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【イエはてな】"ディア・ライフ" #004

THEME:「幼年から今年まで……仲間や家族とのひと夏の思い出」

“ディア・ライフ”=『親愛なる日々』。イエは暮らしと人生の舞台。「LIFE」という言葉に、生活と人生の2つの意味をこめて、イエと家族のストーリーを語り合いませんか? 心のページに刻まれた思い出も、現在のイエでの愛しいワンシーンも。毎回のテーマに沿って素敵なエピソードを、豊かな暮らしを創っていく〈イエはてな〉のマインドで投稿ください!

*回答条件* 下記のページをご覧になってご投稿くださいね!

「Welcome to イエはてな」
http://d.hatena.ne.jp/ie-ha-te-na/20080731

テーマ詳細とアイデア例
http://d.hatena.ne.jp/ie-ha-te-na/20100818

※ピックアップ受賞メッセージは、〈みんなの住まい〉サイトにて記事紹介させていただきます。またメッセージは表記統一や文章量の調整をさせていただくことがございます。
※〈イエはてな〉では、はてなスターを「おすすめメッセージ」として活用しています。投稿期間中ははてなスターのご利用を控えていただけますようお願いいたします。
※質問は8月23日(月)正午で終了させていただきます。

1282107508
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●質問者: ie-ha-te-na
●カテゴリ:コンピュータ 生活
✍キーワード:8月23日 theme 「LIFE」 いただきます いね
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 86/86件

▽最新の回答へ

[1]幼馴染 lepremierpas

2歳のころからの幼馴染が私にはいます。

幼稚園、小学校とずっと一緒に登校下校。

放課後も一緒に楽しく遊んで過ごしていました。

勿論夏休みの長期休暇に入れば午前中からお互いの家へ行き来したり。

時にはお互いの親とともに遠くへドライブや公園にでかけたり。

そんな風に過ごしていた幼少期。

しかしそんな楽しい時間も少しずつ環境とともに変化。

中学に上がるころに友人はお引っ越し。

距離が出来てしまい、それに加え、部活にも忙しくなりました。

まだ中学生なだけにお小遣いも少ない。

だから電車にのって遠くまで出かけて会いに行きあうこともできなくなりました。

手紙のやり取りも無くなってしまい寂しい時間が流れました。

そんな私たちも高校へあがり、大学に行き、卒業を迎えました。

今頃幼馴染のあの子はどうしてるんだろう?

そんなことを思いながらも何も行動に移せずに過ぎゆく日々。

そんなある日、お互いの両親が街中で偶然ばったり。

そしてお茶をしたそうです。

そこで私たち子供の話もでたようで、帰宅してから私にその話しをしてくれました。

私は母に、幼馴染と会いたいから連絡交換したいと伝えて欲しいと言いました。

すると数日後連絡があったのです!

そこからトントン拍子。

翌々週に会う約束。

中学生以来。既に私たちは25歳。

会うまでドキドキが止まらなかったです。

もしかしたらもう私とは性格も外見も違う方向かもしれない。

気の合う相手ではなくなってるかもしれない。

気まずいだけで終わってしまうかもしれない。

そんな不安がよぎりました。

とうとう再開のとき。

久々に出会った幼馴染は面影を残しつつやはり大人になってました。

でも話し始めるとあの頃のまま!

二人でくだらない話し、真面目な話、語りつくしました。

何時間話したでしょう。

凄く楽しい時間でした。

その日から私たちは頻繁に連絡を取るようになり、今では一番の大親友です。

どんなに空白の時間が経っても、それでも会ったら昔のように戻れるのが凄い嬉しいです。

今私たちは社会人となり、別々の環境で過ごしているけれど、それでも週末などは二人で遊んだりと楽しく過ごしています。

そして今年の夏も二人で旅行へ行きました。

そう。あの頃と同じ。

夏になれば二人ではしゃいでいたあの頃と、社会人になって大人になった今もなんら変わりないのです。

親愛なる幼馴染へ***

私の一番の理解者であり、時に厳しく、時に優しく思いやりをくれ、自分の事のように喜び・そして悲しみ。

そんなあなたが私は大好きです。出会ってくれてありがとう。出会えて本当に良かった♪

これからもずっとよろしくね。

そんな思いを今年の夏も噛みしめながら、出会えた奇跡に感謝を想うのです。


[2]>1 幼馴染 adgt

夏は、お互いの家を行き来して夕方おそくまで遊んだものでした。一緒に虫取りをしたり、川で泳いだり。歳がひとつ離れていたせいか、中学校くらいから段々と疎遠になってしまったのが淋しい。


[3]夏のデート adgt

高校生のときに付き合い始めの彼女と一緒に花火を見に行ったのが思い出。告白から1週間もたっていなかったので、ぎこちなくて「花火がきれい」ということを確認しあうくらいだったけれど、良い思い出だと思う。


[4]花火 adgt

お盆に親戚が集まって、祖母の実家の庭で一緒に花火をするというのが恒例行事だった。ちょっと年上の従兄弟達と、かわいがられながら純粋に楽しんだあの頃が懐かしい。いまでも、祖母の家にあつまり、たまに酒を飲んだりするけど、今でもお世話になっているのを実感する。


[5]キャンプ・BBQ adgt

小学校の夏休みは子ども会で必ずキャンプにいっていた。2日間ある中で、一日目はカレー、二日目はBBQと飯盒炊飯やらモロモロの準備などたくさん体験をすることが出来た。あぁいった活動は貴重だと思う。


[6]>5 BBQ twillco

夏は必ずBBQを友人や家族としています。

大勢でわいわいやるのと、外でのご飯がより一層美味しく感じますね。


[7]>4 花火 twillco

今年は1個だけでしたがかなり近くていい席で見られました〜!

この暑い中、場所取りなど大変ですが頑張っただけありました♪

小さな花火も大きな花火も、見るとTHE夏!って感じで良いですよね。


[8]ペットとの生活 castle

うちは犬派なので3代に渡りお犬様が住み着いておられます。

小学生の頃のお犬様は外で飼っていたはずなのに、今買われている三代目はクーラーの効いた部屋を我が物顔で闊歩している…。

いろいろと時代の流れを感じました。

猫は両親が子どもの頃に飼っていたそうで、私はまだ猫との生活は体験がありませんが、猫は猫で大変らしいと聞きます。


[9]初めての大旅行・・・本州へ to-ching

小学校低学年時、北海道から初めて山形へ、祖母、三歳上の従兄で旅行をさせて貰いました。青函連絡船に乗り青森から列車の旅です。行く先は山形・酒田近郊の田舎です。約20時間の旅でしょうか?そこには祖母の姉妹が住んでました。思いだすのは、着いた夜寂しくて帰りたいと泣いた事、寝るときは蚊帳を張ってもらった事、蛍を歩いている時見て恐ろしかった事、きれいな小川からバシャバシャと音がしてびっくり!見てみると大きなガマガエルが走って逃げて行ったこと、その家は小規模ながら養鶏場をやっておりその餌をスズメが横取りするので、案山子を作った所驚いたのは何と逆に鶏が怖がりパニック状態に・・・。また、最上川の大きさに驚いた事が思いだされます。今も鮮烈に思いだされ、親に感謝したい気持です。可愛い子には旅をさせよ!良い格言ですね。


[10]贅沢なホテルでの滞在 to-ching

年一度、夏は東京の一流ホテルで約一週間滞在していました。日中はホテルのプールで過ごし、午後から買い物、見学。夜は知っている飲食店で食事。こんな年が5年程度続きました。子供達はホテルでのマナーを学び大変良い経験でした。もう、こんな事は子供が大人になった今は一生無いと思うと残念です。年一度の(正月休み、GW、お盆も無い私の仕事故)贅沢、嫁、自分への御褒美でした。


[11]>7 花火 to-ching

熱海某ホテルの屋上でみた花火は最高でした!何せ海岸や船で打ち上げるのですから、迫力満点!是はまだ子供の居ない時代でした。


[12]先輩の別荘に御邪魔して・・・ to-ching

伊豆にありました、男共沢山で押しかけ宿泊、酒のつまみは皆で魚屋に列を組んで調達、アワビ、サザエ、鯵等々ゲット!楽しかったですね。また、敷地内には別荘所有者専用のプールもあり、綺麗な女の子の水着姿をば拝見したものです。所謂ハイソサエティーの方々ですからマナーも良いし、もう美人だらけで貧しい田舎者にはカルチャーショックでした。


[13]>6 BBQ to-ching

今年は暑いのでやるつもりでしたが、まだです!子供が大きくなったためもあるかな?予定あるんでしょう・・・


[14]おばあちゃんの家 gingami

子供の頃、両親の田舎である両祖母の家に、お盆にあわせて合計一週間ほど家族で泊まるのが定番でした。父が子供時代そうしたと聞かされたように、屋根の上に座って漫画を読んだり、母の少女時代の服を着せてもらったり、従兄弟たちと花火をしたり。のどかで冒険心を刺激されました。懐かしい思い出です。


[15]忘れられない8月のある日の事。 nakki1342

私には、年の近い同じ誕生日のいとこがいます

今では、お互いのすんでる家の近さに反比例して

親戚づきあいは、あまりないのですが

自分が小学生の頃は、おばあちゃんの家に行く時は

時々その親戚の家にも行き

自分よりも少し年齢が上のいとこのゲーム機を借りて遊んだり

(時々は、一緒にゲームもやったかな・・?)

とにかく楽しんだ思い出が私の中にはあります

でも自分が小学生の時のある夏

おばあちゃんの家に寄ったあと

一人だけ親戚の家に泊まったと思うのですが

ちょうど

その日・・ものすごく大きな事故が起きてしまい

TVは、そのことをずっと報道していました

正直親戚の家とはいえ

小学生が一人で泊まったわけです

色々、面白いこともあったはずなのに

あまりに強烈な事故のために

TVでそれについての事を伝えてる報道を見てたという

思い出が残ってて

今でも毎年、その事故が起きた日のその事故に関連したニュースを見ると

親戚の家に泊まった日、TVばかり見てた事しか思い出せなくて

少しがっかりする自分なんです

・・


[16]>14 母方の田舎に宿泊 some1

小学校時代は夏休みになると母方の田舎に行って、海水浴に行って後、風呂を借りて宿泊、翌日は親戚廻りをした後に帰宅というパターンがありました。風呂に入る前に、砂を落とすためにホースの水をかけっこしたりとかも懐かしいです。


[17]海のイエ mododemonandato

小学生から中学生までの時期は、毎年、夏になると父親の会社が借りた海のイエに行っていました。

逗子の海岸に近い、普通の民家を会社で借りて、格安で社員と家族の厚生に当てたもので、それを海のイエと呼んでいたようです。


毎年同じ畳敷きの民家を借りたもので、長い時は一週間も滞在して、海水浴などを楽しんだものです。

初日から部屋に入ると、畳のにおいがして、窓の外には山も近く、よく鳶が青空に丸を描きながら飛んでいました。

水着に着替えて住宅街を抜け、道路を渡ると直ぐに海岸があります。

家族で水をかけあったり、波の間を泳いだりと、時間が過ぎるのが惜しくて、いつまでも楽しんでいたものです。


日が落ちてからも、海岸べりには射的の露天やヨーヨー釣り、やきそば、おもちゃなどの屋台が、真っ赤なちょうちんを連ねていて、楽しみは尽きません。

花火を買って海岸で遊んだり、お小遣いを貰って何に使おうか悩むのも、楽しいものでした。

日程が合うと、大型の打ち上げ花火の大会も見られました。

沖合いの岩場の島に打ち上げ場を設置して、黒い海の空を背景に開く花火は美しく、その後の微かな寂しささえ、快く感じたものです。

イエに帰ると大抵は大人達が酒盛りをして、私たち子供も遅くまでおきていても、叱られたりはしません。

一日中炎天下で海水浴をしたりしていると、体が熱くなって直ぐには寝られれないので、かなり遅くまでおきていたりしました。


それでも朝には早く目を覚まし、海のイエを服のまま出て、家族で海岸に行きます。

早朝の海は潮風が涼しく、波も穏やかで、水が澄んでいます

朝の海岸にはいろいろなものが落ちています。

きれいな貝殻や流木、海藻の塊、壊れたおもちゃ、絡まった釣り糸や釣り針など、宝捜しのようです。

極まれには、桜貝などの、めったに見られない美しい貝殻もあり、海岸をどこまでも探したものです。


大きくなると家族で旅行に行かなくなり、海のイエに行く事もなくなってしまいました。

しかし、いつまでも、思い出は残っていく事でしょう。


[18]ひ孫8人でお墓参り dayday

私の祖母はもうすでにお墓にいます。

私の息子達が産まれたのは8月13日。

息子たちが産まれる時にも祖母は、きっとお盆だしやってきて力を貸してくれたと思っています。

お墓参りはひ孫たち総動員。

全員おばあさんが力付けてくれたので皆元気な、おしゃまさんやワンパク小僧になりました。

8人そろって小さい手を合わせ、目を閉じて先祖にご挨拶のお墓参り。


小さいちょうちんにお墓のろうそくの灯(あかし)を分けて持って、消さないように家の仏壇まで持ち帰る。

その灯におばあちゃんやご先祖様がくっついてやってくると信じていたので、灯を消さぬように持ち帰る。

消えてしまったら、灯を分けてもらって、家の仏壇に灯を移してご先祖様はやってくる。

またそこでも8人のひ孫は仏壇を拝んでいる。


この小さなひ孫たちを見守るのでご先祖も忙しいお盆のようでした。


[19]今年は1個だけでしたがかなり近くていい席で見られました〜!この暑い中、場所取りなど大変ですが頑張っただけありました♪ 小さな花火も大きな花火も、見るとTHE夏!って感じで良いで yusuke_7

今年は1個だけでしたがかなり近くていい席で見られました〜!この暑い中、場所取りなど大変ですが頑張っただけありました♪ 小さな花火も大きな花火も、見るとTHE夏!って感じで良いですよね


[20](はてなにより削除しました) kekeyy
(はてなにより削除しました)
[21]ワークショップでのひとこま offkey

もうだいぶ過去の話になりますが、とあるワークショップに友人と参加したことがあります。

日常生活における習慣などから身体と心が硬直しているのをほぐすという内容のそのワークショップはある夏の日、山の中腹にある宿泊施設を借りて開催されたものでした。

当時、私はどう表現してよいのか、どことなく違和感を覚えている毎日だったのですが、踊りをやっている友人が身体関係のワークショップに詳しく、そこを案内してくれたので参加してみることにしたのでした。

1泊2日の予定で行なわれたその中身は、知らない人とペアになって身体をゆるめる体操を行なったり、歌を歌ったり、詩を朗読したりと、ちょっとした演劇ワークショップにも似たものでしたが、主眼になったのはひとが自分として生きぬいていくため、普段使わないような体の動きや感情の表現を試みることなのです。

ワークショップの講師は現在はもう亡くなりましたが、その方面ではかなり有名な方で、ほのぼのとした雰囲気というよりはなにかの稽古のような厳しさがあって、友人とこれはなかなか怖いな、と休み時間にちらっと会話を交わしたりしたことを覚えてます。


そのようなワークショップの中で特に印象に残ったことがあります。

それまでプログラムは室内でずっと行なわれておりましたが、天気があまりにも良い事と、それからこれは推測ですが、プログラム自体にどこか講師が煮詰まったものを感じたのではないか、ということで、外に出ることになりました。

そこで行われたのは、『ブラインド・ウォーク』というもの。

2人一組になって、一人が目をつぶって盲目になり、もう一人がその人の手を引いて敷地のあちらこちらを案内するという内容です。

大抵は知らない人と組むのがワークショップの一般的な姿ではありますが、そのときはどういうわけか友人とペアになりました。

まずは友人が目をつぶり、私が案内人として歩きます。

その取った手の華奢なこと。

友人とはそのとき10年来の付き合いになってましたが、こうやって意識して手をとるのは初めてのように思います。子どもでもないし、普段はそれほど手を繋ぐ機会というものはないものです。

どこをどう案内したか、とにかく友人はいま私の先導で歩いていること、私を信頼していること、こういったことが頭を駆け巡ってそこはほとんど覚えていません。知らない人とだったらそこまで考えたかどうか。

次に、役割を交代して私が目をつぶって歩くほうになります。

やわらかく私の手を取った友人は、他のペアのところへ近づいていって、私の手を、そのほかの人たちの肩や腕のほうへ先導してゆきました。

目をつぶって触れる人の体はどれもこれも温かくて優しい。

終了してからいたずらっぽく笑う友人がいうには

「ほら、あまり人に触れたがらないから、こういうときにちょっと触ってみたらどうかな、と思って」

そうです。私はいろんな意味で人と触れるのが苦手で友人はその反対。

きっと普段から歯がゆく思ってたんだろうなあ、と考えたらちょっとだけ可笑しくなりました。


もし、同じことを目を開けて行なっていたら、果たして私は人のぬくもりを感じ取ることができたかどうかわかりません。

目を閉じて、友人に先導をまかせることは自分自身の頑なさを放棄することでもあります。

ブラインドウォークの後のプログラムでは人に変な風に思われないようにとかいう意識をゆるめることができ、ワークショップに集中することができるようになりました。

その後もやっぱり厳しくて、ブラインド・ウォークだけが今考えると息抜きになってたような気がしますが、講師の気迫に接することができたことと、友人と非日常で過ごしたことは印象深い思い出として残っています。


[22]>3 海へ to-ching

私の場合海に行きました、もう彼女の水着にドキドキでした。セミビキニだったかなぁ?懐かしいですね。


[23]>17 海の家苦い思い出・・・ to-ching

友人と茅ヶ崎へやっぱり駐車場が無い、そこにおばさんがやって来て、海岸近くの家に止めれば一日1000円と言ってくれました。喜んで小屋の中に入ると、海の家使用料一人1000円払えと言うのです!ビンボですからそんな金までは有りません。断り、駐車場料金を返金してもらい退散。しかし、何と車が砂に埋まり、友人と汗まみれ、くたくたになり脱出!憎たらしい思い出です。


[24]>18 良い風景 to-ching

壮観でしょうね・・・良い習慣もきっと着くのでしょう。


[25]毎日海へ to-ching

中学の時、夏休み中毎日行きました、雨が降ってもです。電車賃をもらってです(最も汽車賃と呼んでました)昼飯はジャガイモを持って行き、薪の中にいれて置きます。昼頃になればめちゃくちゃ美味しい焼けたジャガイモに、皮をむいて・・・忘れられない美味しさ。また、本当はいけないのですが、泳ぎの上手な友達に沢山うにを取ってもらい、オヤジの土産としたものです。アワビは発見もどうしても獲る事はできませんでした。


[26]>16 親戚がいると to-ching

しかもその親戚が転勤族だったら、沢山色々な所に行けますね。私も沢山の土地を訪れましたよ。


[27]>26 親戚の家 adgt

良く泊まりに言ってました。ご馳走が用意されていて子供心にうきうきしていました。


[28]>24 墓参り adgt

毎年欠かさずに言ってます。ああいったご先祖とむきあう体験が出来るのは、非常に大切なことだと主。


[29]小学校裏の公園での盆踊り xxkinocoxx

小学校の頃毎年夏休み中お盆の頃に

小学校の裏の公園で盆踊り大会がありました

お母さんに浴衣を着せてもらって

500円ぐらいのお小遣いをもらって

クラスの女の子友達と毎年必ず行っていました。

夏休み中に会わなかった久しぶりの友達に会えたり

クラスの意中の男の子がいないか探したり

見つけたら見つけたで、話しかけに行くか行かないかで

ドキドキソワソワしたり

いつもよりは贅沢なお小遣いですが

500円で何を買うかも悩みどころでした

アレを買うと、コレが買えなくなるし…などなど

大人になった今ではどれも体験できない事ばかりで

とってもいい思い出です。


[30](はてなにより削除しました) lvbestbbs
(はてなにより削除しました)
[31]>27 親戚の家 Rytandrezone

よくお泊りしましましたね。いとこと遊ぶのが楽しかったです。


[32]>31 親戚の家 castle

お祭りなどで親戚の家で泊まったことがありましたが、別の町でお泊りするとお祭りということもあって子供心に興奮してなかなか寝付けませんでした。


[33]>29 神社の盆踊り castle

お祭りのときに夜の神社で盆踊りが催されますが、最近は参加する人が減ってきて少し淋しく感じることもあります。


[34]>11 花火 castle

子どもの頃に家族といっしょに見た花火は空一面を埋め尽くすような大きさに見えて、とてもきれいだったことを今でもはっきりと覚えています。

大人になったらビールでも飲んで酔っ払わないとあの花火が大きく見える感じが得られずやや物足りないです。


[35]中2の夏、初めての友達同士だけの旅「新改駅と幽霊列車」 iijiman

1980年夏。

同じ中学に通っていた同級生MとYと私とで、「遠くに行こう」という話になりました。私たちの家は兵庫県西宮市。旅の行き先は「青森」。

関西に住む中学2年生。青森県に用事なんてあるはずがありません。でも青森。帰りに東京に寄って、合計4泊5日のプラン。

なぜ青森か。

それは、当時、大阪を夜に出て翌日昼に青森に着く急行「きたぐに」という列車があったから。

最初に私が、鉄道雑誌で「きたぐに」のルポを読んだのが始まりだったと思います。

で、「こんな急行列車がある。乗ってみたいなあ」とつぶやいた。それを聞きつけたM(クラスのリーダー格)が「それは面白い」と乗り気になり、それなら、小学校の頃から鉄道で一人旅をしていた(旅慣れていた)Yも呼ぼう、と、そんな流れだったと思います。

この計画、まずMの母親の知るところとなり、学校に「通報」されてしまいました。Yと私の母親も学校に呼び出されて、担任からもダメ出し。

しかし、私たちは折れませんでした。どうしても行きたい。危険なところには立ち寄らない。きちんとしたスケジュール表を事前に提出する。自分たちの貯金の範囲内で旅行をする・・・あらゆる条件を提示し、とにかく粘って、最終的に担任の先生からは、次の言葉を勝ち取りました。

「ええか?許可はしとらんのやで。ただ、何も言わんだけやからな。約束は守れ」。

しかし今度は親との交渉が難航。

結局、「日程を短縮するなら許す、2泊3日まで」というところまで譲歩せざるを得ませんでした。

で、青森は没。何しろ行くだけで2日かかります。(飛行機を使うという発想はなかったし、当時、東北新幹線は未開業でした。)

それから行き先は二転三転。でも最終的に決まったのが「四国」でした。

「四国島内を走る夜行列車があるので、それで宿代を浮かせられる」という狙いもありましたが、自分たちの住んでいる本州と海を隔てて離れている場所ということにも、何か憧れのような輝きを感じました。

1980年8月23日。

まず山陽本線を西へ。旅費節約のため、新幹線は使いません。普通列車の旅です。

とはいっても、まだ「青春18切符」が発売されていない時代でした。

当時は「周遊券」という割引切符があって、「松山・高知ミニ周遊券」を使いました。

【参考写真】当時の周遊券(本物)

[f:id:iijiman:20100819195316j:image:w450]

姫路から先は、私たちにとって未知の世界。

当時、山陽本線の普通列車に冷房なんてついていませんでした。

2段式の窓を全開にして(半分だけ開けられるのは知っていても、全開に出来るのを知っている人は意外に少なかった)、窓から少しだけ顔を出すMとY。

晩夏の風、時速100キロで吹き込む。それは通路側の席に座っていた私にも心地よさをもたらしました。

私たちは今、まだ行ったことのない土地に足を踏み入れ、見たことのない風景を見ている。

さて、岡山まで行って山陽本線から宇野線に乗り換え、宇野線の終点宇野から四国に向かいます。今なら岡山から高松まで、瀬戸大橋線の快速1本で四国に渡れます。でも当時は違います。瀬戸大橋はまだ基礎工事さえ始まっていませんでした。

本州と四国の間には国鉄の運営する「宇高連絡船」という船便があって、岡山県(本州側)の宇野という駅(港)から、香川県(四国側)の高松という駅まで、大きな船が往来していました。

岡山から宇野まで快速電車に乗り、宇野駅(港)から連絡船に乗ります。

宇野駅のブリッジを渡り、船に乗る。Mが言います。「一番前に行こう!」。そこは「四国に最も近い場所」。潮風の香る屋外のデッキ。目の前には瀬戸内の多島海が広がっていました。デッキの片隅に「讃岐うどん」のスタンドがあり、出汁の香りを漂わせていました。

ここで私たちは、1つ早とちりをしていました。

出航時刻になると、船は岸壁を少し離れたところで、くるくると回転を始めたのです。私たちが最前部だと思っていた場所は、実は最後部で、今降りたばかりの宇野駅が目の前にやってきました。

そして、それから船は四国を目指します。

宇野駅がだんだん小さくなる。本州が小さくなる。私たちの立っていた土地が、海を隔てて小さくなる。

高松に着いて私たちが最初にしたことは「讃岐うどんを食べる」ことでした。

国鉄高松駅の立ち食いうどんのスタンドへ。うまい。うますぎる。「ゴムのようだ」。Yが評します。讃岐うどんほど腰の強いうどんを食べたことは、私たちはなかったのです。

高松駅を出ると、すぐ近くに「玉藻公園」がありました。そこは高松城の跡で、お堀や庭園が残っているのですが、入園料が「10円」でした。(今はいくらだろう?)

10円というのは当時の中学生にとっても「お買い得感満点」。入園料を払って私たちは日本庭園を歩き(中学2年生にしては渋い趣味だ)、それから、次の列車の時間まで、お堀端の芝生に腰を下ろして時間を潰していました。今考えると、高松の町を歩いても面白かったのかもしれませんが、当時は「危なそうな場所には近づかない」という、親や先生との約束がありましたから、知らない町をむやみにうろうろする訳には行かなかったのです。

時間が来て高松駅に戻り、私たちは、予讃本線の列車に乗り込みました。

当時、四国の国鉄は全て非電化。電車がない。蒸気機関車は残っていませんでしたが、ディーゼルエンジンで走るディーゼルカーやディーゼル機関車の天下でした。

乗った車輛はキハ47。おそらくその年に作られた最新鋭。車体も車内もピカピカでした。

私たちは列車に乗り込むと、またも2段式の窓を全開にしました。ここにも冷房はありません。山陽本線の電車と違い、床下から、力強いエンジンの鼓動が伝わります。窓から吹き込む四国の風。少し香ばしい。ほのかにエンジンからの排気が混じっていました。讃岐平野には、まるで下から拳で突き上げたような、ぽっこりとした山がいくつもありました。

多度津という駅でしばらく停車した後、列車は2つに分割され、一方は松山行き、一方は高知方面行きになりました。私たちは高知行きに乗りました。多度津から土讃本線に入る列車です。

土讃本線も、琴平(「こんぴらさん」で有名な琴平)あたりまでは沿線も平野で、列車は快調に飛ばしていました。琴平を過ぎると少しずつ山が近づいてきました。

地図を見ると分かりますが、土讃本線というのは、四国山地を縦断して、瀬戸内側と太平洋側を結んでいます。

列車の歩みは次第に遅くなりました。上り勾配です。トンネルに入ると冷やりとした風が、開け放った窓から遠慮なしに吹き付けました。風にはエンジンからの煤煙(すす)が混じって、なんだか凄いことになってきました。窓際に座っていたMとYが、トンネルに入る度に、日よけのブラインドを下げます。ブラインドに点々と煤の黒い粒が付いていきました。どうやら私は、そのブラインドの隙間から入り込んだ煤煙を、1粒ほど吸い込んだようです。喉が痛い。うがいをしようと思ったのですが、水も飲み物持っていません。そうだ、列車にはトイレがあるではないか。隣の車輛にあったトイレの手洗い用の水でうがいをしてみましたが、今考えるとそれがかえってマズかったかもしれません。喉の痛みはかえって強くなりました。

「食塩水でうがいが出来るといいんだけれどなあ」と私が言うと、

「塩入の切符やろうか?」Yが言います。「あるの?塩」

Yが見せたのは、途中の停車駅「塩入駅」で買った切符。むかつく私。

阿波池田という駅に着いて「これがあの(甲子園で有名な)池田高校の池田かあ」など3人で感心しました。高い山に囲まれているけれど、意外に大きな町でした。

阿波池田を出ると、やがて線路は、吉野川が刻んだ景勝「大歩危小歩危」に沿うようになります。

MとYは絶好調に機嫌がよく、カメラを持つ仕草をしては「シャッターチャンスは今だ!」「いや、今だ!」などと叫んでいました。今(の中学生)なら、携帯電話のカメラで写真を撮っていたかもしれません。しかし、1980年当時にそのようなものはなく、ただ、流れて行く景色を見送るばかりでした。私はと言えば、喉が痛くて絶不調です。

「喉が痛い時には炭酸水でうがいをするとよい」とY。

「それで治る?」

「いや、単に気持ちいいだけだけ。やらないよりまし」。

しかし、普通列車の車内に炭酸水の自動販売機はなく、列車はますます山深いところへと入って行きます。

やがて列車は、土讃本線の「新改(しんがい)」という駅に着きました。

私たちはそこで列車を降りました。

なぜか。ここが高松(のうどん)に続く、1日目の重要な観光ポイントだったからです。

といっても、観光施設がある訳ではありません。

新改駅は急な勾配の途中にあるため、スイッチバックという特殊な配線になっています。

そのスイッチバックを見てみたい、というのが、ここで降りた理由でした。Yの予備知識に基づく計画でした。

【参考資料・スイッチバック・Wikipedia】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%8...

新改駅に着いたのは、夕方の、まだ少し明るい頃でした。

列車はまず、本線から分岐した引き込み線に入ります。そして、おもむろにバックして、もう1本の、ホームのある引き込み線に入ります。これがスイッチバックです。そしてそのホームに着いたら、車掌はドアを開きます。

駅前には1件の雑貨屋がありました。雑貨屋は列車が出るとすぐに店を仕舞ってしまいました。

【参考資料・GoogleMap新改駅】

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E...

【参考資料・wikipedia新改駅】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%94%B9%E9%A7%85

(2010年現在、雑貨屋は閉店しているようです。)

とりあえず私たちは、線路沿い歩いていき、スイッチバックの分岐点を見物に行きました。山懐深いその場所で、銀色に輝くレールが複雑な幾何学模様を描いていました。なるほどこれがスイッチバックか、と。

で、それからどうするか。

何もすることがありません。

次の列車まで2時間近くありました。

夕闇はますます迫り、ついにあたりは真っ暗になってしまいました。

私たちは新改駅に戻りました。

昔は駅員が居たらしく、切符売り場の跡のようなものがありましたが、板で塞がれていました。

待合室には木のベンチがあり、心細い光を落とす蛍光灯には、自分たちの街では見たこともないような巨大な蛾が、バタバタと音を立てて集まっていました。

私はというと、とうとう熱を出してしまいました。

「お前はそこ(ベンチ)で横になって寝とれ」Mの指示に従って私はベンチに横たわりました。

MとYはとりとめもない話を続けていましたが、やがてクラスの女の子の話になりました。

「・・・で、うちのクラスのH子やけど、あいつほんとは性格悪くて、友達だったS子がまだ生理になってないこと知って『Sちゃん遅れてるぅ』とか言いよんねん」

「人は見た目では分からんちゅうやっちゃな」

その話にだけは参加したいと思って体を起こすと「お前はとにかく寝とれ」と、Mに諭されました。

どれくらい時間が経ったでしょう。いや、どれくらいも何も、時刻表によれば私たちはたった2時間しか新改駅に居なかったのですが、もっと長い時間、そこに居たような気がしました。

やがて山奥から線路を刻む音が聴こえてきました。乗り継ぎの高知行き普通列車です。

その列車も、私たちが乗って来た列車と同じく、一旦引き込み線に入って、バックでホームに入って来た訳ですが・・・先頭は旧型客車。一番後ろ(発車すると先頭になる)は機関車のDF50。朱色の車体と大きなエンジン音が、私たちを「闇の底から救い上げに来てくれた」ように心強い。

【参考写真】DF50高松運転所仕様(模型)

[f:id:iijiman:20100514144053j:image:w450]

機関車の次に連結されていたのも、旧型客車。オハ61系。

旧型客車、とか、オハ61系とかいっても、分からない人も多いと思いますが、一言で言うと、大井川鉄道の蒸気機関車の後ろにつながっているようなクラシックな車輛です。オハ61系というのは、ある意味で、その中でも、ひときわ渋い車輛です。(ちなみに大井川鉄道では所有していない)

【参考資料・Wikipedia・国鉄60系客車オハ61系

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8460%E7%B3%BB%E5%AE...

旧型客車といっても色々ありまして、蛍光灯を装備して明るい内装に改装された車輛もあれば、照明は薄暗い白熱電球、車内の壁は木目にニス塗りという車輛もあります。

新改駅にやって来たのは、実に、後者でした。天井では白熱電球がオレンジ色のフィラメントから弱々しい光を投げかけています。壁は天然木。今思うと、ある意味ではデラックスな仕様でしょうか?でも当時は単なる「ボロ」にしか見えませんでした。

しかもオハ61系というのは、座席の背もたれも板張り、木目にニス塗り。背もたれにクッションがありません。

壁といい座席といい、そこは木目に支配された世界。白熱電球にぼんやりと照らし出された木目が、おどろおどろしい何かを連想させます。乗客はゼロ。

「幽霊列車や!」Mが叫びました。

幽霊列車は私たちを乗せると、音もなく走り始めました。エンジンが機関車に集約されているため、旧型客車は時に、驚くほど静かに走り出すことがあります。(機関士の腕前にもよる。)

私たちは、あまりにも恐ろしい1両目を走り抜け、2両目に移動しました。またしてもオハ61系。1両目と全く同じ光景が目に飛び込んできます。乗客は2?3人くらいは居たでしょうか。3両目、4両目、5両目。全てオハ61系、お客さん数人、幽霊列車。

6両目の終わりで私たちは急停止しました。一番後ろの車輛は、ドアがなく、ぷっつり通路が途切れ、足元から銀色の線路が流れ出して伸びていました。実際、当時の国鉄ではこの旧型客車の最後部からの転落事故というのが、稀ながら起きていました。

【参考写真】オハ61系オハフ61形式(編成の最後尾に連結されることが多い。列車の最後尾はこんな感じ。)

[f:id:iijiman:20100819234236j:image:w450]

私たちは車内に戻り、覚悟を決めて幽霊列車に揺られることにしました。

まあ、慣れてしまえばこれはこれで面白いなという気持ちになってきました。

とにかく空いていましたから、1人1ボックス。

「お前は寝とれ」。またもMの指示で私は座席に横になりました。

???

「で、そこでヒヨワのiijiman君がいよいよ熱を出して・・・」

「ヒヨワちゃうわい」

(笑)

「僕たちは急遽、高知で宿に泊まることにしました」

「駅前の観光案内所というところで紹介してもらったのは、ユースホステルというところで、泊まるには身分証明が必要だと言われました」

(しずまる)

「そこで、僕(←M)だけが生徒手帳を持っていたので、僕たちは無事にそこに泊まることが出来ました。1500円くらいでした」

「ところがそこは、行ってみると、大学生みたいな人が沢山居て、凄く怖くて」

(笑)

「僕たちは部屋から一歩も出られませんでした」

2学期。夏休み明け最初のホームルーム。

「この夏休みの思い出を1人1つずつ発表しなさい」という時間がありました。

私もMも、四国旅行の話をしました。(Yは違うクラスだった)

担任の先生は、少しハラハラしながら聞いていたようでしたが、最後ににっこりと笑ってくれました。

私たちの旅は、その後、高知から松山までツーマンバス(運転手だけでなく車掌さんのいるバス)に乗って車掌さんの話を聞いたり、松山城に登ってMが俳句を投稿してみたり、まあいろいろあった訳ですが、長くなるので略します。

中2の夏の、初めての友達同士だけの旅。

一番印象に残ったのは、やっぱり、あの「新改駅と幽霊列車」です。


[36]>34 花火 koume-1124

今年はベランダで地元の花火を見てました。

小さくしか見えなかったけど、お酒を飲みながら自宅で見れるってのは贅沢で良かったです。


[37]>32 親戚の家 koume-1124

最近は集まりも悪くなりましたが、今年は割とみんな集まってました。

皆で一緒に近くのお墓参りに行って、ご飯を食べて、近況報告などをし合って楽しかったです。


[38]>28 墓参り koume-1124

お墓参りにいかないいと体の調子が悪くなったり良くないことが起きたりするとTVで見てからちゃんと毎年行くようにしています。

遠くて行けない人は手を合わせてご先祖様に拝むだけでも違うんだとか。


[39]>13 BBQ koume-1124

今年は自宅でBBQをしました!

友人を集めてワイワイと、ちょっと近所迷惑だったかな?と反省・・・

でもイ自宅でBBQのできるような田舎でよかったです!楽しかった〜


[40]蚊取り線香の香り xxkinocoxx

海の近くにある親戚の家に

毎年家族3人で夏休みになると遊びに行っていました。

私は一人っ子なので、夏に親戚の5個ぐらい上のお兄ちゃんが

一緒に遊んでくれるのがとっても嬉しくて

毎年楽しみにしていました。

その親戚の家には必ず夏に行っていたので

そのお家の思い出の香りは蚊取り線香の匂い。

未だに蚊取り線香の匂いをかぐたびに

一緒に遊んでくれたお兄ちゃんを思い出したり

いつもスーツで固いイメージの父の泳ぎっぷりに驚いたなぁとか

最近は余り行かなくなってしまった

海上の花火大会を思い出したりします。


[41]>40 懐かしいです non9981

私の祖母の家でも、夏は「蚊取り線香」と「蚊帳」を使ってました。蚊取り線香の香りは何げに好きです。

大人になってからは、ほとんど祖母の家には行かなくなってしまいました。。。

自分の家ではアースノー◯ットを使っています。何だかちょっと寂しい気持ちになってしまいました。。。


[42]>38 お墓参り twillco

家族全員でご先祖様へご挨拶へ行ってきました。

年に二回しか行きませんが、お墓はキレイにしておきたいなと思います。

枯れた花が何年も置いてあるお墓を見ると少し悲しくなりますね。


[43]>37 田舎 twillco

私も田舎へ行きました。

孫の顔は時々はこうして顔を見せないと寂しがるので。。。

田舎でリラックス出来てのんびりするのもいいですしね。


[44]夏合宿の思い出 canorps

今ではすっかり運動不足な私ですが、高校生の頃は剣道部でメーンドーコテーっ!と

日々鍛錬をしていました。

夏になると運動部は揃って合宿に出かけるのですが、それがまたしんどくて恐ろしくて・・・。

普段はたまーーーーーーーーーにしかいらっしゃらない先輩方が足を運んでくださって

朝から夕まで、私たち在校生をしごいてくれるのです。

もちろんそれ以外の時間ではやさしく面白い先輩方なのですけれど・・・。

その先輩たちがもう怖くて怖くて・・・・。

あとにも先にもあんなにつらい、しんどい思いをしたのはないんじゃないかな。

あんなにたくさん頑張って、こらえて、自分以外が頑張る姿に声を張り上げて応援をして。

けれど不思議なもので、そのしんどさを共有した仲間たちとはいつまでも不思議な縁でつながった

仲間でいられるんですよね。同じ釜の飯を食った仲間というやつなんでしょうか。

夏の思い出話を語ると

防具をつけ汗だくになって、目に汗が入っても打ち込んでいって・・・

臭くて(笑)つらくて、しんどくて、こわーい夏合宿。

でもけして一人じゃなかった。

10年以上経った今でも鮮明に覚えています。


[45]>43 田舎 canorps

夏の長期休みに田舎へ帰ることは、恒例の一大行事でしたね。

いつも行く田舎は母方の実家で、自分が生まれ育った所ではないのだけれども『帰る』という表現がぴったりでした。

村の子供たちも夏にだけ帰って来る私を受け入れてくれて

いつもいつも楽しかったのを覚えています。

私はいつも夏休み中いたので、いとこの中でも祖父母に怒鳴られた事があるのは私だけかもしれません。

悪さもしたし、祖父母は私にだけは強く怒れたようです。

夏に帰る田舎があるってすばらしいことです。

あの経験はけして買うことはできませんからね?。


[46]>44 合宿 adgt

サッカー部でいったなぁ。昔はアホかというくらい走れていたのに、今のフットサルでは全然・・・あぁ懐かしい。


[47]>12 私は・・・ jane

大学時代に、北海道に男女8人で行きました。お風呂が岩風呂になっていてビックリしました!


[48]>22 海デートは jane

なぜかドキドキしますね。いま思い出しても、ドキドキしてしまいますw 打ち上げもいいですが、夜になるとふたりで線香花火をしたのが良い思い出です!


[49]>33 最近は jane

出店も少なくなってきましたよね。あそこで買って食べるとなぜか美味しく感じたものです。

ものすごく幼かった頃は、ラムネのビー玉を必死で取り出そうとしていたようで、いまでも語り草になっています^^;


[50]蚊帳 jane

友だちのお宅に泊めてもらったときに、初めて「蚊帳」で寝ました。

いまでこそ、天蓋は珍しくないですが・・・その頃は絵本で見る、天蓋のように思えて、ますで自分がお姫様になったような気分でうれしかったのを覚えています。自宅に帰ってから、さっそく親に「買って!」とせがんだものです。


[51]>36 花火 gtore

私は打ち上げ花火よりも、手持ち花火(おもちゃ花火)のほうが好きですね。

打ち上げ花火は見るだけですが、手持ち花火は自分でできますからね。

なかでも、線香花火は、なんとも風流できれいでいいですね。

家族でだれがいちばん長く続くか、よく競い合ったものです。


[52]>45 田舎 gtore

夏休みに田舎に帰るのは、恒例ですね。

よくみんなで机を囲んで、すき焼きをいただきました。

親戚のみんなで川遊びに行ったこともありますね。

あのころは、いまのような猛暑はありませんでしたから、

暑さにまいったりすることなく、遊ぶことができましたね。


[53]>49 盆踊り gtore

校区の夏祭りで、盆踊りが催されていましたね。

輪のなかに入っておどることはありませんでしたが、

結構大音量で流れる音頭をきいていると、なんだかうきうきしてきましたね。

出店のなかでは、金魚すくいがいちばんの楽しみでしたね。


[54]>39 BBQ gtore

小学生のころに、よく山へ行って、バーベキューをしたのを覚えています。

家族で行ったこともありますし、校区の仲間と行ったこともあります。

飯盒炊さんをしたのですが、焦がしてしまい、ご飯が食べられなかったなんてこともあります。

とてもなつかしい思い出です。


[55]>53 盆踊り koume-1124

昔は大好きで浴衣が崩れる程踊ってましたww

今はあまり盆踊りのあるお祭りはいかなくなってちょっと寂しいですね。


[56]>25gtore

小学生のころには、海によく行きましたね。

さらさらした砂を踏むのは、なんともくすぐったいような、気持ちのいい感覚です。

砂山くずしとか、よくやりました。楽しかったですね。

うきわをつけて、沖のほうまで行ったとき、海の底が見えなくてちょっとこわかったという思い出もあります。


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(はてなにより削除しました)
[58]弟と行った海で MINT

あれはまだ、弟が中学生のころでした。今年こそは海に行きたいと言っていたのですが、あいにく両親は都合が付きません。擦った揉んだした結果、姉の私が同行するなら行ってきてもいいよということになりました。


しかし久し振りの海なので、二人ともろくな水着を持っていません。さっそく姉弟で買いに出かけることになりました。弟は中坊のくせにお洒落っ気満点で、前にTVで誰々がはいていたみたいなのがいいかな、それとも、などと出かける前から研究に余念がありません。

「姉ちゃんの分も俺が選んでやるからな」

ええ??。


いくつかのお店を回りましたが、事前研究の甲斐あって、弟の分はすぐに決まりました。しかしいくらお洒落にうるさいといっても、やはりまだ中学生。私の分を選ぶのには手こずっていました。そこで私がいくつか候補を選び、その中から選択してもらうことに。


やっと決まって帰り道。「あんたお洒落を気取ってる割にはずいぶん迷ったじゃない」とからかうと、弟は「分かってねぇなぁ」と唇を尖らせました。そして視線をずらして恥ずかしそうに、「大事な姉貴が着るんだから、かわいくて、それでいてやらしい視線を受けない水着を探してたんだよ」と。あ…そうなんだ。ちょっと弟の思いやりにキュンとなった瞬間でした。


いよいよ海に行く当日です。眠い目を擦りながら、早い電車で出かけます。運良く座れたので、弟はずっと電車の中で寝ていました。こういうところはまだまだ子供です。そろそろ目的地。弟はハッと目を覚まし、隣を向いて「姉ちゃん!」。しかしそこには私が席をお譲りした和服のおばあちゃんが。電車が止まるまでの、弟の恥ずかしそうな様子といったらありませんでした。ククククク♪


到着です。更衣室を借りて着替えていざ海へ。さぁ泳ごうかと声をかけると、弟は「ばっかもーん」。あ、準備体操かというと、それもあるけどまずUVケアだろという答え。あ、そうか。

「俺の付き合いで大事な姉ちゃんを火ぶくれにするわけにはいかないからな」

またまた大事な姉ちゃんて…。きゅん。


弟に日焼け止めを塗ってもらって、準備体操もして、いざ海に。きゃー、つめたい。きゃーしょっぱい。でも最初は二人で浅瀬で楽しんでいたのですが、弟はすぐ深い方に向かってクロールしていってしまいました。自慢じゃないけど、私は生まれてこの方、足の届かない水に入ったことがありません。しばらく一人で浅瀬で遊んでいましたが、そのうち飽きて、砂浜に座ってぼーっとしていました。すると知らない男の人の声。

「彼女一人?俺らと遊ばない?」

「あ…あの…」

断ろうと思うのですが、びっくりして、緊張して、うまく言葉が出てきません。

「連れがいるとしても、今は一人なんだろう、あそこで冷たい物でも一緒に飲もうよ、おごるからさ」

えと、えと、ご厚意は有り難いのですが、私はそんなことにお応えできる人では…。

「いいじゃん、行こうぜ、海は楽しまなくちゃ」

い、いえ、私人見知りするたちなので、知らない人とは楽しめないんです?、ひぇぇぇぇぇぇん。


心の中の言葉も出せないでいたその時、弟の声。

「わりぃな、その子は俺の連れだ」

う、うわぁぁ、これぞ乙女の永遠の憧れの王子様。大げさですが、この時は弟が本当にそう見えてしまいました。


危機が去って、私はちょっと涙目です。

「姉ちゃんは自分が思ってるよりずっと、その、なんだ、人の目を引くんだから気を付けなきゃダメだろう」

「う、うん…」

それから弟は、ずっと私のそばにいてくれました。

「私はここにいるから一人で楽しんできていいよ」。そう言うと、「いやこれもけっこう楽しいから」。うそばっか。地味に砂山を作ってるお姉さんのお付き合いをして楽しいわけがないでしょう。お礼に浜茶屋で、焼きそばとかき氷をおごりました。

「やっぱ海へ来たらこれだよな、うめ?」

そんな言葉にも、私を思いやってくれる優しさが感じられました。


帰りの電車の中では、やはり眠そうにウトウトしている弟です。「今日はありがとね」と言うと、弟はコテっと頭を私の肩にもたれてきました。今の顔は小学生だったころと同じ顔をしています。でもあの時は、年上の私の連れとしてもおかしくない顔をしていました。あなたはもう、人を守れるほど強くなったんだね、今日はお姉ちゃん、もうちょっと甘えていい?私も弟にもたれかかって目をつぶりました。短い時間でしたが、とてもすてきな夢が見られた気がしました。


[59]すいか割り gtore

夏になると、親戚のイエの近くにある浜辺で、すいか割りをよくしました。

すいか割りは、夏の風物詩のひとつですよね。

これは、年齢に関係なく楽しめる遊びだと思います。

思い切りはしゃいだあとに、いただくすいかは、格別においしかったです。


[60]そうめん流し gtore

そうめん流しは、あまりやったことがないんですが、

小学生のころに校区の仲間とやったそうめん流しは、いまでもよく憶えています。

そうめんはけっこう速く流れていくので、すくえたときはとってもうれしいですよね。

イエのなかでできるそうめん流し機があるようですが、やっぱり外でやったほうが楽しめます。


[61]波のできるプール gtore

かなり小さいころに、波のできるプールに連れて行ってもらったことを憶えています。

そのころの私には、波がかなり大きく思えて、ちょっと怖かったです。

私はずっと浅瀬のところにいたのですが、大きな波が来るところに、

けっこう人がいるのを見て、すごいなぁと思っていました。

また波のプールや流れるプールなどにも行ってみたいですね。


[62]氷イチゴ ekimusi

暑い夏の楽しみは、なんといってもカキ氷でした。

しかし母が着色料の入ったものは体に悪いと絶対食べさせてくれなかったので、いつもカキ氷はミルク金時か

せんじ(ミゾレ)ばかり。

密かに舌が真っ赤に染まるような、氷イチゴを食べることが夢でした。

小学校4年生の夏休みに祖母のイエに泊まり、祖母と一緒に近所へお遣いに行った帰り道、

駄菓子屋さんの前で氷と書かれた旗を見つけて「氷イチゴが食べたい!」という私に、おばあちゃんは

「お母さんには内緒ですよ」と、言いながら買ってくれました。

駄菓子屋のおじさんが手回しの氷かき器でけずった細かい氷粒が、器の中で太陽の光を撥ね返し、できあがった氷の山にかけられた鮮やかなイチゴシロップの赤。

ほのかにシロップの甘い香りが漂って、出来上がったその氷イチゴの美味しそうなことったら

ありませんでした^^

お店の前のベンチに腰掛けて念願の氷イチゴを美味しそうにほおばる私を、祖母はやさしく見つめていました。

急いで食べておでこがキーンとなったのはいうまでもありませんw

その後も何度か祖母と氷イチゴを食べに行きましたが、ある日ベロが真っ赤なのを母にみつかってしまいましたが、

禁止されていた氷イチゴを食べたことを不思議と怒られることはありませんでした。

だいぶたってから母に聞きましたが、実は祖母は天然・無添加至上主義者?で母が食べ物に厳格になったのは

祖母からの教えを受け継いだものなんだとか。

そういえば、祖母は自分で米や野菜を作っており、帰省時にはもちろん旬の季節には色々野菜や漬物を

届けてくれました。

この漬物、大根や梅干、生姜などさまざまな野菜を漬けていて、祖母特製の漬物が食卓に並ぶと

私も弟も普段は滅多にしない、ご飯のおかわりをしたものです。

母は「おばあちゃん、私には厳しかったのにあんたには甘いんだから」って笑っていました。

しかし、その厳格だった母も今、私の子どもには、なんとも甘いことw

人間、年を重ねると性格が丸くなるって本当なのね。

大人になる途中で、氷イチゴとせんじ(ミゾレ)の違いは実は色だけ!という衝撃の事実を知ったり、

白玉クリーム宇治金時なるものを食べて、これぞカキ氷の王様♪なんて思ったりしましたが、

いまだに氷イチゴは大好物です。

氷イチゴを食べると祖母と過ごした小学4年生の夏が想い出されます。


[63]>62 かき氷 gtore

かき氷は、代表的な夏の風物詩ですよね。

暑い日が続いていますので、飽きることなくいただいています。

食べると、すーっと、ほてりが冷めていきますよね。

なるほど、みぞれは「せんじ」というのですね。

はじめて知りました。

砂糖水を煎じてつくるから、「せんじ」というのだそうですね。

私は、かき氷のなかでは、みぞれが一番好きですね。

宇治金時や練乳なんかも好きです。


[64]>41 蚊取り線香 gtore

蚊取り線香の香りは、私もとても懐かしいものを感じます。

いまは、電子式液体蚊取りをつかっていますからね。

昔は猛暑になることがあまりありませんでしたから、

クーラーなどをつけず、網戸の近くに蚊取り線香を焚いて、眠りにつきましたね。


[65]>61 波のできるプール castle

ありましたね、波のあるプール。子どもの頃にいきました。

たしかいくつかの家族ぐるみのグループでいったと思います。集合場所を決める前に勝手に飛び出してあちこち遊んでいたせいで、行方不明になったと捜索されていて随分と叱られてしまいました。

波の出る発生源がどうなっているのか探りにいったら、プールの奥は子どもには深くて足がつかない場所だったので、立ち泳ぎしながら鉄棒で封鎖された柵の向こうがどうなっているのか興味深々でした。


[66]父と歩いた夕立の後の道 Fuel

その日私は夏休みを利用したバイトの帰りでした。乗換駅のホームで仕事帰りの父とよく行き会いますので、今日もいるかなと探してみると、いつもと同じ場所に立っていました。その日の気分によって、知らんふりして離れたところで電車を待つか、声をかけに行くかが違いますが、その日はなぜか、とても父と一緒に帰りたい気分でした。


「よぅ、今帰り?」

「お前もバイト帰りか、ご苦労さん」


仕事は慣れたか?、うん、なんか俺ああいう仕事向いてる気がするよ、なんて話しながら電車を待ちます。電車が来ました。一緒に乗り込んで、隣り合わせの吊革に掴まります。父親と同じ勤労帰りというところが、ちょっと誇らしげな私です。なんたって、一日働いてきたという立場では対等なんですから。いよっ、親父、あと何年かして俺が二十歳を超えたら、一緒に酒を飲みたいだろうw。そんなことを考えると、クスッと笑みがこぼれてきます。


「なんだ、バイト先で何かいいことあったのか?」

「いやぁ、今日チーフがさぁ」


窓の外に雨粒が流れていくのが見えました。あ、かなり本格的な降りになってきたようです。電車の騒音で音はよく聞こえませんが、かなり雷も光っています。すると、駅でもないのに電車が止まりました。

「大変ご迷惑をおかけします、停止信号です」

ありゃりゃ。ま、いいか。


しかし、電車はなかなか動きません。

「お急ぎの所、大変ご迷惑をおかけ致しております。ただ今落雷のため、ダイヤが乱れております。いましばらくお待ちくださいますようお願い致します」


わはは、夏の風物詩だね。そうだね。付近が一斉にざわめく中で、親子でここにいる私たちは平然としています。家族と一緒というのは心強いです。電車はずいぶん長く止まっていましたが、やっと次の駅にたどり着きました。


ここで電車は立ち往生。いつまでたっても発車する気配がありません。ダイヤは大混乱のようです。「あと3駅だし、ここで降りて歩いちゃおうか」と私。「でもまだかなり雨が強いぞ」と父。「改札を出てすぐにハンバーガーショップがあるから、そこで何か食って待とうよ、もちろんお父さんのおごりで」。「よーし、そうしよう」。交渉成立。今日は久し振りにサイドメニューがたくさん付けられそうです(笑)。イエに電話をして事情を説明すると、あらうらやましい、私もおごってもらいたかったと母。母が雷嫌いでなくて助かりました。ポテトにナゲットにシェイクも付けて、ゆっくりと雨が上がるのを待ちました。


やっと雨が上がりました。

「そろそろ行こうか」

「うん」

豪雨の後の道はまだ人通りも少なく、いつもと違うマチみたいです。私たちは二人、雨に洗われた爽やかな空気の中を肩を並べて歩き始めました。


「思い出すなぁ、お前が子供のころ、よくこんなふうに一緒に散歩したな」

「うん、なんだか早朝に散歩してるような涼しさだよね」

「コンビニあったらあのころみたいに何か買ってやりたいんだがな」

「この道にそんなの無いよ」

「知ってて言ってるんだよ」

楽しい会話が続きます。


おや、踏み切りに続く道の角にパトカーが止まっています。お巡りさんがマイクで迂回案内。どうやら踏み切り故障のようです。雷にやられてしまったのでしょうか。


「遠回りして帰ろうか」

「うん」

親子二人の散歩のような帰り道。今はこんなアクシデントも楽しい出来事です。


久し振りに父とゆっくり話しました。普段話せないこと、学校のこと、進路のこと、お互いが抱えている、相談するほどではないけれど心に引っかかっている悩み事、などなど。遠回りの道は、そんな親子の語らいの時間を、たっぷりと与えてくれました。


遠くでまだ、時々稲光が光ります。子供のころのお祭りの帰りを思い出しました。あの時は遠くの雷を恐がって、必死に父の手にすがりついて歩いていた私でした。


「お父さん、ここからもうちょっと遠回りしない?」

「なんだよ」

「ほら、向こうにコンビニ」


アイスと焼きそばと花火を買いました。焼きそばと花火は母へのおみやげです。あの雷雨は、家族とのコミュニケーションが途絶えがちな世代の私への、天からのプレゼントだったのかもしれません。些細な出来事ではありましたが、今も思い出す、懐かしい夏の日の一コマです。


[67]友達や家族、みんなの力でやり遂げた地域こども祭り watena

地元の商店会が主催する地域まつりイベントが、ついに終了することになってしまいました。個人商店の数が減り、続けられなくなってしまったのです。自治会が引き継いで継続開催をという声もあったようですが、自治会では毎年盆踊りを開催していますので、重複して二つの行事を行っても無駄だという声が大勢を占めていたようでした。

しかし私達子供は、それをとても残念がりました。お店の数が減って商店会の力が弱くなった分を、毎年地域の子供会が支えて、協力してきたからです。僕たちのまつりが無くなる。それは小学校の6年間を毎年「今年も頑張ろう、来年も頑張ろう」と言い合って過ごしてきた子供たちにとっては、とても残念なことでした。

当時私たちは6年生。子供会では最上級生です。緊急会議だ、放課後集合!みんなで話し合った結果、商店会で開けなくなったなら今度は子供会が主催すればいい、ということになりました。

「子供だけでできるのか?」

「違うよ、主催と協力を入れ換えるんだよ。」

「どういうこと?」

「商店会主催、子供会協力を、子供会主催、商店会協力に入れ換える。」

「そんなこと出来るのか?」

「はいはいはい、俺のおじさん○○商店だから聞いてみる。」

「よーし、決まった。お前んとこのお父さん、自治会の子供会担当だよな。」

「うん。お父さんとも相談してみるよ。」

最後の「お父さんとも相談してみるよ」が私です。その日の夜、早速父に意見を聞いてみました。

「問題は開催場所だな。実は毎年会場になっていた場所が、今度から使えなくなったんだよ。」

「なんで?」

「区画整理事業っていうのが始まるんだ。それで、これを機会に商店会の夏祭りも幕を下ろそうってことになったんだよ。」

「そうなんだ。盆踊りは?」

「それは会場が変わるかもしれないけど必ずやると思うよ。」

「それならば!盆踊りって夜じゃない。昼間そこで子供のまつりをやろうよ!」

「それなら可能性は高いな。」

翌日学校でみんなに報告。父も自治会の話し合いにこの件を出してくれて、話はトントン拍子に決まっていきました。そして迎えた夏。私達はまつりの開催に向けて活動を開始しました。

6年生は大人との折衝が任務です。商店会や自治会などの大人の人とのやりとりを担当します。商店会は、色んな食べ物のお店を出してくれることになりました。

場内警備をしてくれる消防の人達との打ち合わせも6年生が行います。さらに、まつりに付き物の協賛品や協賛金集めにも回りました。もちろん物やお金のやり取りは大人の間で行ってもらいますが、お願いしますと頭を下げに行くのは子供の役目です。

「○○工務店協賛ゲット!スーパーボールすくいセット一式?。」

「すげーじゃん、大工さんて商店会には入ってないんだろう?」

「うちの父ちゃんの釣り仲間なんだよ」

「去年より豪華になりそうだな」

5年生や4年生は、くじ引きや輪投げなどの出し物作りです。等身大の鬼にボールを投げて、的に当たったら目が光ってガオーと叫ぶ「的当て」も作りたいという意見が出て、ベニヤ板製の立派な赤鬼も登場しました。しかしボールが当たった時の動作装置が開発できず、結局、的に当たったことを判定する係、懐中電灯で後ろから目を光らせる係、鬼の腕を動かしながらガオーと叫ぶ係の3人がかりで動かす「人力的当て」になりました。

3年生以下はポスターと招待状作りです。招待状は、地域の色々な会の人達や、違う町内の子供たちに向けたもの。ポスターを貼らせてもらったり、招待状をお届けするのも、みんな子供が行いました。もちろん大人が付き添いますが、これには子供会担当のうちの両親が大活躍してくれました。

盆踊りは日曜日なので、前日の会場設営には、土曜日でお休みのお父さん達がたくさん手伝ってくれました。こうして迎えた第一回こども夏まつり。心配ごとは二つだけ。一つはお天気でしたが、こちらは天気予報が晴れマークで完璧でした。

もう一つの心配は、来場者数でした。地域の子供たちはみんなスタッフ側ですから、お客さんではありません。よその町内の子供たちが頼りです。でもこれも蓋を開けてみたら大盛況。夏休み初日からお盆まで、毎日のように準備に頑張ってきた私達は、お母さん達の会が作ってくれた子供会の腕章を付けて、ちょっと誇らしげでした。

この夏は子供たちみんな、今までしたことのない努力をし、みんなで一つの目標に向かって力を合わせるという経験をし、そして今まで味わったことのない感激を得ることが出来ました。学年を越え、男子と女子との違いも越えて、手を取り合って喜びました。地域の大人と子供、イエの中での親と子、みんなで手をつなぎ合って一つの行事が開催できたことは、きっと地域もイエも変えていく大きな力になったと思います。


[68]露天風呂で父と見上げた星空の思い出 Catnip

夏休みで行った家族旅行。行った先は伊豆の海です。私は関東ですから、そんなに遠出ではありません。しかし子供の私には、とてつもなく遠くまで来たように思われました。


交通手段はバスと電車です。父の車でという案もありましたが、どうせなら列車の旅も楽しもうということになったのです。特急で修善寺まで。おそらく踊り子号だったのだろうと思います。修善寺で降りると、次はバスです。バス停には何々汽船と、船会社の名前が書いてあります。さすが海の町、路線バスまで船の会社がやってるんだと、まずそのことに驚いたのを覚えています。


ここからバスに揺られること約1時間。これは特急に乗っているより長く感じました。着いたのは西伊豆の土肥温泉です。さっそく旅館に行き、私はもう海に行きたくてたまりませんでしたが、母はあまり体が強い方ではなかったので、初日は無理せず旅館でゆっくりくつろぐことにしました。


父と母にとってはここが思い出の地らしく、二人で窓から外を眺めて子供なんかそっちのけ。二人の世界に行ってしまっています。その間に私は旅館の中を探検です。あ、ゲームコーナーがありました。あとでお金もらってゲームしよう。おみやげコーナーもあります。大人になると観光みやげなんてどこも同じと見向きもしない人が多いですが、子供にとっては興味深い物ばかりでした。そして発見、露天風呂。これはもう入らずにはいられません。急いで部屋に戻って、露天風呂に行こう行こうと父を誘いました。こればかりは母と別行動になってしまいます。今考えると、私はせっかく二人の世界に浸っていたご両人を引き離してしまったのですね。時間はちょうど夕暮れ時。雄大な海の夕焼けを眺めながらの露天風呂は素晴らしい物でした。


翌日は一日海で遊びました。遊んで遊んで遊びまくって、もうくたくたです。旅館に帰ると、すぐに眠気が差してきました。私はそのまま眠ってしまったようでした。ハッと目が覚めると、もう窓の外は真っ暗。というより、父も母もとっくに夕食を済ませてしまっていました。


あんまりよく寝てたから起こしちゃ悪いと思ってと母。

晩飯にするか?それとも眠気覚ましに一風呂浴びるか?と父。

お風呂だ、昨日の露天風呂!

よし決まりだと、みんなで露天風呂に行くことにしました。母は女湯の入り口で、お達者で?などと手を振っています。物静かな母のこんなお茶目な様子を見るのは久し振りでした。父はそれを嬉しそうな目で見守っていたようでした。


お湯に浸かってしばらく。父が、空を見てごらん、と言いました。見上げると満天の星です。手足を伸ばしてお湯の浮力に体を委ねると、まるで宇宙空間に浮かんでいるようでした。

「この空をお前に見せたかったんだよ」。父はそう言いました。


そして、結婚を約束していながら一度は別れ、それでもお互いに好きな気持ちが変わらずに再び付き合い始めたこと、二度目に来たこの海で二人はもう一度結婚の約束をしたことなどを話して聞かせてくれました。


「この海の、この星の下で約束したんだ。お父さん達はもう何があっても別れない、子供が出来たら、必ずこの海と星を見せに連れてこよう、その時もう一度、今度は家族全員で、何があっても別れないと誓い合うんだ、ってね」。


私はジャブジャブっと顔を洗いました。それはちょっと涙が出てしまったからでしょう。もう一度星空を見上げました。これが誓いの星空かと思うと、また瞼が熱くなってくる気がしました。


風呂から上がると、母が「遅?い」と痺れを切らせて待っていました。「お父さんから聞いたよ、僕たち家族は何があっても別れない。じゃ先に部屋に行ってるからごゆっくり!」。

それから二人が部屋に戻ってきたのが、今度は私が「遅?い」と痺れを切らすくらい後だったことは言うまでもありませんでした。


[69]>67 地域の祭り eiyan

地域の祭りは地元の祭り。

何といっても自分らの祭りとして誇りと自信を持ちますね。

それと同時に責任の重圧もありますね。

でも祭りは楽しいものですね。


[70]>68 星空 eiyan

星空は何といっても満天。

感慨深いですね。

人工的な星空よりも自然天体の星空は何ともいえないですね。


[71]>66 夕立 eiyan

夕立は何といっても夏の風物詩。

でも今年はその夕立がない。

雨が降ればずーと雨降りが続き、晴れればずーと晴れが続く。

一遍道の天候が続く。

異常気象ですね。


[72]>60 そうめん流し eiyan

そうめん流しは風流ですね。

同じ食すのでも風流食は良いですね。

でも水の多量は無駄の様。


[73]>59 すいか割り eiyan

海の遊びとしてはすいか割りが定番。

冷たく冷やしたすいかでないと折角割っても美味しくないですね。

やはり冷たいが条件ですね。


[74]>50 蚊帳 eiyan

蚊帳なんて今でもあるのですね。

今は殆どというか全く見ないのですが、昔は必須品でしたね。

今は蚊取り線香が蚊帳の役目をしています。


[75]>21 ワークショップ eiyan

健常者は身体障害者の心を理解出来ません。

時にはブラインド経験も良いですね。

心の存在を確認するには最良ですね。


[76]>58 兄弟愛 eiyan

兄弟は良いものですね。

家族のぬくもりが兄弟のぬくもり。

それがやがては異性のぬくもり。

そして、夫婦のぬくもりに変わる。

人のぬくもりは人生のぬくもりを感じます。

このぬくもりがない人生が事件犯を生むのですね。


[77]>35 鉄道旅行 eiyan

行き先を決めてない旅。

鉄道旅行で行き先が知らされない旅がありますね。

何処に行くか判らない旅は不安と期待の入り混じり。

特に夜行列車の旅は”幽霊列車”になる。

恐山の様な特殊場に行くとなると余計に不安。

時にはこんな旅も満喫したいですね。


[78]>8 ペット eiyan

最近は核家族化が進み、子供が少なく、子供が巣立っていくと寂しくなる。

子供の代わりにペットを飼育する事になる。

ペットといえども家族同様。

子供と全く変わらない待遇。

そのペットの種類は千差万別。

ペットといっても自分の家族ですものね。


[79]従兄の「おにいちゃん」にひっついて過ごした夏 Cocoa

小学校二年生の夏休み。なぜか突然、従兄の「おにいちゃん」がわが家にやってきました。「おにいちゃん」は高校生。後で分かることなのですが、「おにいちゃん」は親と大喧嘩をして、家族と口をきかなくなってしまったのだそうです。それを聞きつけた父が、せっかくの夏休みだからうちに来ないかと誘ったのでした。


私はそんなこと知りませんから、「わぁい、『おにいちゃん』がお泊まりにきた」と大喜びです。この「おにいちゃん」はとても優しくて、小さな子の面倒見も良く、親戚のおチビちゃんたちに大人気だったのでした。私は到着早々から「おにいちゃん」に引っ付きっぱなしです。真夏だというのにお膝に抱っこ。母に、何ですか二年生にもなって、と言われてしまいましたが、まだ二年生なんですからいいですよね?


「おにいちゃん」とラジオ体操したり、お絵かきやゲームの相手をしてもらったり、宿題を見てもらったり、公園に遊びに連れて行ってもらったり。夜も「おにいちゃん」と一緒に寝るんだと駄々をこねて、「おにいちゃん」が開放されるのは、それこそお風呂の時間くらいという有様でした。それでも「おにいちゃん」は嫌な顔一つせずに、小さな私のわがままに笑顔で応えていてくれました。


「おにいちゃん」は約一週間後にイエに帰っていきました。何も事情を知らない私は「帰っちゃやだ」とまた駄々をこねていましたが、「君のお陰で家族っていいもんだなって気が付いたから帰るんだよ、またすぐ遊びに来るよ」といったような言葉をかけてくれました。


それから数日後です。母が少し目を赤くして「出かけるからすぐ支度をしなさい」と言いに来ました。どこに行くのと聞くと、病院、だそうです。どうしたの?誰か入院したの?私も知ってる人?何を聞いても、タクシー呼んだからその中で話すの一点張り。タクシーの中でも、親戚の人が入院したからとしか話してくれませんでした。


病院に着くと、伯父さんと伯母さん、つまり「おにいちゃん」のお父さんとお母さんが来ていました。子供にも事情が飲み込めました。

「『おにいちゃん』に何かあったの?」

私は答えを聞く余裕もなく、泣きじゃくってしまいました。声を上げて泣いてしまったので、母に手を引かれていったん外へ。結局その日は「おにいちゃん」には会えずじまいでした。帰り道で交通事故だったことを知らされて、また泣きそうになってしまいましたが、命には別状無いから安心して、明日は会えるからまたお見舞いに行こうねと言われて、少し安心しました。


翌日からは、毎日のようにお見舞いに行きました。「おにいちゃん」はあちこちに怪我をしていて、包帯が痛々しく巻かれています。でも私に「また遊びに行くって約束、守れなくなっちゃったね」なんて優しい言葉をかけてくれます。大丈夫、かわりに私が毎日来るから。時々「おにいちゃん」のお友達もお見舞いに来てくれました。そのうち、お見舞いの花を花瓶に生けるのは私の役目になりました。


夏休みが終わりに近付いたころ、「おにいちゃん」は話してくれました。イエで喧嘩をして、家出のような気持ちでうちに泊まりに来たことを。そして私や私の家族の様子を見ていて、イエっていいもんだな、もっと大切にしなけりゃいけないなって気付いたんだと。

「ごめんよ、せっかくの夏休みをみんな僕のために使わせてしまって」

「ううん、今までで最高の夏休みだったよ」

まだ二回目の夏休みなのに、おませな言い方をするチビっ子です。病室の窓から見える夕日が綺麗でした。夏休みの始めに比べると、ずいぶん夕方が早くなってきたようです。こうして最初は「おにいちゃん」がうちにやってきて、後半は私が「おにいちゃん」の所に通い詰めた夏休みが終わりました。宿題の絵日記は、ほとんどのページが「おにいちゃん」のことで埋め尽くされていました。まだ小さすぎて初恋とは呼べなかったと思いますが、ちょっと甘酸っぱい夏の思い出です。


[80]夏フェス! with 父 momokuri3

音楽好きの夏といえば夏フェスです。巨大な野外ライブですね。その夏フェスに一緒に行くはずだったうちの一人が、突然の腹痛で倒れてしまったのです。本人は無理してでも行きたい様子でしたが、真夏の炎天下であることを考慮してリタイア。さぁ、彼の分のチケットをどうしようかということになり、一緒に行きたい人を探したのですが、泊まりがけになりますので、なかなか急には決まりません。


するとメンバーの一人が、

「お前のお父さん、買い受けてくれないかな」

と言い出したのです。

「うちの親父?」

「前にライブハウスで一緒になって、その後飲みに連れてってもらったことがあるんだ、あれほど音楽をわかっている大人は珍しい、こういうイベントならきっと乗ってくれるよ」

「でも一人で行くかなぁ」

「何いってるんだ、俺たちと一緒に行くんだよ」

「え、ええ?!!」


チケットを無駄にするのはもったいないですから、一応声をかけてみることにしました。すると二つ返事で行くとの答え。もちろんチケット代は即金で払ってくれると太っ腹です。かくして、急に平均年齢が高くなったパーティーで、一路会場を目指すことになりました。


会場に到着すると、父は一言、「昔も今も変わってねぇなぁ」。

「昔もこういうの、あったんすか?」

「あったよ、フォーク時代の中津川から始まって、ロックが盛んになってくると郡山のワンステップフェス、軽井沢のアートフェス、次々色んなのが開かれた」

「やっぱりこんな感じ?」

「そうそう、親が見たら泣きそうなカッコしたやつらも一杯いてさ」

「あはは、俺たちも見たら親が泣く?」

「泣く泣く」


自分も親なのを棚に上げてなんということを(笑)。キャンプサイトにテントを設営、あちこち回って会場内を確認したら、あとはそれぞれお目当てのアーティストのステージを追いかけながら個別行動です。時々携帯で連絡を取り合いますが、だんだん父と一緒に回るメンバーが増えていました。父のお勧めステージがマニアックで面白いと評判のようです。私は親子で行動しても新鮮さがないと思いちょっと距離を置いていましたが、父は全く世代の壁を感じさせていないようでした。それは純粋に音楽でつながっていられるからに他なりません。そんな父を、ちょっと誇りに感じました。


夜はテントの周りで、直前までの興奮冷めやらぬキャンプです。食事は父お勧めのカ○リーメ○ト。

「音楽は体力だからな、ビタミンミネラルのバランスも欠かせない、俺もツアーの時はよくこいつのお世話になったもんさ」

「ええー、オヤジさんの若いころからこれ、あったんすか?」

「ったりめぇよ、山下達郎が高気圧ガ?ルとか歌ってたころからあるんだぞ」

「おお?」

話がだんだんウッドストックから始まる大規模野外ライブの歴史になっていき、第二のウッドストックと呼ばれたロンドン郊外ウェンブリー・スタジアムで開かれたライブエイドに話が及んだ時、

「あれがクイーンの解散を押しとどめたんだよね」

と声が入りました。

「そうさ、だからフレディは『メイド・イン・ヘヴン』でもクイーンのボーカリストであり続けたんだ」


フレディ・マーキュリーが死去したのは1991年。アルバム「メイド・イン・ヘヴン」のリリースは1995年です。過去の音源やデモテープなどを元に、あたかもフレディが一緒にレコーディングしたかの如くにオーバーダビングして作られたのが、このアルバムでした。


「そしてクイーンは今も存在し続けている」


父の言葉を受けて、一人がアイスボックスを蹴り、手拍子を入れて、ドンドンチャッ、ドンドンチャッとリズムを刻み始めました。それに続いて、一緒にいた全員で、音の出る物をかき集めて即興パーカッションです。父が立ち上がって、

「Buddy you're a boy make a big noise…」

と歌い出しました。クイーン名曲の一つ、「We Will Rock You」(※)です。もちろん「We will we will rock you」のコーラスパート(斉唱ですが)は全員で。騒ぎに気付いた周囲からも「We will we will rock you」の歌声が上がりました。この間およそ2分弱。しかしキャンプサイトの一角はその瞬間、すごい熱気に包まれていました。それはさっきまでのライブに勝るとも劣らない興奮の一瞬でした。クイーンが凄いのか、フレディの遺したものが凄いのか、うちの父が凄いのか。おそらくその全てでしょう。往年のロッカーの熱い魂を見せた瞬間でした。


もちろんあまり騒いでは係員につまみ出されますから、歌い終わるやいなや、サッと座って何ごともないように装うのがまた大人。私たちも何ごともなかったかのような素振りをしましたが、心は熱く燃えていました。

「音楽って凄いよな」

「うん、音楽の力を改めて感じた」

「俺、ここに来てほんと良かったよ」

みんな口々にそんなことを言い合っていました。私も改めて、音楽のすばらしさ、そしてわが父を誇りに思えることの興奮を噛みしめました。若い世代に迎合するのでも壁を作るのでもない、自分の持つ高みに若い世代を引き上げていける本当の意味での大人。かっこいいと思いました。全てが終わって帰宅後の父は、はしゃぎすぎて腰いてー、頭振りすぎて首いてー、俺ももう年だなぁと嘆いていましたが、それも含めて、成熟したロック野郎の父が輝いて見えた夏でした。


※文中歌詞引用元

「We Will Rock You」 作詞・作曲:Brian May


[81]がんばった夏 sumike

夏の出来事で思い出深いのは、やはり25メートル泳げるようになった小学校三年生の夏。

それまで水が怖くてお風呂でも顔を水につけるのが苦手でしたが、

学校の授業で仕方なくプールに入ることになりました。

しかし、ビート板を使えば何とか進むものの息継ぎが上手くできず、

いつも数メートルで足をついてしまっていました。

泳ぐ時のバタ足と手の水のかきかたのタイミングが合わず、呼吸のリズムが乱れてしまうのです。

一年生の頃は周りには泳げる子も少なかったのですが、二年生になると友達が次々と25メートルプールを

泳ぎきるようになりました。

負けず嫌いの私は、毎年近くの温水プールに行って、一人で練習をしていましたが、その年は

泳ぎの上手い友達と一緒にプールに行き、息継ぎとバタ足のリズム、水のかき方を改めて教えてもらいました。

みんな服の下に水着を着た上に服を着て、ゴムサンダルで通っていましたっけ。

たまに着替えにパンツを入れるのを忘れて青ざめ、水着が乾くまで待って、そ知らぬ顔で上に服を着て帰りました^^


友達と一緒だと楽しく泳ぐことができ、ある日息継ぎがスムーズにできるようになってからは、

驚くように進むようにもなりました。

一メートルでも長く泳げる様になるのを毎日帰宅する度、母に報告していました。

母も、水を怖がっていた私が、泳げるようになったのが余程うれしかったらしく

「もっと泳げるからがんばれ!」と応援してくれました。

それから毎日のように、午前中はたっぷり泳ぎ帰宅して昼食後に母の作った香ばしい麦茶を飲み、

うとうとしていると母がそっとタオルケットをかけてくれて、眠りに落ちるまでうちわで扇いでくれました。

扇風機よりずっと心地よい風でした。

夏休みの終わりに、ついに母にプールへ泳ぐところを見に来てと頼みました。

翌日、観覧席の母にそっと目で合図をして「えい」っと泳ぎだし、母や友達の見守る中、

なんとか25メートル泳ぎきりました。

一緒に家に帰る途中で、頑張ったねと誉められた事、二十年以上たった今でも覚えています。

ご褒美にと、その日の夕食は私の好物を沢山作ってくれて、これもまた嬉しかったなぁ。

できない事も頑張ればできる様になる事。

自分を見守っていてくれる家族や友達を感じたこの夏は、私にとって努力と忍耐そして、

自信がいっぱいついた最高の夏になりました。


[82]キャンプで母と過ごした森の一夜 YuzuPON

こちらでご紹介した軽トラをベースにしたキャンピングカー。この夏、これで母と一緒に出かけてみました。

http://q.hatena.ne.jp/1267765009/255893/#i255893

最初は私が留守番をして父母二人で行く計画になっていたんですが、父の都合で私が運転手役を引き受けることになったんです。


行った先は、そんなに遠方ではない、東京西部のキャンプ場です。軽と言えどもキャンピングカーですから中で寝ることが出来ますが、父があらかじめバンガローを予約していてくれたので、夜はそこで過ごすことになります。


現地到着。車を降りてチェックイン、早速バンガローに向かいました。バンガローの外観はログハウス風で、杉木立の中の斜面に建てられています。「へぇ、すてきなところね」と母。軽はやっぱりきついわぁと、早速床に寝転んでいます。「ちょ、寝転がるならシートくらい敷…」「手足伸ばすと気持ちいい?」。おやおや。


バンガローは数棟あり、私達が借りたのはその中で一番小さな棟でした。内部は四畳半をちょっと横長にしたくらいの大きさですが、二人ならこれで十分です。


川が近いので、まずは涼みに行くことにしました。かなり上流部の川なので、水深は膝くらい。母はさっそく裾をまくり上げて、子供のようにはしゃぎながら川に入っていきました。

「あんたもいらっしゃいよ」

「いいよ、子供じゃあるまいし」

「あー、かわいくない」

手の平で水をすくい上げて、岸辺の私にばしゃっとかけてきます。アニメの女子高生ですか、あなたは(笑)。


あー、楽しかった。結局私も童心に返って、たっぷり川遊びをしてしまいました。そろそろキャンプ場のお楽しみ、夕食の準備です。バンガローは単にテントが木造になっただけといった設備で、キッチンも何も付いていません。でも、自然破壊につながる地面での焚き火でさえなければ、屋外でコンロなどを使うことは出来ます。今夜のメニューはもちろんバーベキュー。キャンプ場の規則では、過度の飲酒でなければお酒も可です。


バーベキューコンロに炭を入れて着火。いい感じに火が熾ってきました。焼き、かつ食べます。普段は小食に思えていた母が、この時ばかりは食べる食べる。私はもっぱら焼く係です。

「あんたはこういう時こまめだからいいわよね、次、シシトウ多めに刺して」

「はいはい」

ビールも開けます。母は何かのリミッターが外れたようにグイッとあおって「プハー」。とても楽しそうです。

「今ごろお父さん、イエで猫と寂しく飲んでるかしらね」

「いや、独身時代を思い出して案外楽しくやってるんじゃないの?」

「かもね」


食った食った、焼き係の私も、さすがにお腹が一杯です。このキャンプ場には夜間は静寂を守る規則があるので、とても静かで落ち着いた森の夜が訪れました。そんな雰囲気に誘われてか、母は自分の若いころの話をしはじめました。特にセンセーショナルな恋バナとかではない、ごく普通の日常の思い出です。笑ったり悩んだり、時には張り切ったり時には落ち込んだり。私が高校生だったころと何も変わらない時間。そんな時間が母にもあったんだなぁと、ちょっと不思議な気持ちになりました。

「ねぇ、こんな時、あなたならどうした?」

「うーん、何もできそうにないなぁ、だってさ…」

「やっぱりそうよね」

私もいつの間にか十代のころの気持ちに戻っていたようです。


翌日、キャンプ場をチェックアウト。

「急いで帰る?そのへんを少し走る?」

「もちろん走る!」

「じゃ、行こうか」

「行っけ?!!」

母と息子ではない、友だちのような声の掛け合い。何かの距離がグッと近くなったような気がしました。最初は正直、母親と二人きりでキャンプなんて間が持つかなと少々気が重かったのですが、今はイエに帰って普通の親子に戻ってしまうのが、ちょっと残念なくらいに思えていました。家族全員で乗ることができない二人乗りの軽キャンパーだからこそ得られた、貴重なこの夏の思い出です。


[83]私達を一回りも二回りも成長させてくれたバンド夏合宿!! TomCat

学生の頃にやっていたバンド。夏こそ集中練習をしようと話し合っていたのですが、1回の練習ごとにスタジオ代がかかります。バイトもやらずにバンド三昧の学生には、これはなかなか厳しいものがありました。それぞれ小遣いが無いわけではありませんが、親からもらったお金をスタジオ代に注ぎ込むのは、何となくロックスピリットに反する気がします。

そんな時、友人の一人が、吉報をもたらしてくれました。「親戚の持ってる空き家が借りられるかもしれないよ」と。

「親戚の兄ちゃんも以前バンドやっててさあ、そこ使って練習してた記憶があるんだよ。畑のど真ん中だから、農作業のおじさん達から苦情が出るほどの騒音でなければ何とかなると思うよ」

彼はバンドのメンバーではありませんが、とてもいい友達です。その夜、早速親戚の人に電話を掛けてくれて、OKどころか一夏自由に使って構わないという、素晴らしい報告をくれたのでした。空き家とのことで電気が来ているかどうかが心配でしたが、まだ契約は解除されていないので、ブレーカーを上げれば使えるとのこと。

「俺も遊びに行くよ、肉持ってくからみんなでバーベキューしようぜ」

電話の向こうの彼の声も弾んでいました。

バンド用の機材一式をどうやって運ぶかという難問もありましたが、これも別の友人のお兄さんがトラックを出してくれることになって解決です。4トンの幌無しトラックですが、雨さえ降らなければ大丈夫。

「そういえばボーカルアンプはどうするよ」

「あ、俺たちの機材だけじゃマイクの音が出せないわけか」

「って俺たち自前のマイクもスタンドもないだろ」

しかし、これも仲間の応援で解決。足りない機材は別のバンドから借りられることになりました。

「俺らも行くからセッションしようぜ」

どんどん遊びに来てくれる仲間も増えてきました。

こんなふうにみんなの友情パワーで実現した一夏ぶっ通しのロングラン合宿。早朝、機材をトラックに積み込み、運転手役のお兄さんとその弟である友人が先発。私達は電車とバスを乗り継いで現地入りです。現地で合流して、家を貸してくださる方にご挨拶。

「おうおう、よく来たなあ、○○から話は聞いてっから。自治会にも話は通してあっから、盆踊りくれえの音は出して構わねえよ」

手ぶらではまずいだろうと途中で買ってきたのし紙付きの一升瓶を差し出すと、気を使わせてしまったなと、畑からスイカを採ってきてくれました。

「水道も出るから冷やして食え」

「あ、ありがとうございまーす!!」

車を出してくれたお兄さんは翌日仕事とのことでしたので、すぐに帰らなければなりません。同行してくれた友人も、ここで一旦帰ります。機材を下ろして、さっそく頂いたスイカを食べることにしました。冷やす暇もなく食べることになってしまったので生暖かいスイカでしたが、でもその味は格別でした。

夜はみんなでまず掃除。貴重な家をお借りするのですから、まずはピカピカに磨き上げるのが礼儀です。普段ならそんなことを進んでする奴は一人もいませんが、「合宿」という響きが、私達の何かを変えてくれていたのかもしれません。やっと一通り終わると汗びっしょり。風呂はここの持ち主のお宅でお借りできることになっていましたが、この日は水道の水を浴びました。ひゃ??、冷たいっ!! 子供の頃の夏を思い出しました。

食事は、カセットコンロに乗せた飯盒で飯を炊き、初日の夜はレトルトカレー。食事が終わると、まだ寝るのは早いとばかりに、アコースティックギターを取りだして軽く何曲か流しました。ホーホーと遠くで鳴いているフクロウとセッションです。就寝は寝袋。キャンプの夜みたいでした。

アンプを使った本格的な練習は翌日から。でも、豊かな自然の中の生き物のことを考えて、ちょっとパワーは抑えめです。これが今まで音量に頼ってロックらしさを表現していた私達に、演奏技術を磨くことの大切さを教えてくれました。

あ、何か忘れてないか? 午後は近くの畑を回って、農作業に精を出している土地の皆さんにご挨拶です。

「わけえモンの音楽はいいのう」

「でもロックっちゅーのはもっとこう、ぐわっーとでけえ音じゃねえのか? 遠慮しねーでどんどんやんな」

「ナス食うか? キュウリやトマトもあるぞ、好きなだけ持ってけ」

「町まで行くのに足あんのか? 一夏いるなら買い物もせにゃなんめえ。おーい、おめえんとこに乗ってねえバイクあったなー?」

「おー、明日にでも運んできてやんべえ」

皆さん、こんなよそ者の若僧を大変な歓迎ぶりです。私達がドギマギしていると、ここはみんなで支え合って生きていく場所なんだから郷に入ったら郷に従えだと、逆に叱られてしまいました。

それからは、もちろんみっちりバンドの練習もしましたが、地域の人達との交流も楽しかったですね。エレキピアノを弾いてみんなで一緒にラジオ体操をやったり、草刈りを手伝ったり。8月のお盆には、さすがにロックというわけにはいきませんが、やぐらの上に登って、アコースティックで何曲か披露させてもらいました。やぐらの上で仰いだ星空の美しかったこと!!

さらに、入れ替わり立ち替わり遊びにやってくる友人達。花火にバーベキュー、もちろん他のバンドの連中が遊びに来てくれればセッションです。夜、田んぼの畦に出て、アカペラでボーカルやコーラスの練習をしたのも楽しい思い出でした。しばらく滞在しているうちに私達はすっかり現地に慣れ、ちょっと風のある夜なら蚊に刺されないことを発見したのです。

「今夜はいい風だ」

「よーし、練習は外に移動!!」

行き帰りはカエルの歌の輪唱です。豊かな自然の中で、みんなすっかり童心に返っているようでした。

音楽三昧で過ごしたこの夏は、私達の演奏技術を一回りも二回りも成長させてくれました。また、豊かな自然と温かな地域の皆さんの人の輪に囲まれて過ごした経験は、それまでの私達にはなかった音楽性を与えてくれました。合宿中に、新しい曲もたくさん生まれました。

そして文字通り「同じ釜の飯」を食い合って、家族のような強い絆を得たわがバンド。親元を離れて自炊をし、地域の人達と交わってきた経験は、私達の人間性をも、大きく育ててくれたようでした。

数々のかけがえのないものを掴んで帰った私達を、さらにこの合宿のために様々な力を貸してくれた仲間達が迎えてくれました。こうして演奏のテクニックも音楽性も、人としての経験も人間性も、仲間の輪も、大きく成長させてくれたあの年の夏。

今、私が抱いている田舎暮らしの夢やレストラン付き農園構想なども、この夏の思い出が下敷きになっていることは言うまでもありません。もちろん実現したら、そこで音楽もやりますよ!!


[84]>74 蚊帳 nakki1342

いつ頃までだったのかは、忘れてしまいましたが

子供の頃、使ってた覚えがあります

懐かしいです

今では、ウチではあまり蚊取り線香さえ使わないのですが

絶対に昔は、蚊帳が必要不可欠だったんです

使わないと落ち着いて眠れなくて・・


[85]>69 地元は落ちく gerip

祭りで賑やかなのに、不思議とまとまり感がありますね。


[86]>70 これは素敵な思い出ですね TomCat

海岸の星空の下で結婚を誓い合った恋人たち。そして時が経ち、もうひとつの誓いを同じ星空の下で・・・・。まるでドラマのような素晴らしい思い出ですね。

時には壊れることもある不安定な恋愛からスタートして、それがもう決して離れることはないという強固な家族愛に高まっていく。その上に家庭という存在が築かれていく。

イエ、家族の成り立ちは様々ですが、そのひとつの理想の形を見る思いがしました。

この世に不変な物はありません。宇宙も常に変化を続けています。でも、今の星座の形の基礎が作られたのは、紀元前3000年の古代オリエントのころ。遊牧民達が、季節の変化を星の動きで知るために考え出したのが星座だと言われています。ということは、その頃から人々はずっと、ほぼ同じ形に並んだ星空を見てきたわけですよね。

ですから、星空に誓う愛は、少なくとも5000年は有効です。私も降るような星空の下で、そんな愛を誓ってみたいものです。

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