ちょっと途中経過ですが他の方へのヒントにでもなればと・・・。
「○○を食べさせる店」と表現されますが、なんだか強制的に食事をさせられるような... - Yahoo!知恵袋
知恵袋の受け売りなんですが、高圧的な意味は無く、「食べられるお店」という事なのでは。
なので、昔から言う言い方だったのでは。と思って調べているところです。
出自を探す方法を考えまして、その一つは新聞の全文検索です。
明治時代くらいから検索できるはずなんですが、国会図書館とかに行かないといけないんですよね。
で、手掛かりとしてもう1つ探しているのが、
宮沢賢治の「注文の多い料理店」の古い書評です。
注文の多い料理店のあらすじの説明として多い表現が、
「来た客に西洋料理を食べさせる店」という表現です。
もしかしたら本文中にあるのかもしれませんので、その方面でも探してみます。
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追記:
青空文庫にありました。
たべさせる。という表現があります。
「だからさ、西洋料理店といふのは、ぼくの考へるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家
うち
とかういふことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」
その他、こちらの作品でも同様の表現が
(作者 生年:1889-03-01 没年:1939-02-18)
牛の脊髄のスープと云ったような食通を無上に喜ばせる洒落た種類の料理を食べさせる一流の料理店
太宰治 の狂言の神(1936年)にもありました。
浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。
それ以上前は分かりませんでしたが、少なくとも大正の頃には使っていた表現のようです。
ありがとうございます。
残念ながら知恵袋の回答は回答者がちょっと的外れでした。文法的に誤った解説ですね。「させる」はあくまでも使役であり、「させてください」の「ください」が許可を求める部分であると考えられます。
関連して、「○○を食べさせてくれる店」と「○○を食べさせる店」でもかなりニュアンスが違うと思います。「とれたての新鮮な野菜を食べさせてくれる店」はもてなされている感じで日常的に言うと思いますが、「とれたての新鮮な野菜を食べさせる店」というのはお店紹介の文章でしか使われないように思います。
「注文の多い料理店」は、使役と受身の対比のようにも思われます(というか、ここはネタバレですね……。なのでぼかした書き方にしておきます)。
岡本かの子と太宰治は確かにこの用法ですね。太宰の1936年は昭和十一年にあたります。注文の多い料理店が大正十三年なので、昭和初期には用法として見られるということのようですね。
最初に誰が言ったとかはなくて自然といわれてきた言葉ではないかと思います
http://hwsa8.gyao.ne.jp/uokatsu/
つまり誰かが言って流行ったとかではなくて
「おいしい」などと初めからよく言われる表現の一つだと考えます
思いつきの回答は求めていません。
「初めから」というのはいつの時代のことでしょうか。「おいしい」を大辞泉でひきますと「味がよい意の女房詞「いしい」に接頭語「お」の付いたもの」という解説がありますが、「○○を食べさせる店」という表現はそれと同じくらい古いのでしょうか。江戸時代の作品にこの用法はあるでしょうか?それよりさかのぼると食事ができる店自体が普通ではなかったりしますよね。
(ちょっと検索しただけなので一番古いかどうかは判りませんが)
森鴎外の「渋江抽斎」の中にこんな表現があります。
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/sibuechusai.html
その九十五
今浅草見附の所を遣つて来ると、旨さうな茶飯餡掛(あんかけ)を食べさせる店が出来てゐました。
これが、東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載されたのが、大正5年です。
少なくとも、鴎外は有名人ですし、新聞連載となると多くの人がこの表現を目にしたと思われます。
ありがとうございます。
鴎外が新聞で書いたとなると、これは定着しそうですね。大正五年まできました。
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kanan5100 ●60ポイント ベストアンサー |
「食べさせる」ではなく「食わせる」であれば、明治時代から用法がありますね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/765_14961.html
夏目漱石「彼岸過迄」(明治45年)
広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋は昔しから名代なものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、すべての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜と、脇差をぐいぐい呑んで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html
夏目漱石「道楽と職業」(明治44年)
足袋屋はさておいて食物屋の方でもチャンとした専門家があります。例えば牛肉も鳥の肉も食わせる所があるかと思うと、牛肉ばかりの家があるし、また鳥の肉でなければ食わせないという家もある。あるいはそれが一段細かくなって家鴨よりほかに食わせない店もある。しまいには鳥の爪だけ食わせる所とか牛の肝臓だけ料理する家ができるかも知れない。分れて行けばどこまで行くか分りません。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/50396_39302.html
正岡子規「初夢」(明治34年)
これか、新橋ステーションの洋食というのは。とにかく日本も開らけたものだネー。爰処へこんな三階作りが出来て洋食を食わせるなんていうのは。
http://www.ikedakai.com/yogo-b/syukueki.html
十返舎一九『東海道中膝栗毛』
北八「コレ菜は何をくはせる」
やど引「ハイ当所の名物薯蕷でもあげませう」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7260/tokaido/01/03.htm
弥次「ヱヽ手めへだまつていろへ。ソノみちをずつと行と、村はづれに、茶やが弐軒あるところがある」
北「ほんにそれよ。よくくさつたものをくはせるちゃ屋だ」
江戸時代にも遡ってみましたが、これはちょっと違う用法ですね。
「食べさせる」の前が「食わせる」というのは流れとしておかしくないと思われます。とすると、少なくとも漱石による明治末の用法は確実でしょうね。
弥次喜多の例はさらにさかのぼりますが、一つ目の「何をくわせる?」という疑問文は、今の「○○を食べさせる店」につながっているように思われます。これ、疑問文なら違和感が小さいですね(何を食べさせてくれるの?という言い方に通じるものがあり、自分が命令される側なのでおかしくはない)。
そこで考えてみますと、「食わせる」と「食べさせる」は同じような言い方でありながらニュアンスが違うようですね。「食べる」という言い方は「食う」より上品になっているために、使役形にしたときに単純に「料理を供する」だけでなく逆に押しつけがましさが出てくるように思われます。
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mdfmkさんがコメント欄で「くわせる」のコトバンクへのリンクを入れてくださいましたが、《5 おいしい料理を出す。「なかなか―・せる店だ」》と5番目の用例なんですよね。かなりの派生的用法だと思われます。また、この用法だと、「そばを食わせる」ではなく、「なかなか食べ応えのあるものを出しやがる」という評論家目線的な言い方になりますね。このあたりの違いも気になるところです。
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漱石の「しまいには鳥の爪だけ食わせる所とか牛の肝臓だけ料理する家ができるかも知れない」ってのは面白いですね。漱石を牛タン屋とかホルモン屋に連れて行きたい。