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【平安貴族ってなんか役に立ってたの?】
政府とは、国民から徴税を行い、代わりに公共サービスを提供するものだと思います。

しかし、平安時代の政府(朝廷、でしょうか)って、なんか庶民にサービスを提供していたんでしょうか?

大仏の建立とかは国家鎮護を願ったもので、(実効性はともかく)目的は国民全体の福祉である、と言えるかもしれませんが、「鎮護」ってどっちかというと朝廷の安泰を願ったもののように感じますし……(それ以前に奈良の大仏は奈良時代ですが)。

貧窮問答歌とかのイメージが強すぎるせいかも知れませんが、平安貴族って、租・庸・調とか徴税はするけど身分の卑しき輩の役には立たない連中、という感じがしてなりません。(っていうか役に立つ仕事をしているイメージがない。官位がある以上仕事もしてるんでしょうけど)

もちろん、平安時代の文化遺産は現代の我々にとって重要なものだし、仮名文字の発明など、日本文化の基礎が形作られた時代だとも思いますが、あくまで当時の視点で考えると、ということです。

「こういう点で平安政府は庶民にとって役立っていた」ということがありましたらご教示ください。

●質問者: filinion
●カテゴリ:政治・社会 芸術・文化・歴史
✍キーワード:はと イメージ サービス 仮名 国家
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 9/9件

▽最新の回答へ

1 ● yamazakura
●25ポイント

とりあえず、大仏建立と貧窮問答歌は平安ではなく奈良時代ですね。

http://blog.hix05.com/blog/2007/02/post_111.html

ちなみに奈良時代には、光明皇后が病人を救うための「施薬院」というものを作ったという記録があるので、「奈良時代の皇族は庶民にとって役立っていた」というのは言える可能性があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2

でも平安時代となると…桓武天皇が庶民の兵役を取りやめていますが、これはもともとマイナスだったのがゼロになっただけなので、役立っているとは言いがたいし、彼も天皇なので貴族ではないです。

◎質問者からの返答

>大仏建立と貧窮問答歌は平安ではなく奈良時代

う、貧窮問答歌も。覚え間違えてました。

ご教示ありがとうございます。これは恥ずかしい……。

>光明皇后が病人を救うための「施薬院」というものを作った

なるほど。

……でも、専門の官位があったとはいえ、実際に設置されたのが都に一カ所って、「政策」というより個人のレベルですね……。

>桓武天皇が庶民の兵役を取りやめていますが、これはもともとマイナスだったのがゼロになっただけなので、役立っているとは言いがたい

なるほど。

>彼も天皇なので貴族ではない

……なるほど、天皇は貴族じゃない。あまり区別しないで質問してしまいました。

ありがとうございました。


2 ● IlO10l0Il
●20ポイント

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A...

平安時代と言っても歴史が長いので時期によっても違いますが、墾田開発など農民の保護は行われていたようです。


あとは治安ですね。

大規模な戦が行われた記録はありませんが、朝廷が無かったら攻め込まれたら終わりですよね。

民衆による集団強盗行為なども朝廷の軍が取り締まっていたという話もあります。

◎質問者からの返答

>墾田開発など農民の保護は行われていた

どっちかというと、墾田開発は農民保護というより朝廷や豪族の収入増大のためという気がするのですが、そうでもないんでしょうか。

>あとは治安ですね。

まあ確かに。

無政府状態よりは抑圧的な政府の方がマシ、という話かも知れませんが……。

それが庶民のためなのか朝廷のためなのかはわかりませんが、国防・治安維持を行った、というのは確かかも知れません。


3 ● pahoo
●30ポイント

貴族が一定数いたということは、それを支えられる人口があったことを物語っています。

また、直接的に戦を行わない貴族が多かったということは、それだけ治安が良かったとも言えます。


貴族は、歴史的には(まつりごと)を行う一族として発生しました。ご質問にあるように、現在の“政治”家と目的は同じです。

では、当時の行政サービスとして何が行われていたかというと、文字通りの“祭祀”です。

21世紀の科学時代から見ると笑ってしまうかもしれませんが、祭祀こそが医療であり福祉であり公共事業の時代でした。各地の神社は数年?数十年に一度の頻度で立て替えが行われていたわけですが、これなどは現代の公共工事とまったく同じ目的です。

また、「有史以来の日本の人口の変化」で分かるように、平安時代は順調に人口が増えていました。このため、食糧確保のために田畑を開墾する必要がありました。現代が税金で政治家を支えているように、貴族を支えるには、それなりの人口が必要だったわけです。


もっとも、平安時代も時代が下ってくると貨幣経済が発達し、民衆の格差が発生してきます。こうなると、治安を守るための警察機構が必要になってきます。

ここで登場するのが「武士」です。最初は貴族を警護するための存在でしたが、やがて民衆を束ねて政治にも口出しするようになり、鎌倉時代へと時代が移行していきます。

◎質問者からの返答

やはり「まつりごと」が仕事の主であった、と。

加えて、神社の建て替えが公共事業をなしていた……と。

……でもなんか、遷都とか神社の建て替えとかってむしろ庶民の生活を圧迫していたように思いますが、そうでもないんでしょうか。

とはいえ、現実に人口が増えていた、ということは、食料がある程度行き渡っていた、ということなのでしょうね。

ありがとうございました。


4 ● darkwood
●20ポイント

確かに、年表を見ても大半が、貴族の権力闘争関連のみで、一般庶民向けの政策というのは、ひとつも出てこないですね。サッと検索してみた範囲では、

常平倉

Yahoo!辞書 - じょうへいそう【常平倉】

藤原園人 - Wikipedia

綜芸種智院 - Wikipedia

くらいでしょうか、もっとも3番目は多少の援助はしたでしょうが、政策では有りません。[ 常平所 ]も平安時代は余り機能していない印象ですし、[ 百姓撫民 ]は、具体的にどういう政策なのかは不明。

一応、農民の保護らしき事はしていたようにも見えますが、実態は一種の奴隷制に近い感じにも見えます。事実、飢饉の時は、死体が野ざらしで、何の対策もしていない様子です。武士の時代の方がまだ庶民の事を考えていたように見えますから、後々権力が武士に移行していった理由の一つは、この辺にも有るのかも。

◎質問者からの返答

ありがとうございました。

全国規模の行政サービス、的なものはあまりない印象ですね。


5 ● MS06R3
●35ポイント ベストアンサー

平安政府の一般庶民に対する功績としては、それまで中央官僚に集約してきた人材をアウトソーシングにした部分ではないかなと思います。

奈良政権初期?中期では庶民にカーストに類する身分制度を引き、その範囲内で人事権の行使や官僚への特権付与など国内の権益の独占、海外及び周辺地域に対しての外交圧力による利殖を中心としていましたが、末期には海外の独立、国内公有農地の拡大鈍化、それに反した人口の増加(当時は人に対する課税方式を採用していたので、そのほうが儲かると思われていた)、その対策として新規開墾地の私有化を特定条件下で認めたことによって官僚支配の体制を緩めた結果、

行き過ぎた能力主義から官僚の序列にまで影響が出てしまい、こうした事を教訓に、官僚の長の長たる天皇家の世襲も一新され、苦労人の桓武さんが天皇の地位に就き、平安政府ははじまったわけですが、その序列を正そうと都を頻繁に移してみたり、増えすぎた官僚を粛清しまくったりと色々やったおかげで地方に対する影響力も鈍化し、東方で反乱を起こされたり新都建設の責任者がブッ殺されたりと散々な目にはあうわけです。

そうした流れの中で、戸籍によって厳格に監視されていた大衆も比較的(とはいえ捉まれば死罪なのですが)簡単に収税の手が及ばないように逃げ出せるようにもなり、「人(身分)に対して収税を行う」という事が難しくなったと言う点、かわって、土地に対する収税意識が中央に芽生えた結果、

土地の所有者に対する規制が強まると同時に彼らに一定の権力が認められるようになり、その権力保持の為の各種セキュリティサービスが中央から行われる主要な業務となり、その結果、人々は直接税からは解放されると言う「恩恵」(現在と比べると恩恵と言うほどのものではないかもしれませんが)を受けました。

これによって各地域への人の往来規制はそれまでと比べて緩和され、地域の生産物の輸送体系が組織の接着剤としての機能を果たし、中央の人達は徴税業務(地域の支配者を守るという義務は増しましたが^^)から解放され、地方担当者の権限拡大によって地域の生産性の向上へと繋がり、その成果として財務も潤っていくわけですが、

奈良時代の弊害として地域の農民に対する種の貸し出し利率(税込みで貸し出し年利150%以上)の権限も引き継がれていた為、人的流動性が高まりすぎ、租税公課の高すぎる地域で生産人口が居なくなるような事態も生まれ、こうした利率の引き下げ等の農民救済と生産振興策を地方に施行し監督する事も平安政府の業務となりました(一律130%まで、不作時には減免あり)。

この政策によって農民の利殖は増えましたが、今度はその農民の中に貧富が生じ、地方から貸し出された種に更に利子をつけて貧困農民に貸し出し、利益を得る人達が増えます。こうした人々がより力をつけ、地侍等の形で地方の徴税業務を助けていった事により、彼らもまた徴税のシステムに組み込まれていくようになります。

これは富裕層人口の底上げにつながった側面もあるわけですが、より一層の貧困層の貧困化を招く要因ともなり、輸送路における群盗集団の活発化へと繋がり、こうした群盗集団から自衛する為の実力もまた、地侍の主導の元、貧困層によって組織され、貧困層の中で武力に優れた人々もまた平安政府の治安システムの中に組み込まれていく事になります。結果的に、治安と経済の安定の為、極限貧困層はより高い圧力と収奪の中に追い込まれ、淘汰されていく事になります。

その過程の中、流動人口は減少し(結局どこに行っても同じ的意味で)、地方の分権と(鎌倉時代へ至る国衆意識の醸成と言えばいいでしょうか)中央の統率システムが並行的に確立されていく訳です。

こうして考えると、平安政府の功績は日本史上の貧困層の凝縮化と土地意識の一般化という点において、政策的なひとつのエポックを生み出したと評価できるのではないでしょうか?

参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA

◎質問者からの返答

詳細な説明ありがとうございます。

つまるところ、奈良時代の過度の中央集権体制から、地方の豪族への「地方分権」を進めた結果、土地意識の一般化が起こった、というようなことでしょうか?

平安政府がそれを意図していたのか、という気はしますが(仮名文字の発明が現代人の利益になっている、というのに近いような気もする)、話としてはわかったように思います。

また、結果的に貧富の差の拡大を招いたとはいえ、農民の利益が増すような施策も講じた、ということはわかりました。

ありがとうございました。


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