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哲学的ゾンビ(ここでは神経的ゾンビのみを指すことにします)について語る時、我々の多くは「少なくとも自分だけは、哲学的ゾンビではない」ことを、あたかも自明の公理のごとく信じているように思えます。

Q1.『自分』は本当に、哲学的ゾンビではないと言えるのでしょうか?
Q2.『自分』が赤いリンゴを見て「赤いなあ」と感じるとき、そこに本当にクオリアは存在しているのでしょうか?
Q3.そもそも「意識」や「クオリア」なんてものは存在するのでしょうか?

●質問者: arukichigai
●カテゴリ:学習・教育 科学・統計資料
✍キーワード:クオリア ゾンビ リンゴ 公理 哲学的ゾンビ
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 17/17件

▽最新の回答へ

[1]たしかによく分からないけど。 nasi-goreng

A1.感情があると感じているからあるんじゃないかな?

A2.A3.赤いリンゴを見て「赤いなあ」と感じる ことがクオリアの意味なのでは?

arukichigaiさんの「クオリア」ってなんなのでしょうか?


[2]証明するのは難しい bg5551

レモンをはじめて食べたときすっぱいと感じる。

次にレモンを見るだけで反射でよだれがでる。

これを感じるのであればクオリアが存在するのではないでしょうか。

アンドロイドはゾンビではありますが、逆に感情を持ちえたアンドロイドが

存在するならこれはゾンビなのでしょうか。

難しいところです。


[3]自分自身に対しては自明 TAK_TAK

自分自身に対しては自明なのでしょうが、

客観的に、

他者に対してそれを証明することは不可能じゃないでしょうか


[4]まず我有りから heppocom

自分に意識(のようなもの)がある、という前提でないと哲学的ゾンビは語れません。また、あなたが私でないこと、私があなたでないこと、が今のところのクオリアの証明です。


[5]A1のみですが wen000

哲学的ゾンビではないと言い切れないからこそ「哲学的ゾンビ」という概念が生まれたのではないでしょうか。

…なんかトートロジーみたいですが(笑)


[6]>5 他人の意識は見えないけど ku__ra__ge

自分以外の存在が「本当に」意識を持っているかを直接観測することはできません(行動から推し量るしかない)が、自分が意識を持っていることは自分で直接観測することができるのではないでしょうか?

観測した「意識らしきもの」が意識であるか否かは、意識の定義次第だと思います。


[7]哲学的ゾンビ konnkiti

朝起きては昨日と同じようなことを繰り返しまた寝る

まあ土日休みはありますが(笑)

土日を除いて「哲学的ゾンビ」になっているのかも


[8]クオリアって定義しきれてないよね ku__ra__ge

Q2.『自分』が赤いリンゴを見て「赤いなあ」と感じるとき、そこに本当にクオリアは存在しているのでしょうか?

Q3.そもそも「意識」や「クオリア」なんてものは存在するのでしょうか?

この問いは、クオリアや意識の「本当の定義」とはどういうものだろう?という問いだと思います。

『クオリア(意識)は「xxx」と定義したとき』という前提つきであれば、この問いは明確に答えが出ると思いませんか?


[9]>2 証明はできない。 ku__ra__ge

感情を持っているアンドロイドは、哲学的ゾンビではありません。

感情を持っているように見えるが感情を持っていないアンドロイドは、哲学的ゾンビでです。

しかし感情は心の内にしか存在しないものなので、

外部から本当にそれを持っているかを判断することは不可能です。

……ということではないかなあ、と思います。


[10]>7 wikipedia読んでの感想になってしまいますが、 dabloger

Q1.日々の生活になんの違和感もなくただ自動的に習慣でずっと過ごしているような人のことみたいだな、と思いました。

もし、そういう意味でならば、『自分』は哲学的ゾンビではないといいきれない時期があったかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%B...


[11]>3 他者には説明できない azukiazu

他者に自分がそうではないと説明したところでそれを照明するものはない


[12]>10 自動的に過ごしていても azukiazu

その生活の中で日々違ってくるものもあり、晴れの日と雨の日で違う感覚を覚えるようなものもあるのでは?

今日の気温と明日の気温が違うだけでも感じるものが違う。


[13]>9 外部からは不可 azukiazu

外部の人にコトバで訴えてもそれは証明できない。


[14]>1 感覚的なものがあるから azukiazu

何かを見てはわけもなく嬉しくなり(わけがあるときもあるが)何かを聞いては懐かしく思い。

何かを触っては心地よいと感じ、何かを嗅いでは心落ち着く。

やっぱり人間だ。


[15]>6 確かに azukiazu

自分以外の存在の人物に哲学的ゾンビを証明するものが無いからこの言葉が生まれたのでしょうね


[16]>15 哲学的ゾンビだとしたら話が終わるから? qaze00

逆説的になるが、自分が哲学的ゾンビであれば、この問題を考える「自分」がそもそも存在しないわけで、すべてが無意味として考えられるのでは。自分が哲学的ゾンビでないからこそ、こういった問題を考えることが有意味になるのではないか?。


[17]公理ではありますが自明の公理ではありません。 vasso

公理が自明かどうかは、あなたが決める事だと思います。

あなたがあなた自身を認識したとき、その感覚を意識およびクオリアと呼びます。

意識およびクオリアがない事を哲学的ゾンビと呼びます。

従って、あなたがあなた自身を認識できるとき「少なくとも自分だけは、哲学的ゾンビではない」ことは自明の公理となります。

あなたがあなた自身を認識できないのであれば自明の公理となりません。

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