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【意志と表象としての世界】
ショーペンハウアーの言うところの「意志」という概念は
一体どのようなものなのでしょうか?

誰か分かる方いらっしゃいましたらご教授お願いします。

●質問者: happy-yuu
●カテゴリ:科学・統計資料 人生相談
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● kumonoyouni
●100ポイント ベストアンサー

『意志と表象としての世界』アルトゥール・ショーペンハウアー 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇の解説がご参考になるのではないかと思います。
以下、抜粋ですが、生い立ちや時代背景も含めて書かれており、分かりやすいです。

ショーペンハウアーの哲学を一言でいうなら、「世界は意志の発現である」というものだ。世界そのものが意志をもっているということを言う。

これが何を意味するかはあとで説明するが、意志は世界でありうるというメッセージになっているのは、わかると思う。意志によって世界を語ろうというのだから、たいそう強い哲学だ。もっとも、ここで意志といっているのは、ラテン語でいえば「リベルム・アルビトリウム」のことで、「自由意志」のことをさす。リベルム・アルビトリウムは古代ギリシアから問題にされてきたもので、必ずしも人間の意志をさすとはかぎらない。むしろ自然や世界や宇宙にひそむ力の発動を「自由意志」とみなした。
ところが、これをカントが「物自体」のリベルム・アルビトリウムまでもちこんだのである。話はここから展開していく。

*** 中略 ***

で、やっとここからがショーペンハウアーになるのだが、ところがショーペンハウアーは、デカルトやカントが「物質界」とか「物自体」とみなしたところのものを、大胆にも「意志」とみなしたのである。
いったいそんなことがありうるのかというほどの、見方の転換だった。しかもこの「意志」は、世界にあまねく広がっているリベルム・アルビトリウムではなかった。もっと妙なものだった。
いや、早とちりしてはまずい。これは物活論なのではない。アニミズムを持ち出したのではない。ユングやエリアーデのように、意志にアニマやアニムスを想定したのではないのだ。見えている世界をふくむ感知できない世界そのものに意志があって、その一部を、人間は適当に切り取っているとみなしたのである。
このことがどういう意味をもつかは、にわかには理解しにくいかもしれない。物自体が意志だと言っておきながら、その物自体の意志が何かにあらわれるのではなくて、そこから人間が勝手な意志を切り取っているというのだから、いったい世界の意志は人間の意志にろくなものしか提供していないように思えるからだ。
しかしもし、ショーペンハウアーが言うように、そのような物自体が意志ならば、世界そのものはもともと「見えない意志」だということになる。それを人間は一知半解に反映して、自分の意志と思いこんでいるということになる。ショーペンハウアーの哲学が「意志の形而上学」といわれるのは、ここだった。

が、ここからがなかなかややこしい。紆余曲折がある。
ふつう、意志といえば何事かを意識的に追求したり、意欲していることをいう。けれどもショーペンハウアーがいう意志は、きわめて反理性的な意志なのだ。
誤解をおそれずわかりやすくいうのなら、意志には大別して二種類のものがあって、一般的な意味で「何かをしようとしている意志」と、他方で「無目的に人間をかりたてる意志」とがあって、ショーペンハウアーにおいてはこの後者のほうの意志が主題となったのだった。

*** 中略 ***

では、集約しておきたい。
ショーペンハウアーの哲学は「意志の哲学」であって、「存在の倫理学」である。
その意志と存在は、第1には「共感」によって支えられている。第2に、この共感を動かす動機は「同情」(シンパシー)にある。まずはこの共感と同情によって世界があらわれてくると、みなされた。
このうち、「このように世界があらわれている」ということを、「表象」(フォアシュテルング)という。人間の知覚にもとづいて意識にあらわれる外界のイメージのすべてが、表象だ。ドイツ語では、語源的には「私の前におかれるもの」とか「私が前におくもの」といった意味をもつ。ここからショーペンハウアーの有名な「世界は私の表象である」という言明が生まれた。
しかしこれだけでは、多くの哲学の基底とそれほどちがわない。ヒュームやアダム・スミスも、共感や同情を社会を起動させる最も重要な要因と考えたし、ショーペンハウアーの出発点であり、また批判の原点ともなったカントも、共感は人間の悟性に基本的に埋め込まれているとみなした(カントはそれを「感受性」とよんだ)。
そこでショーペンハウアーは、第3に、共感や同情が実は「共苦」に裏打ちされていると見た。この「共苦」という見方を持ち出したところに、独特のものがある。おそらく「いじめ」や「自殺」の絶えない今日の日本人にとっても、意外なヒントをもたらすだろう。
ただし、ここからは強靭な推理力が必要になってくる。なぜなら、これまでショーペンハウアーはしばしば誤解されて「自殺の擁護者」などと揶揄されるのだが、どっこい、ショーペンハウアーはまったくその逆の哲学を打ち出し得た最初の哲人であったからで、そのような、一見、逆説的な印象のなかでショーペンハウアーの「共苦の哲学」を語ることが、一般にはかなり難解だとみられているからだ。

「共苦」(Mitleid=ミットライト)とは、やや聞きなれない概念であろう。
しかしながら、よくよく考えてみると、この言葉をつかうことがそうとうに深い意味をあらわすのかもしれないことが見えてくる。
われわれは自分の苦しみというものを、自分だけの苦しみだと感じていることが多い。けれども、多くの苦しみ、たとえば失意・病気・貧困・過小評価・失敗・混迷・災害などは、その体験の相対的な差異こそあれ、結局は自分以外の誰にとっても苦しみなのである。まして、自分の苦しみが相手の苦しみよりも強いとか深いということを、相手に押し付けることはできない。相手も同じことを言うに決まっている。
このとき、われわれは「共苦」の中にいることになる。誰だって「苦しみがない」などとは言えないはずなのだ。

そこで、ショーペンハウアーが考える。
共感や同情も、その深部においては「共に苦しんでいる」ということが発動しているのではないか。われわれは自分よりも相手が優秀であったり成功していることを共感するよりも、共に似たように苦悩をもっているということに共感を示すのではないか。
さらに、こう考えた。世界は「共苦」を前提にできていて、そこから意志があらわれてくるのではないか。その意志の行方には放っておけば必ず欲望が待っていて、富裕や長寿や支配に向かおうとする。幼児だって、そうである。幼児が泣くのは自分が苦痛にあることを告げている。やがて幼児が子供となり、子供が少年や少女になるにしたがって、苦痛や苦悩から解放されることが社会の通念だということが教えられ、そのうち欲望や支配が意志の行方になっていく。
そうだとすれば、世界は当初においてその意志を、原初の苦しみは何かということを表象しているのではないか。そうだとすれば、世界は当初において「共苦」なのではなかったか。

この考え方は、何かに似ている。そうなのだ、すでに書いておいたことだが、ブッダが「一切皆苦」を出発点にしたことと、とてもよく似ている。
ショーペンハウアーは、ここにおいてウパニシャッド哲学や仏教に急速に近づいていったのである。ヨーロッパの哲人として初めて東洋哲学の起源を観照したのだ。そして「皆苦」や「共苦」が前提であるなら、そこを端緒とする哲学がドイツにも、ヨーロッパにも、そして全世界において樹立されなければならないと考えた。
これこそ、ショーペンハウアーの「ミットライト・ペシミズム」の誕生である。共通の苦悩から共通の世界意志を見いだし、そこに新たな哲学を萌芽させること、そこに『意志と表象としての世界』の意図があった。
これを、一面でいうならドイツにおける「解脱の思想」の誕生といっていいだろう。実際にもショーペンハウアーは、しばしば「解脱」(ニルヴァーナ)にも言及した。

*** 中略 ***

ところで、ショーペンハウアーのペシミズムは、「世界は私の表象である」という言明にも示されているように、あくまで「私」を残響させた解脱の展望である。「滅私」や「無我」までは持ち出さない。
ここに、ショーペンハウアー哲学の限界もある。そこは仏教哲学の核心そのものとは異なっている。
それでもショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』第4巻の最後の最後のところで、ついに「無」(Nichts)を持ち出した。そして、こう書いた。
「意志を完全になくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆にまして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換しおえている人々にとっては、これほどにも現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて、無なのである」。
ショーペンハウアーは、この最後の一文に次のような脚注をつけた。「これこそ仏教徒のいう般若波羅蜜なのではないか。認識の彼岸に到達した世界意志なのではないか」。

だいぶん長くなってしまった。こんなところで店仕舞にしよう。
いま、ショーペンハウアーを読む者はほとんどいないと言っていいだろう。それはいま、大乗仏教にとりくむ者がきわめて少ないということにつながっている。しかし、姉崎正治が『意志と現識としての世界』を翻訳刊行したときは、鴎外も花袋も泡鳴も、清沢満之も西田幾多郎も鈴木大拙もショーペンハウアーに熱中したものだった。
トーマス・マンを読みたいなら、ショーペンハウアーも読んだほうがいい。芥川龍之介や太宰治に何かを感じたことがあるのなら、その奥にショーペンハウアーがいることを覗いてみたほうがいい。ヴィトゲンシュタインも、実はショーペンハウアーなのである。
ミットライト・ペシミズム。
ぼくの感じでは、このミットライト・ペシミズムの“共感と共苦の同時感覚”がわからないで、世をはかなんだり、自己意識に溺れたり、世の中に文句をつけるのは、あまりにも杜撰なのである。また、数滴のミットライト・ペシミズムがなくて、頽廃やアヴァンギャルドをかこつのも、かなりぐさぐさなことなのだ。
とくに仏教において、ミットライト・ペシミズムの彼方についての議論が沸きおこることを期待する。


ご参考になれば幸いです。


happy-yuuさんのコメント
どうもはじめまして。私、時間ができてから最近、この手の本に興味を持ったばかりの初学者もいいとろのものなので、kumonoyouniさんのような回答を頂けると非常に助かります。 >ショーペンハウアーは、デカルトやカントが「物質界」とか「物自体」 >とみなしたところのものを、大胆にも「意志」とみなしたのである。 なるほど、この部分でピンときました。正しい解釈なのかはわかりませんが、 例えばカントは「物自体がなんであるかということについては、われわれは何も知らない。われわれはただ物自体の表れであるところの現象がいかなるものであるかを知るに過ぎない」と言っています。要するに「物自体の存在をどのようにとらえるか」という問題だったのですね。デカルト、ヒューム、カントなど、哲学史を通じてこの手の議論は事欠かないようで、自分の中で色々とごっちゃになっていたようです。 回答ありがとうございます。参考にさせて頂きます。

kumonoyouniさんのコメント
すみません、コメント遅れました。 ご参考になったのなら、良かったです(^-^) (正直、私自身もこの解説を読むまではピンときませんでした) では、またどこかでお会いしませう。
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