす能力も含めて。つまり、内在化。能力の体内化

言語以後は、それらを体の外に出していくことができるようになったし、体の外に蓄積していくこともできるようになった。つまり、外在化。能力の体外化

仏教では、内在化志向が強いのが密教、外在化志向が強いのが顕教。

本当はどちらも必要で、二つのやり取りの中で過ごしていくのが良いと思います。お釈迦様自体、言葉も巧みだったのではないかとスッタニパータなど原始仏教の経典を読んでいて思いますが。


[18]>13 言葉によって「分ける」ことが「分かる」こと、そしてそれは「分かったつもり」でしかないこと ShinRai

そしてそれは「分かった」つもりでしかないのかもしれない。

日本語の「心」は、「言葉以前の感情や感覚」と、「意識作用」の両方が混じっているように思います。

心の分析、解析を行なって、言語以前の部分の心と言語以後の部分の心を、分けてかんがえると、

悟りに到達できるのかもしれない。

僕も別に宗教の専門家ではありませんが、仏教の修行も、神道の禊ぎ修行も、どちらもやってみて、

基本は「意識を吹っ飛ばす」ところにあると感じています。

お経も、念仏も、座禅も、滝に打たれるのも、山を歩くのも、大声を上げて叫ぶのも、

意識をぶっ飛ばして、自分自身の中にある動物の部分に気づくと、

それが実にまっすぐで美しく輝いている命そのものであるとわかる。

この点では、あまり言葉で説明しない日本の修験道や神道と、お釈迦様の開いた仏教は似ていると

思うのです。


[19]>17 我々はしゃべりすぎかもしれない ShinRai

言葉を使って表現するのは、他者に対する支配や攻撃、あるいは勧誘や誘惑であることが実に多い。

テレビの番組やCMは、ほとんど洗脳のための言葉だ。

キリスト教でも仏教でも、沈黙するという修行があったはず。

我々は沈黙することによって、分をわきまえた、正しい生き方を送ることができる。

ということなのかもしれない。


[20]>16 これも面白い、二分化するのは言語があるから ShinRai

あやしげな新興宗教なんて、みんな「これは正しい、これは間違っている」

てなことをいいますね。

言葉がないと成立しない。

共産主義とか左翼もだいたい言葉で善悪を決め付ける

これもよくないわけだ

言語以前の一如の世界を提示できない宗教は、

人類文明の垢や穢れを落としきれていない、

俗っぽいものなのかもしれないですね


[21]心と感情・・・ 意識・・・ fusakogane

宗教には素人ですけど・・・宇宙とか原子と分子ってお釈迦様には無関係ですか?


[22]>21 分子レベルで我々は宇宙と連動している ShinRai

そうですね、言葉以前の存在として、すでにお釈迦様は、

我々のDNAやタンパク質合成の神秘について感じておられたかもしれませんね。

実際に、お釈迦様がお生まれになったルンビニは、ヒマラヤ山脈の麓です。

これは、インド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかった接点であり、

ものすごい霊力のある場所だと思います。

インドでたくさんの聖者が生まれているのは、この大陸と亜大陸の衝突によって

できた聖地だからではないでしょうか。

もしかすると、そのインド亜大陸がゴンドワナランドから分裂したのは、

1億4500万年前のモロケン隕石衝突による衝撃かもしれません。

我々の体内にすみついているミトコンドリアも、20億年前のフレデフォート

ドームの隕石衝突の時代に登場しています。

我々の命は、まさに分子レベルで、宇宙の動きと連動しているのだと思います。

お釈迦様はそれを言葉にしていたかもしれませんが、弟子が聞いてもわからず、

残っていないだけかもしれません。


[23]無為自然と有為自然 serian

言葉=人為、作為とするとこんなのもありでしょうか。

老子はその後、インドに行ってお釈迦様になった、なんて伝説もあるみたいですね。


[24]>23 言語の人為性、これは記号言語(デジタル符号)だから符号化過程が伴うからかも ShinRai

非常に鋭いご指摘ですね。

人間の言語の場合には、どういうふうに言葉にするかを悩みます。

たとえば、何かがほしいときに、「欲しい」と素直にいうよりも、

「○○があったら、こんなかなあ」とソフトにいったほうが手に

入りやすいとか、「○○は、お嫌いですか」といってみるとか。

言語のコミュニケーションの複雑さは、心にある思いを、相手の

心にどうすれば伝えられるかというところもさることながら、

自分の希望をどうすればかなえられるのかという相手の操作・支配

を含むところ(政治ですね)ではないでしょうか。

そういうふうな下心でものごとを考えて言葉にすること自体が、

あざとくていやらしいことではありますね。


[25]悟りを意思の更に上位に考えれば nasi-goreng

そのままですが、言語があってもなくても思考はされるので

言語以前の人間の心や感情

「非言語思考」

言語が生まれた後

「言語思考」

悟り

「超言語思考」

あるいは悟りは、思考さえないのかも・・・。


[26]>25 素直な回答をありがとうございます ShinRai

たしかにそれもありますね。

でも、いったん言語を持ってしまうと、非言語思考に戻るのが大変ではないでしょうか。

非言語思考でなければならないところに、言語思考を持ち込むと、間違った結論にたどりつかないでしょうか。


[27]墓も立てるな、葬式もいらない ShinRai

動物であるのに、自然の中では生きていけず、文明を作って暮らしている人間存在の不自然さについて悟りを開かれたお釈迦様は、お亡くなりになるときに、墓もいらない、葬式もするなと言い遺されたそうです。

葬式仏教に堕している日本のほぼすべての仏教宗派とは、違ったことをお釈迦様は説かれたわけです。

これは、お釈迦様は悟っていたけれども、日本のほぼすべての仏教宗派は、悟りに達していないということを意味するのでしょうか。

難しい問題ですね。


[28]2(n)=2n motsura

以前と以後に世界を分けて考えるって、なんか宇宙が生まれるプロセスにも似てる気がするんですよね。

「有」の世界 2(n)=2n (有意識、認知の拡大)

ちなみに「無」の世界 1(n)=1n


[29]>28 1か2か、それは実像だけの世界と、虚像も交えた世界ということだろうか ShinRai

お書きになられたことを理解できている自信はありません。

しかし、1と2として理解するのは、言語による意識が生まれて、もうひとつ世界が増えたということかもしれないと思いました。


複雑系(complex)についてサンタフェ研究所が行なった議論を思い出します。

この複雑系を表すcomplexは、そのまま複素数のcomplexと同一であり、すなわち虚数部分が加わったという意味にとればよいのかもしれませんね。

つまり、人間の意識は、虚部であるということになるでしょうか。

「情報理論の父であるクロード・シャノンが指摘したように、厳密に数学的な意味でのみ情報は定義することが可能であり、それは純粋な符号化とメッセージ伝送の物理学に限られる。

したがって我々が意味や内包として理解しているものとはまったく無縁なのである。

このために、サンタフェ研究所のゲルマンたちは、日常的に用いられている意味を表わす言葉として「複雑系」という用語を提案したのである。これまでのところ、複雑系を数学的に表現しようとするすべての試みは失敗している。」

ハンス・ノル


[30]>26 動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか:nasi-gorengさんからのコメントに答えて ShinRai

>すみませんおっしゃっている意味がよく分かりません。

>非言語思考→言語思考→超言語思考

>と考えた時、非言語思考に戻る場合もあると言うことですか?

>私は超言語思考は=非言語思考とは考えていないのですが、超言語思考が何かは悟りの境地のことなので私にはわかりません。漠然と言葉を超えたところに悟りがあるのでは?ということです。


このあたり、言語で、しかもネット上の言語で、議論をするのは、非常に難しいですが、要するにこういうことかな。

つまり、動物は悟っているのか、人間だけが悟れるのか。

言語を獲得していない動物は生まれながらにして悟っていると考えるのか、それとも、いったん言語活動を行なってからでないと悟れないのか。


天台本覚思想では、山川草木悉皆成仏といいます。

山も川も草も木もみんな悟りを開いている。

だから、生命そのものの状態は覚りである。

人間だけが言語の作用で迷いの世界に入り込んでおり、悟れていない。

もちろんこれもひとつの考え方です。


[31]一性と二性 kyamada

他の方の答えと重なりますが・・・。

言語とは外界を切り分け、分類するために生まれたものです。幼児の発達段階においては、「これとあれは違う」ということを繰り返し学習することで外界の認識というものを徐々に完成させてゆくわけです。

人間はそのようにしてロゴスを発達させ、他の動物たちと文字通り一線を画した文明を築いたわけですが、「それでは(他者とは違う)自己とはなにか」という疑問に行き当たったとき、「切り分ける」だけでは結論に行き着くことができません。人間とは「関係性」と「時間」の中で生きる生き物であるが故に、そこから「他者と関係のない自己」や「過去と関係のない現在」を切り出そうとすると「結局何も存在しない」という結論になってしまうことが多いからです。

質問者さんは「禅は言語を否定する」とおっしゃっていますが、禅(とくに曹洞禅)の修行において、坐禅とともに重要視されているのが「公案」、つまりパラドキシカルな言語による問答です。教師は弟子を意図的にパラドックスに陥れることによって、弟子が捕われている二分論的状況からより高次のコンテクストに誘導する訳です。

例えば卑近な例では「右の道に行ったら死ぬ。左の道を行っても死ぬ。どうすればよいか」→「来た道を戻ればよい」というように。

これは確かに二性からの解放を目指したものではありますが、かといってもとの「一」、つまり言葉のない動物の状態に戻れ、ということではありません。言葉による切り分けの向こう側にある統合を目指したもので、これを「円相」で表すそうです。


[32]>31 言葉による切り分けの向こう側にある統合 ShinRai

円相ですか。知りませんでした。


たしかに公案の問いは、論理的正解のないパラドクスに弟子を落としいれますね。

頭で考えているかぎり絶対に正解にたどりつかないパラドクス。

これも頭で考えることを否定するためでしょうか。


[33]>32 個人的には kyamada

弟子「いつまで考えても正解にはたどり着けない、だから私には禅の修行など無理かもしれない」

師匠「それを考え続けることこそ禅である」

・・・ということではないかと思います。

坐禅の修行のある段階において、五感に「普通ではあり得ない」感覚を感じることがあります。トランス状態やLSDによる幻覚に近いものだそうです。ほかの宗教(シャーマニズムや密教など)ではこれを忘我の境地と表現したり神秘体験とすることがありますが、禅宗はこれを「魔境」として否定します。私としてはこれが「頭で考えることを否定した状態」ではないかと考えます。釈迦が断食をしているときにマーラが幻覚を見せて誘惑する、というエピソードがありますし、イエスが荒野をさまよっているときにも悪魔が幻覚を見せて誘惑するエピソードがあります。しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは結局「言葉」であり、論理=ロゴスでした。

弟子のおかれたコンテクストを一度解体し、より高次の論理の構築を目指す(目指し続ける)ことこそ円相(円相はただ描かれた図だけではなく、円を描く動作そのものも含んでいます)の示すものではないかと考えております。


[34]>33 しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは結局「言葉」であり、論理=ロゴスでした。 ShinRai

そうですか。

しかしこれらの誘惑に打ち勝つ手がかりとなったのは

結局「言葉」を乗り越えることであり、

論理=ロゴスの否定でした。

と言い換えることもできそうに思うのですが。


[35]参考文献をいくつか… webees

ストーの「孤独」を読んでから、エッセンシャル・ユング、チクセントミハイの「楽しみの社会学」、マズローの至高体験(本の名前は忘れた)なんかを読んでみてはいかがでしょうか。言葉が人間の脳の局所的なところしか切り取っていない様子がよく分かります。コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」なんかもおすすめです。だいたい同じようなことが書かれています。これについて明確に書くのは不可能です。言語ではあつかえない体験だからです。


[36]>35 どれも読んだことがありません。ありがとうございます ShinRai

読んでそれが私に理解できるかどうかは、別として、ためしに読んでみたいと思いました


[37]>22 生物は死ぬと分子に還る? fusakogane

人間を含めて生物も分子の集合体ですものねぇ・・・


[38]>37 だからあまり気に病む必要はないのでしょう ShinRai

悩まないというのは、大切な教えですよね。

この世に執着がなくなれば、悩みもなくなります。

一匹のサルとして、いさぎよく分子に戻っていけばいいのでしょうね。


[39]>30 お釈迦様の考えなのですか? nasi-goreng

天台本覚思想 と言うのを存じ上げませんが、この思想はお釈迦様の考え、悟りと同じなのですか?

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