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【エンゲルス】「空想より科学へ」を読んでいて疑問にぶつかりました。岩波文庫P53から56あたりで、「形而上学」が「自然物を全体のうごきや変化としてでなく、個々に切り分けて見る」こととして説明してあり、「弁証法」と対置されています。ぼくの理解では形而上とは神とか霊魂とか、現象を超越した観念的なもの、だったので、その真逆であるかのような「個々の物質」的な把握に違和感があります。【1】これはどう理解するのが正しいのでしょうか。/また、弁証法は「相反する概念をともに包含するより高次の概念への止揚」であることは理解していますが、それが「形而上」と対置されるのもよくわかりません。【2】この点もお願いします。/以上、2点ありますが、わかりやすいご説明をお願いします。


●質問者: neyorawa
●カテゴリ:学習・教育 政治・社会
✍キーワード:うご エンゲルス 包含 岩波文庫 弁証法
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

▽最新の回答へ

1 ● tscho
●35ポイント

単に形而上と形而下の間違いかと思ったのですが,

http://ja.wikipedia.org/wiki/空想から科学へ

にも書かれているとおり,いわゆる「形而上学」の説明でなく,空想的社会主義を科学へと変化させるプロセスとしての説明のようです。

上記のURLから直接引用しますが,

エンゲルスによれば、古代には自然を全体としてとらえる古代的な弁証法があったが、自然科学の発展とともに、その全体を個々の部分にバラバラに分解して精査する「分析」がおこなわれるようになった。この思考形態が骨化し形而上学となったという。エンゲルスがのべた形而上学の特徴は、事物をバラバラの、不変固定のものとして扱い、その境界線の絶対性を強調するというものだった。自然科学の発展がこうした世界観に打撃をあたえ、その発展的な哲学的表現がドイツ古典哲学、なかんずくゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弁証法であったとする。エンゲルスはその特徴を形而上学との対比で(1)連関、(2)発展(運動)、(3)相互浸透・相互転化とした。


との説明で,理解できるような気がしますが・・・。

こうした文章を理解する上でおそらく必要なことのひとつに,同じ言葉が使われていたとしても,書き手によって様々な意味で使われる可能性を意識しなければならないことがあるでしょう。もしかすると,ここでの議論もそのような例のひとつかもしれません。

◎質問者からの返答

ありがとうございます。


2 ● sheep5
●35ポイント

>「形而上学」が「自然物を全体のうごきや変化としてでなく、個々に切り分けて見る」

>こととして説明してあり、「弁証法」と対置されています。

答えのヒントが上記に引用したneyorawaさんの文中にあります…。

「個々に切り分けて見る」ことそのものがキー?ですね。「切り分け」る根拠は何なんでしょう? この根拠に神や道徳や法律までも含めて「観念的なもの」を根拠にするのが「形而上学」です。(そう意味で本来?イデオロギー?というのはこういう観念を根拠にした認識だと思いますが。)

この正反対にあるのが弁証法です。弁証法は自然をそのままに見るのでしょう。あるいは自然を根拠にしてものごとを見るのでしょう。

簡単に言えば「形而上学」は?上から目線?であり、その「上」の部分に「神とか霊魂とか、現象を超越した観念的なもの」が入ります。

弁証法は「自然物を全体のうごきや変化として」把握します。自然の原因は自然そのものであり、自然の結果も自然そのものです。そして自然やその変化や原因や結果そのものが自然そのものである、という認識の仕方が弁証法でしょう。

ですから弁証法は?自然からの目線?だと言えるかもしれません。自然というものは物質的な現象なので、物質を根拠にすれば、それが唯物論であり、それが唯物論弁証法といわれるものでしょう。

…以上のように自分は考えてますが、参考までに。

「自然物」という言葉が出てきたので下記も参考になると思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96

◎質問者からの返答

ありがとうございます。

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