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サルトルの『存在と無』の冒頭(ちくま学芸文庫)に、

現代思想は、存在するものを、それをあらわす現われの連鎖に、還元することによって、いちじるしい進歩をとげた。それによって、哲学を悩ましているさまざまの二元論を克服し、これにかえるに現象の一元論をもってしようというのが、その狙いであった。

と、あるのですが、これはどういう意味なのでしょうか?

●質問者: koime_ryokutya
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
✍キーワード:いであ ちくま学芸文庫 サルトル 二元 哲学
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 3/3件

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1 ● Hyperion64
●20ポイント

主にフッサールの現象学もしくはハイデガーの現象学的な存在分析http://www.geocities.jp/ittokutomano/sein.htmlのことを指していると思います。


サルトルにとって「現代思想」とは、存在をそれが意識に現れるままに「現象」として記述することで、抽象的な観念論や唯物論などの古い思考法(二元論)から脱皮できたという意味ではないでしょうか。

サルトルはレーモン・アロンから現象学の洗礼をうけており、「存在と無」もその影響下で著されているはずです。


2 ● ケイタ
●20ポイント

この場合の二元論は、「即自存在」と「対自存在」のことを指すんではないでしょうか。そして、現象の一元論が、「実存は本質に先立つ」という実存主義。二元論を克服するというのは、あくまでサルトルの立場であって、より優れた理論というわけではないと思います。個人的に、サルトルを信仰すると、とにかく理想が先立って現実が見れない、という偏見を持っています。


3 ● koutarou
●20ポイント

>これはどういう意味なのでしょうか?

人力が再編集できるようになったんですね。もうすこし追加してみました。


現代思想は、あらゆる存在を、人間とかかわることで、意味をあきらかにでき、

著しい進歩をとげた。


中世の神学では、「神が人間を創造した」といったようなキリスト教的な人間観から、

神と人間を分離して真理を解き明かそうとしてきた。


また、近代哲学では、「我思う、ゆえに我あり」といったデカルトのように、

精神(私)と物体(私以外の物)を分離して世界を解き明かそうとしてきた。


しかし、このような二元論は、けっきょく真理や世界の存在を明かにしようと

してきたにすぎなかった。


この悩ましい問題をどう解決したらいいか。現実に存在している人間をみつめて、

解き明かそうという目的があった。


一言でいうと、キルケゴールにはじまる実存主義は、旧来の二元論を克服することで、

現代思想に大きな進展をもたらした。ということではないでしょうか。

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