『今日の料理』
――これは何だ?
一朗は目の前に置かれた物体の為す意味に惑い、その意図をようやく察知するのに暫くの間を要した。アイドル状態のまま動かない一朗にじれた妻は口を開いた。
「今日の晩御飯は、健康の為に生野菜サラダよ。」
妻のその言葉に、一朗は絶望したといっていい。
そして行き場のない憤りが一朗を支配する。
この寒空の下、北風に凍えながらも帰宅して、やっと暖かい飯にあり付けると安堵した矢先のことである。何故にこのような野蛮な物を食わねばならぬのか。
健康の為に野菜を食え、それはわかる。
しかし、しかしだ、生で食わねばならぬ理由は何か?
スープでも野菜炒めでもいい、とにかく加熱さえしてくれればいくらでも美味しく食うことは難くない。何故生なのか。
さらに悪いことに、無数にちりばめられた青くさい無数の塊、想像したくもないが、間違えようもない。キュウリである。こんな栄養のない青くさいだけの代物を、何故我慢して食わねばならぬのか。考えただけで涙が滲む。
しかし、食卓の向かいで微笑む愛妻の目は、完食するまで一歩も引かない、その決意が漲っていた。
「こりゃあ、死ぬな」
思わず辞世の句でも詠もうとしたが、ふと、あることを思い出したのは僥倖だった。
冷蔵庫にトマトがあったじゃないか。
そこに考えが至ると、急に生気が戻ってきた。やれる、まだ望みはある。
「トマトも食べていいかな」
「だめよ、それは明日ミネストローネに使うんだから」
「いいじゃないか」
どうして、それを今晩作らないんだ?と言いたくなるが、機会と見れば絶対に逃さないのが本物のいくさ人である。
有無を言わさず、トマトを刻みキュウリへ添える。
これでいい。
トマトの酸味がキュウリの青くささを打ち消し、何とか平らげることができる。
……今夜も無事に終わった。
「御隣、空いてる?」
随分ぼうっとしていたらしい、急に周りの音が降ってきて、僕は少し飛びあがった。
声のした方を見るときに、長い間同じ姿勢だったせいか、首が音を立てて回った。
視界に飛び込んできた目に鮮やかな、真っ赤なワンピースの少女が、ふわりと陽だまりのような笑顔を浮かべる。
「どうぞ。あまり良いところではないけれど。」
ちょっとぶっきらぼうに言ってみる。
彼女はやっぱり暖かい微笑みを顔に灯して、ふわっと音がしそうに柔らかい動きで横に座った。
「有難う。素敵なところだと思うわ。」
銀色でできた、小さな部屋。
真っ赤な彼女と、白の僕。
暗い壁はほんのちょっとだけ、此方に光を返してくる。
他の人たちは皆壁に寄りかかって、喋っていたり、呆けていたり。
ちょっと狭い、そんなところ。
「ああ、此処はもう、御空は見えないのね。」
「残念ながら。あの滝を超えた者には、もう御空は見られないんだって。」
「そんなこと、ちびっこも言っていたわ。人に追いやられて、あまりお喋り出来なかったけれど。」
「僕らは、旅をしなければいけないからね。仕方ないよ、決まったことだもの。」
たわいもないお喋りが、楽しかった。
彼女はとても綺麗な顔立ちで、じっと見られると少し照れくさかった。
僕が笑いかけると彼女は、鼻の頭を赤くしてそっぽを向いた。
短い時間。
けれど、少しずつ暖かくなっていく部屋の中で。
僕らは幸せだった。
「今事務所出た。今日はあったかいもの食べたいなぁ。」
彼女からのメールを確認して、青年はエプロンのポケットに携帯をしまう。
メタルブルーのそれは、光を失いつつ淡い桃色の布地に吸い込まれていった。
ふっと息を短く吐くと、青年はまたおたまを手に取り、鍋に向かう。
鍋の中には、温かい赤色の、ミネストローネ。
湯気まで赤く染まりそうに真っ赤なスープを、青年はクツクツと煮込んでいた。
気分ものってきたので、鼻歌なんかを歌ってみる。
愛情、否、恋愛感情なのだろうか。
何にせよ、彼女への想いであるそれを、たっぷりと料理に注いでいる。
青年は、普通に良く居る好青年で、大手会社の広報部で働いている。
この若さなので、まだまだ慣れていないが、そこそこの給料は貰えている。
料理は母があまり料理上手でなかったため、小さい頃からよく手伝っていた。
中学にあがる頃には、自分で弁当を作ったりもした。
一人暮らしを始めてからは、料理が趣味のようなものだったので、毎日楽しくキッチンに立っている。
大学では、そこそこのキャンパスライフとやらを楽しみ、友人とカラオケに行ったり、食事をしたりと、人との関係にもさほど問題はない。
そんな、そこらへんにありふれている一般人だ。
そして彼は今、同居している女性の為に、料理しているところだったりするわけだ。
青年はスープを覗き込み、時計を確認した。
味見をしようと、小皿を棚から取り出す。
小皿に転がり込んだ赤いスープは、まだ熱そうに湯気をあげている。
溜息混じりにふー、と湯気をなびかせて、少しずつ冷ます。
舌に流し込んだミネストローネは、丁度良い酸味と塩味で、胡椒の香りが優しく後を追うように鼻をかすめていった。
完成したスープを青年は、幸せそうな表情で、二つの皿に均等になるように分ける。
「ただいま?!御飯できてる?」
「御帰り。ミネストローネ、冷めないうちに飲みな。」
「有難う、じゃ、いただきます!」
「今日A誌の取材受けたらさ、カメラマンさんが…って、また玉葱入ってる!」
(ああ、俺、幸せだな。)
「お邪魔しま?す」
俺は彼女の部屋に入った。
彼女は、いつも俺を迎えに出ては来てくれない。
ほかの人に見つかったら大変だからだ。
表札も人目につかないところに飾ってある。
彼女は、アイドルだ。
俺は、ただのファンに過ぎない。
その俺がなぜ彼女の家に出入りしているのか。
俺は、犯罪者である。
盗みを働いていた。
その時偶然この家に入り込んでしまったのである。
運の悪いことに、その日は家に彼女はいた。
あれから、俺達は交際している。
成り行きは伏せておく。
書いたりなんかすれば、俺はすぐに鬼ごっこ状態になるのは分かり切っているから。
とてもいい匂いがする。
暗い廊下を慎重に歩いていくと、沢山の料理が並んでいた。
「今日は腕によりをかけたんだから!」
彼女の声が聞こえる気がした。
今日は、彼女の葬式。
料理は、彼女の得意だったものばかりだ。
それは、彼らの長年の日常だった。
平日は、彼女がまるでお母さんのように料理をする。
それは栄養のバランスがよく考えられた、
生活のための料理である。
休日は、彼がちょっと時間をかけて凝った男の料理をする。
それはまるで、趣味や道楽の様な料理であり、
彼なりの愛情表現でもあった。
同棲を始めて数年、ちょっと難しい時期だと人は言う。
そんなある日、彼はちょっと気になるレシピを見つけた。
それは、“Idle Cooking: Recipe for Easy Jumbalaya (Jambalaya)”
(「アイドル料理:簡単ジャンバラヤのレシピ」)というものだ。
下記原文参照:
http://theidlelife.com/idle-cooking-recipe-for-easy-jumbalaya/
Idle Cooking (アイドル料理)の真髄とは、
要は調理器に材料を詰め込んで、六時間半、
只「何もせずに(idle)」料理が出来上がるのを待つというものだ。
或る日曜日、休日ならではの朝食と昼食を兼ねた様な
軽いフルーツで目覚めた彼は、「アイドル料理」を始めた。
ふと、昨日の夜のちょっとした言い合いを思い出す。
キッチンの窓から柔らかい春の陽光が差しこむ。
もうすぐ夏。
彼女は今年で28歳。
商社に勤める彼は、今年の秋からの海外駐在を言い渡されたところだ。
先輩達のキャリアを考えると、仕事上では大きなチャンス。
自分はまだ若く、未熟で、何よりも世界で自分を試してみたいと思う。
しかし、長年尽くしてくれたつもりの彼女は、
どうやら最近は結婚とやらに焦ってきている。
それが彼らの昨日の晩のすれ違いの原因。
彼は無心に、全ての材料を調理器に詰め込み始めた。
彼女はまだベッドで静かに寝息をたてている。
頬にはまだ少し、乾いた涙の跡が残っている。
彼は無心に、全ての荷物をトランクに詰め込み始めた。
六時間半後、スロークッキングのアイドル料理は出来上がっていることだろう。
二年後、君は待っていてくれるだろうか。