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「我おもうゆえに我あり」とはどういう意味なんでしょうか?

●質問者: imitate_nter51
●カテゴリ:学習・教育
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 4/4件

▽最新の回答へ

1 ● hysr

疑わしきは排除するという方法的懐疑という手法で、いろいろなものを排除していったところ、今現在そのように疑っているという思考だけは排除できなかった。だからその思考をしている自分だけは確かに存在する、という話しです。

↓詳しくはこちらに。

我思う、ゆえに我あり

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A


方法的懐疑

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88#.E6.96.B9.E6.B3.95.E7.9A.84.E6.87.90.E7.96.91

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1112316656


2 ● きゃづみぃ

この世の中のすべてのものの存在を疑ってみたときに、こうやって考えている自分がいることは 疑えない事実であるということです。


3 ● gtore
ベストアンサー

こちらはご参考になりますでしょうか。


単純にいうと、

「わたしは思考する。だから、わたしが存在する」

ということですね。

つまり、

「わたしは思考する。だから、わたしが存在する。(だから、ほかのものも存在するといえる)」

「わたしは、ほかのものが本当に存在するのか、などと疑い思考するが、

そのように疑い思考するわたしが存在することは、疑えない。

(だから、ほかのものも確実に存在するということができる)」


我思う,故に我あり【われおもう,ゆえにわれあり】

ラテン語〈コギト・エルゴ・スムCogito,ergo sum.〉の訳。デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本原理。あらゆるものは疑えるとしても,かく疑い考える我の存在は疑えない。

http://kotobank.jp/word/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86,%E6%95%85%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A


コギト-エルゴスム 6 [(ラテン) cogito, ergo sum]

〔哲〕「我思う、故に我あり」の意。デカルトが一切のものを懐疑した末に至った第一の真理。一般に知識と呼ばれているものを疑っても、疑い考える我が存在することは疑いえず、意識する自我の明晰・判明な確実性がすべての認識の確実性の始点となるとした。

http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B3%E3%82%AE%E3%83%88-%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B4-%E3%82%B9%E3%83%A0

◎質問者からの返答

皆様回答ありがとうございます。

わかりやすかったです!


4 ● ケイタ

「我が持てる主観(理性)によって証明できるのは、我という観念し続ける存在だけ」


夢か幻かなど、我が存在する世界を理性によって疑い続けることは普遍的に可能。

私以外の存在は証明できないので、神の存在についても証明はできない、というもの。


似非科学 VS 懐疑批判 が終わらない所以


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