乃木坂(のぎざか)とは、狭義には東京都港区の乃木神社の前にある坂を指すが、広義にはその周辺を指す地域名をいう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%9D%82
乃木坂という住居表示はなく、その範囲について正確な定義はないが、概ね赤坂八・九丁目、南青山一丁目、六本木七丁目の一部、外苑東通りと赤坂通りの乃木坂陸橋交差点を中心に、北は山王病院、東は赤坂小前の交差点、西は乃木坂駅の西端、南は東京ミッドタウン西の交差点を結んだ四辺形の中とされ、この地域に乃木坂の名を冠した施設や建物が多く見られる。
東京駅から西南西に5Kmくらい
SME乃木坂ビル
東京都港区赤坂9-6-35
http://www.sme.co.jp/sme/corporate/smenogizaka.html
公式サイト
http://www.nogizaka46.com/top.html
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%9D%8246
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Yo ベストアンサー |
東京23区の坂というサイトの中に乃木坂が詳しく紹介されています。
乃木坂(のぎざか)・東京23区の坂
別 名: 幽霊坂、行合坂、なだれ坂、膝折坂
所在地: 港区赤坂8丁目11番と同9丁目5番/6番の間、都道413号
【この坂について】
港区赤坂8丁目11番と同9丁目5番/6番の間を東から西へ上り、外苑東通りが通る乃木坂陸橋の手前で南方へ折れ、カーブしながら外苑東通りに交わる坂道です。
坂の半ばの北側(赤坂8丁目11番)に乃木神社があります。かつてここには、乃木希典大将夫妻が住んでいましたが、明治天皇崩御に殉じて自刃した後、大正12年(1923年)に夫妻を祀る乃木神社がこの乃木邸があった地に創立されました。
乃木坂と命名される前から、この坂は、幽霊坂、行合坂、なだれ坂、膝折坂と呼ばれていました。岡崎清記『今昔東京の坂』は、これら名称の由来について、以下のとおり説明しています。
坂上で、竜土町(いまの六本木七丁目)へ行く道、すなわち外苑東通りに出会うことから行合坂と呼ばれた。
なだれ坂、膝折坂は、傾斜の急なこと、また傾斜が急でガクンと膝が折れるという意味で、この坂が急坂であったことを語っている。しかし、現在は、外苑東通りへカーブして上る道が坂になっているが、急坂というほどではない。
幽霊坂の暗さはいまはないが、『江戸切絵図』(近江屋版)を見ると、丹波山藩主谷播磨守中屋敷と鉄砲場(射撃訓練)に囲まれて「△ユキアヒサカ」とあり、外苑東通りを「リウドトイフ」としてある。人の気のない淋しい道であったことが分かる。
しかし、幽霊坂という懐しい名は、大正元年(千九一二)九月十九日、乃木将軍の葬儀と同時に廃され、乃木坂に改めたという。坂の北側に乃木神社がある。
石川悌二『江戸東京坂道事典』は、次の説明をしています。
赤坂八丁目と九丁目の境を東北に乃木神社社前へ下る坂で、『新撰東京名所図会』は「市兵衛町二丁目より箪笥町との間を下る坂あり、なだれ坂と称す。(中略)なだれの義は勾配強からずして斜に傾きたるを邦語なだれといへるより、蓋しその地勢上に得たる名・・・」と記し、『麻布区史』は「乃木神社の前の坂は旧称を行合坂といった。これは坂上で、青山から竜土町への道筋に行合う因る」とあり、旧赤坂区と旧青山区の境界にあたっていた。
横関栄一『江戸の坂 東京の坂』においては、「膝折坂」の項に次のとおり記述されています。
天正十八年八月十九日、徳川家康が青山常陸介忠成に、江戸の邸地を与えたときのことが、『御府内備考』巻之七十に出ている。それによると、「往古此辺に、御成之節、青山家に命ぜられ、老馬を以一円に乗廻すべし、其地を給はるべきのよし、命に依て青山家、即老馬に乗て一円に乗廻されしを給はるところの地なり、其馬此ところにて倒れ死する故、塚に築、上に八幡の宮を勧請有て、青山家より是を駒留八幡と称し、世俗破れ八幡といふは是なり」とある。ここで老馬が倒れたのは膝を折ったからで、それでこのところの坂を膝折坂と言ったのである。『江戸大名町案内』という写本には、「麻布竜土、ひざ折坂あり」と記している。嘉永七年正月の江戸切絵図『赤坂今井辺図』(近江屋版)は、竜土の行合坂の上、突き当たりに「八幡社」とある。これが竜土八幡、青山八幡、馬八幡、駒留八幡などと呼ばれた八幡社であった。したがって、ここの行合坂が、そのときの膝折坂なのである。この坂は、のちに坂下に妙福寺という寺と墓地があったので、幽霊坂とも呼ばれた。
戦前は乃木邸、乃木神社前の坂なので、乃木坂と命名されていた。