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古事記の下記文章は私に次のように読めます。 みそぎ祓いで、左目の穢れが天照大神になり、右目の穢れが月読命になり、鼻の穴の穢れが須佐之男命になり、この3つ穢れから生じた3人を貴い子と呼んでいる。 当時は、皮膚についた汚れや垢、目や鼻に入った汚れ、肛門から排出される穢れが、祓いで、貴く清浄なものに変化するという考えがベースにあったのでしょうか。
色々な祭儀・神祇では、[みそぎ・禊]は、汚れや穢れの排除・除去のことではなくて、汚れや穢れの清浄な貴い面を表に出させることなのでしょうか。
逆に言えば、汚れや穢れがないと、清浄な貴いものは生まれないと考えていたのでしょうか。
神祇でも、和魂、荒魂は同じもので一方だけが存在することはないとみているようです。 穢れと貴さ清浄さもそのようなイメージだったのでしょうか。

伊邪那岐命、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。
於是洗 左御目時、所成神名、天照大神。
次洗 右御目時、所成神名、月讀命。
次洗 御鼻時、所成神名、建速須佐之男命。
此時伊邪那岐命、大歡喜詔、
吾者生生子而、於生終得三貴子、

●質問者: hathi
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
✍キーワード:いもの けが イメージ ベース 三貴
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 4/4件

▽最新の回答へ

1 ● suppadv
●78ポイント

私は単純に、見ると嗅ぐという感覚の重要さから、右目と左目、鼻だと思っていました。

禊という考え方での理解は面白い考え方ですね。

力太郎は、爺さん婆さんの垢から生まれたことになっていますね。

その点からもそのような考え方もあったのかもしれないと思いました。


2 ● km1981
●38ポイント

伊邪那伎はケガれた国を訪れたことから禊ぎをするのですが、これは、当時の日本の支配者たちが覇権を争った史実を浄化し、その結果に生まれたのが天照大神ということを強調するために作られた話だと思います


3 ● 松永英明@ことのは
●140ポイント ベストアンサー

三貴神が生まれる禊ぎの前にも、多くの神々が生まれていますね。さらに、アマテラスとスサノオの「禊ぎ合戦」でも、禊ぎによって落とされた穢れから神々が生まれています。

一方で、黄泉において死体となっていたイザナミに生まれた雷や黄泉醜女などはあくまでも穢れとして扱われています。つまり、穢れは穢れとして認識されていたと思われます。

そこで考えられるのは、「祓い」という行為を経て生じたものは清浄なるものとして扱われる、という思考回路ではないかと思います。現代の感覚だと、「汚いものをそぎ落とすことで、汚くなくなる(つまりマイナスをマイナスすることでゼロになる)」ということになるかと思うのですが、「汚れた総体に禊ぎという変成プロセスを与えることで、全体が浄められる」→禊ぎの過程で生まれたものもやはり浄められている、ということになるんじゃないでしょうか。


そして、これは必ずしも「浄めには不浄が必要」という意味ではなく、たとえば国生み神話ではヒルコを除いて不浄と関係なく国土が生まれています。


荒魂・和魂(幸魂・奇魂)は、それぞれ別のものというのではなく、同じ一つの霊における「別の側面」ととらえられると思います。したがって、荒魂・和魂というのが相互依存的に「存在」するというよりは、単純に「表と裏」くらいの関係であろうかと思います。仏教的には、通常の如来と憤怒形の明王が「同じものだが、別の現れ方をしている」というように解説することがありますが、それと共通する見方だろうと思われます。


余談ですが、km1981さんのオフトピに絡めて言いますと、私は高天原=九州北部、天照大神=卑弥呼+台与説で、その中でも特にアマテラス神話が極めて弥生文化的(大罪が農耕におけるタブーである)という点に注目しています。私は弥生人=長江下流域の江南水稲耕作文化民が朝鮮半島南端を経て対馬海峡・北九州にたどり着いた人々、と考えています。

◎質問者からの返答

「祓い」という行為を経て生じたものは清浄なるものとして扱われると思います。

ただ、イザナギが清浄になるのではなくて、穢れが清浄な神に変わるのではないかと思います。

荒魂・和魂(幸魂・奇魂)は単純に「表と裏」くらいの関係ですが、別体で同時にも存在しうるというどうも不思議な状態で祭祀されています。

不思議なのはスサノオで、黄泉から戻っても禊ぎをしません。高天原で穢れの行為をしますが須佐之男も周りの神?も禊ぎをしません。単に須佐之男を罰したり、だだをこねて閉じこもった天照対策をしているだけのようです。 黄泉にいった穢れ、馬やくそ、織女の死の穢れは問題にならないのですかね。

古事記の記述に対応する古代の勢力関係や史実があるかどうかは、現在の関心事ではなくて、古代(といっても、古事記や日本書紀を編纂した当時)の穢れと神の関係についての、人々の理解はどんなものかに関心があるだけです。

この「穢れ」は、朝鮮や中国、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャローマの穢れとは違う、特殊なイメージらしいので、気にしています。

なにか参考になる論文やwebサイト、言い伝えなどありましたら、お教えいただければ幸いです。


4 ● Hyperion64
●113ポイント

引用されている部分は、黄泉の国から帰還した伊邪那岐命が、穢れを清めることで神々が化成する重要な場面です。また、禊の起原と元型の神話として認識されています。

かといって、禊で洗い落とされた汚れや垢が神に変化したというより、洗い落として元の状態に戻すという行為が神に化成したと考えたいです。

それをもう少し説明します。

ここでの穢れとは黄泉の国の穢れを両目で見た、鼻はその穢れを鼻で嗅いだからだと解釈されています。(西郷信綱等)

穢れとは気枯れと言いかえらるように、本来充実していたものが、損なわれた

状態になったことでしょう。禊は損なわれた状態を本来の満ち足りて

清浄な姿に戻すための行為だろうと思います。伊邪那岐の貴いお顔が

本来の姿にもどったことで三貴子が群生したのであろうと思います。

これを古代人の身体感に即して言い換えると、身体はもともと清浄なものなので、汚れや垢は川の水で洗い清めれば、きれいサッパリもとに戻る。なんのあとも残らないし、元気が取り戻せる。だから仕事が終わって疲れたら、毎日お風呂や水浴びをするのが一番だ。


古事記注釈〈第1巻〉 (ちくま学芸文庫)

古事記注釈〈第1巻〉 (ちくま学芸文庫)

◎質問者からの返答

禊は損なわれた状態を本来の満ち足りて清浄な姿に戻すための行為だろうと考えるなら、三貴子が生まれることはないですね。(戻る・旧に復するだけですから)洗い清めれば、きれいサッパリしたら、別の神が生まれるのでは、その神はなにかということになります。

穢れとは気枯れと言いかえ、本来充実していたものが、損なわれた状態になったこととだけ考えたのでは、禊ぎの結果貴子が生まれることと整合しなくなります。

禊ぎをするとなぜ神が生まれるのかは、穢れが変成するようなことをイメージしないと理解できないと思います。

穢れを単なる状況を示す言葉だと理解しているのが、間違いの元ではないかと思います。 穢れは実態そのものと考えた方が良さそうに思います。 キツネ憑きも単なる心理状況ではなくて、キツネが憑依するのですから、黄泉にいくと穢れが付いてしまうのですが、それを禊ぎすることで、穢れが神に変わるのではないかと思います。

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