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自意識のありかについて
http://macchiro.tumblr.com/
こちらを見て昔ずっと思ってた疑問を思い出しました。
「ルパン三世 ルパンVS複製人間」で最初にルパンが殺され、それがオリジナルかクローン人間か悩むシーンがあります。
その時A:オリジナルとB:クローンがいて、客観的に区別できず、A,B共に自分がオリジナルだと思っていても、主観的には世界でただ一人、オリジナルにはどちらが本物が区別できるはずだと思いました。

つまり、何か手術を受けて、A(自分),B(コピー)の目の前にA,Bの札があったとき、自分が目を覚ました時に、Aの札が見えるはずだと思いました。

その時、疑問に思ったのは、もし、脳も半分づつコピーと交換した場合は自分が目が覚めた時、A,Bどちらの札が見えるのだろうかということでした。

もし100%脳も交換したのであれば、自分が目を覚ました時、Bの札が見えるでしょうが、もし半分交換した場合、あるいは、1%から100%まで少しづつ交換した場合、いったいどの場合に自分が目を覚ました時にBの札が見えるのだろうかというのが昔からの疑問です。

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●質問者: garyo
●カテゴリ:科学・統計資料
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 5/5件

▽最新の回答へ

1 ● きょくせん
●100ポイント

この場合、脳が記憶/精神の座という解釈をなさっておられるのでしょうけれども、もし記憶/精神が全て同等のコピーが作成できたとした場合、それはその瞬間においてはオリジナルと区別がつかないのではないでしょうか。

つまり、作成されたのはAとBではなく、AとA’という事になります。ただし、それが完成した次の瞬間、A’はAとは時間軸において異なるものとなり、Bとなる事でしょう。これは作成時点からの経過時間が長ければ長いほどその差異は顕著となり、その解離は大きくなっていくと思います。

ですので、コピー製造直後はオリジナルとコピーは区別できず、どちらも自分はAであるという意識を持つと思うのですが、時間経過後はAとBとなり、その後脳交換(記憶交換とした方が個人的にはすんなり来るのですが)を行った場合、自分がAないしBであるという確固とした判断は出来なくなるのではないか……オリジナルとしてのAという基準が脳交換によって失われる訳で、どちらもがオリジナルであると主張する事は出来なくなるのではないか、と思います。……もちろんそのあたりは被験者(?)の性格にもよるとは思うのですが、自分がオリジナルであると認識する事により固執する場合はその互いがオリジナルであるという言い張るでしょうし、逆にオリジナルである事に固執しない性格であればどうでもいいとするのではないでしょうか? ……どうもこのあたりは哲学とか宗教の問題?その被験者が何を信ずるか?によってくる気もするんですよねぇ。

ちょいとお求めの回答とは程遠い気はするのですが、以上より、オリジナルもコピーも自分がオリジナルであるのだと確固たる自信を持ってそれを主張する事は出来ない、と私は考えます。


garyoさんのコメント
ありがとうございます。 元々の疑問は昔SFで良くあった、人間の頭脳を全てコンピューターに移し、それで永遠の生命を得るとかいう話で、 >この場合、脳が記憶/精神の座という解釈をなさっておられるのでしょうけれども、もし記憶/精神が全て同等のコピーが作成できたとした場合、それはその瞬間においてはオリジナルと区別がつかないのではないでしょうか。 いくら本体と同じものができてもそれは本人ではなく他人なのだから、本人が死んでしまえばおしまいではないかという疑問(つっこみ)です。 「もし記憶/精神が全て同等のコピーが作成できたとした場合、それはその瞬間においてはオリジナルと区別がつかないのではないでしょうか。」客観的には全く区別がつかなくても、主観的にはただ一人どちらがオリジナルかを知っている人がいると思うのです。 例えば、ある日、きょくせんさんが眠っている時に全く同一のコピーを作られて目が覚めたときに自分と全く同じコピーが横にいたとします。 そしてそのコピーが殺されたとしても、きょくせんさんは自分が死んだとは思いませんよね。逆にコピーが生きて自分が殺された場合、自分は死んだと感じ、生きているとは思いませんよね。 以下の「恐怖のどこでもドア」を読んで頂ければ少し伝わるかも知れません。 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/sikou2.html どこでもドアでオリジナルはデータを取られた後、ドロドロに溶かされて殺され、転送先に全く同じものが複製される。 客観的には移動したように見えるけれでも、主観的には殺されて別人になっているわけです。 脳を少しずつ交換していくのは、そのコピーに意識を移すにはどうすればいいかという思考実験ですが、もし機械で人間のコピーができ、脳を少しずつ交換していけば、自分はどこで機械の体になったと感じるのかと、100%交換すれば元の脳も100%再現されるわけで、それはまた元の自分に戻るのではないかという疑問です。

きょくせんさんのコメント
やっぱり自分としては自分がオリジナルなのか否かの区別はつけられそうにないですね。というか、これはやっぱり自分の性格・考え方にも由来しそうですが。 これは『恐怖のどこでもドア』におけるドラえもんの論がすんなり正しいと思える自分がいるわけで、当初の論もそんな感覚で書いているわけです。 自己というものは、それ自体自分で見ることが出来るものではなく、優位の観察者というか、自分が何か行動を起こした結果他者から与えられる反応で認識できるものであり、他者が無ければ私は自己というものを確立する事はできないのではないか、と考えています。……例えば、もちろんそんな環境が存在するはずはないのですが、オギャっと生まれてその周囲に何も無ければ……何も無くても私というものが存続可能であるならば、私は私とその外界を区別する事が出来なくなるのではないか、完全独立栄養の生命体はそこに自らの意思というものを持ちえないのではないか、と思うのです。ここで言う完全独立とは外界から如何なるエネルギー(太陽光や栄養分、養分と言ったそんなもの)を得なくても生きていける状況をさすのですが、たぶんそれは生命体という存在ですらないのではないかとも思えます。 閑話休題。 で、まぁ。自分から観察できるそれは自己ではないという理屈はgaryo産後指摘の通りだと思いますし、私もそう思います。ただ、オリジナルであってもコピーであっても、外界を持つそれらは自己は自己であると考える筈ですし、それまでに蓄積しているデータより、例えば私と私のコピーはそれぞれが自分はオリジナルであると考えるはずです。で、ここで例えば自分にあるはずの傷痕がないという事由が存在すればそれは私はオリジナルではないと認識できるかとは思うのですが、それさえも同じものであればもはや私達は私がオリジナルであるか否かを判別することはできないと考えます。それこそ誰かにお前がコピーだと言われない限りは。

garyoさんのコメント
まず、これは主観を扱う問題ですので、客観を扱う科学では扱いかねる問題だと考えています。 記憶を含め同一のコピーが存在し、客観的には全く区別ができない場合にどちらがオリジナルかを「客観的」に判断することは可能か?という質問ではありません。客観的には区別がつかない場合を想定しています。そのため、客観的には「私達は私がオリジナルであるか否かを判別することはできないと考えます」というのは正しいと思います。 ただし、客観的でなく主観であれば、オリジナルの視点はコピーの視点に変わることはできません。オリジナルが見ている風景はあくまでオリジナルから見た視点であり、そのことから主観的には「オリジナルにはどちらがオリジナルか区別できる」はずです。コピーが死んでもオリジナルは死にません。 客観的には区別はつかないが、主観では区別がつく(世界中で本人だけで、客観的・科学的に証明することはできない)という所が面白いと思っています。 確かにコメントの最初に「他者が無ければ私は自己というものを確立する事はできないのではないか、と考えています。」書かれているように自意識(自我)は存在するのかという命題でもあるのですが、私には自分以外に観測するものが無くても自意識(自我)は確かに存在し、疑うことの無いように思えます。

garyoさんのコメント
>「『恐怖のどこでもドア』におけるドラえもんの論がすんなり正しい」 客観的には全く同じだから、同一人物だよといわれても主観では到底納得できないというのが、私の一番の疑問です。

きょくせんさんのコメント
どこでもドアの例だと『魂の座』と言う問題になりましょうか。あそこでは『こころ』とされていますが、言っている意味は『魂』ですね。 http://www.kao.co.jp/laurier/karada/01/03.html 機械論という考え方はご存知でしょうか? そもそもそれを唱えたデカルトは魂というものの存在を人間にのみ認めていた……キリスト教的ですよねぇ……訳ですが、現在の機械論では人間だろうがなんだろうが、魂の実在というものを怪しんでいます。私もその立場をとっておりますので、どうもgaryoさんの立場とはまずそこから食い違っている気がしてなりません。ku__ra__geさんはいかがでしょう? 考え方としては現代の機械論的な概念でお話なさっておられるのではないでしょうか? 主観……つまり、我思う我ですが……はその個体に備わったものであり、目の前にいるクローンかオリジナルか判別できないもう1人の自分というものは当然別の個体(主体)でありますから、それが私であるとは私も認識しえません。で、ここでいうオリジナルとはクローンの母体となった我でありますから、完全クローンである彼は我と同一の存在といえるのですけれども、それは決して我ではなく、彼ですね。ただ、我と彼のどちらもその母体であった我と同一である場合、我も彼もその我であると認識するかと思います。我は我であるのですが、彼も我と思うはずです。 あぁ、なるほど、そういう意味ですね。 つまりこんな感じです。 クローン母体である我=A0 クローンの母体とされた我=A1 クローンである我=A2 garyoさんはこのA0とA1は同一のものであるとし、A1は自分がA2ではないと自認しえるのか否か、という辺りをお考えなのでしょう。つまり、私が言うところのA0とA1という区別が存在しない。だからこそAとBという二分化が可能なのだと考えます。 対して私はクローンの母体である我とクローンの母体となった我は同一ではあるが違う存在であると認識しますからそれぞれにA0、A1という符号を与えます。で、完全クローンである、garyoさんの言う所のBはA0の派生体であるからA2であり、それはクローンの母体となった我と同等の存在であると考えるのです。初頭、時間軸によってそれが変異してBとなる、と言ったのがこのあたりです。私はクローン母体となった我A1、クローンである我A2に差異を認めませんので……というか、A0とA1に同一性を認めませんのでこういう理屈になるのです。同一ではないそれというのが時間です。A0にとってA1は未来の自分でありますし、逆も真です。ただし、その時点においてはA2もA0にとっての未来であります。ただし、A1とA2は独立した我でありますから、それは後にA1とBになる可能性があると考えるのです。何せ同じものを見てもその見え方というか、A1とA2が同じものを見ることは出来ませんからね。 このあたりは哲学の問題というよりはSFの平行宇宙論であるように思えます。 さてさて、話がどっか変な方向に飛んでいきましたが、どうもgaryoさんおいう『自意識』は科学哲学でいう所の『魂』であるように思えます。私は仏教徒というか、浄土真宗西本願寺派の信徒ですけれども、生物学の徒でもありまして、『魂』という実在についてはどうもあいまいな所しか持ち合わせていません。それこそ死んだあとにならな知覚できんじゃんかいのぉ、と思っています。が、他者の『魂』についてまで否定するものでもないんです。このあたり自分でもどうかしていると思わなくもないのですけれどもね。……仏教概念で言えばどうも無に還る……宇宙との同一化/輪廻転生からの解脱というのはそういう事ではないか? とも思えますし、そもそも輪廻転生というものがこの次元における物質循環をさすのではないか、とも考えていますもんで、このあたりの私の頭の中は複雑骨折しているようなものなのですけれども、まぁ、えぇ、余談ですね! で、冒頭で陳べました現代の『機械論』において、魂?自意識というものは脳に存在する記憶や判断と言ったすったもんだを指すように思えます。一昔前なら心臓にあったという事になり、これが心停止≒死亡という概念になってたんですけれども、この辺りを考え詰めていきますと、『こころ』というものは外/内部から始終送り込まれてくる情報・データに対する『我』の反応(思考やら行動、感情も含む)であると考えられ、で、あるならばそれを規定するものは外部観測者であると考えればドラえもんの論が納得できる訳です。 『我思うゆえに我あり』はまさしく正しく見えますが、我が思うには我が我であるという認識を持ちえなければならないわけで、ならば我には彼が必要となります。我は鏡を見なければ我を見出せずです。また、大脳というものは自問自答という行動が可能ですけれども、それを行うには、少なくとも現時点の私には『言語』が必要です。そして過去に得た知識や今目の前にあるデータを参照しようとしますので、そういう意味においては『我思う?』よりも『初めに言葉ありき』の方がしっくり来ます。 ともかくも、ここでのすれ違いは『自我』≒『魂』の実在を信じるか否かという話になってきそうですね。

garyoさんのコメント
>garyoさんおいう『自意識』は科学哲学でいう所の『魂』であるように思えます 私も浄土真宗ですが、『魂』の有無については少し手にあまる議論です。 どちらかというとプログラマですので、「自意識を持つプログラムは可能か?」とか「そもそも自意識とは何ぞや」という方に興味があります。 > クローン母体である我=A0 > クローンの母体とされた我=A1 > クローンである我=A2 > garyoさんはこのA0とA1は同一のものであるとし、A1は自分がA2ではな >いと自認しえるのか否か、という辺りをお考えなのでしょう。つまり、私が >言うところのA0とA1という区別が存在しない。だからこそAとBという二 >分化が可能なのだと考えます そうですね。主観的に考えてA0とA1は同一に思える。しかしそれは本当だろうかというのが、質問の真意でもあります。 しかしA0とA1は同一ではないとすると、これまで生きてきた自分というものは何なのか、寝る前の自分と目覚めた時の自分は同じ自分なのかとか、「そもそも自分は存在するのか?」というぞっとする疑問が出て、それが主観に反して納得できないため疑問なのです。

きょくせんさんのコメント
なるほど、A0とA1の同一性についての疑問となりますか。そうなれば最初のあん○んまんの話に戻るんですね。 私、アレはどうもしっくりこないのですよね。多分garyoさんは自分と言うものが静的(static)なものと捉えておられるんだろうと思うのですが、私は動的(dynamic)なものだと捉えています。もちろん、この動的なものの中にも静的な要素を含んだものがある訳ですが、そのあたりも結局は動的なものなんだろうな、と。 一時期、福岡伸一氏の『生物と無生物のあいだ』がブームになりました。私はお恥かしながら本書未読なのですけれども、そこで書かれているのは『動的平衡』と言うものだったそうです。……当該書を読んでないのは、私にとって『生物と無生物の間』と言う書物は岡田節人先生のそれで、だからこそその本の題名に違和感を覚えているというものです。この辺りは静的(保守的)ですね! と。動的平衡とは、私自身は、ミクロ的には揺れ動いているのだけれども、マクロ的にはフラットに見える……静的に見える状態だと解釈しております。これは福岡氏の見解と違うかも知れませんけれども、私にとってのそれはこうなのです。もちろんこの先その解釈を改める可能性は多分に含んでおりますが。 自分は動的なものだといった意味、なんとなくつかんでいただけたでしょうか。↑の文章を読んでいただくとわかるかなぁ、とも思うのですが、『動的平衡』という言葉の解釈をしている私は『我』なのですね。それこそが『我』。ただしこの『我』はこの先変わっていく可能性を多分に含んでいる。つまり、この『我』は固定された、静的な存在ではなくて動的なものであり、短時間ではその我は静的に見えるのですが、長期間で見た場合、『我』は大きく変化している可能性がある。『動的平衡』の定義とは真逆の事を言っていますが、そんな感じかなぁ、と。ともあれ、『我』は時間(経験)を経て変わっていく。だけれどもこの『我』は現時点においては自分なりに言葉を定義している。私の言う『自分』とはまさにここで、そういう意味において『我思うゆえに我あり』の『我』なのです。 ですので、時間的にぶつ切りにした『我』は異なっていて当然で、あ○ぱんまんの戯画(ここではそう表現させていただきましょう)の指摘する所はまったく持って当然。ド○えもんの評もすんなり受け入れることが出来るのです。 運がいいのか悪いのか、私は日本に生を受け、その文化(やものの考え方)にどっぷり首まで浸かっています。ですので、万物と言うものは流転する、行く川の流れは?という感覚が馴染むのですね。諸行無常でもいいですけれども。 話が行きつ戻りつしますが、私は静的な『自分』の存在を信じません。『我』とはつまりモノを捉える思考主体としての『自分』であり、それは基本的に一定固定のように見えますが、実際は大きく揺れ動いています。ですので、次の瞬間、例えば私が福岡氏の見解を読んでそれに影響されたとしても、それはやっぱり『自分』であり、自分ではないと言う見解を持ちません。……そういう意味においては、『我』とは我が肉体にという私にとっては唯一のハードウェア宿る連続思考体(これはソフトウェアですね)と言う風にいえるかもしれません。ですので、その連続した存在である自分であろうと思われるどこでもドアの例であればくぐる前の自分とくぐった後の自分。今回のクローンであれば、A0とA1は同一の『自分』であると考えます。対して複製されたハードウェアに載るもう一人の『自分』というソフトウェアは自分とは別の存在であり、別個のハードウェアにある以上、それは最初同一のものであったとしてもそれが二つになった時点で別のもの、時間を経ればその解離はますます激しくなってBとなると考えるのです。……ソフトとハードは分離できないんじゃないか? というお話はここでは勘弁してくださいね。私と言う存在はまさしく分離不可能なものでありますけれども、その解釈をやろうとするとそれこそえらい時間がかかりそうですし。 以上、またつらつらと書きましたが、私とgaryoさんの立場の違いはこのあたりなのかなぁ、と思いました。『自分とは変わっていくものである』という認識を持つ私には、A0とA1の区別はできませんし、それが同一の視点において存在するならば、同じものであると考えます。ですが、別視点を有した私は既に私ではなく、彼となっている。このあたりの私の考え方は了解いただけましたでしょうか? 後もひとつ。どこでもドアの問題は、アメリカなんかだと転送問題という話で議論がなされているように思えます。 http://ameblo.jp/anti-capitalism/entry-10417589497.html これっすね。このあたりは哲学的議論の一命題として扱われているとは思うのですが、やっぱ諸説紛々としているように認識しています。……そういう意味では新井素子さんの『今はもういないあたしへ…』はgaryoさんの立場を取ったお話といえるんだろうな、と思うんですけれどもね。

2 ● suppadv
●100ポイント

>A,B共に自分がオリジナルだと思っていても、主観的には世界でただ一人、オリジナルにはどちらが本物が区別できるはずだと思いました。


記憶が完全にクローンされていれば、どちらも自分がクローンを作って記憶を移したという記憶を持っていて且つ自分がオリジナルであるという考えしかもてないはずですので、相手がクローンであるとの認識になると考えられます。
そのため、オリジナルとクローンのそれぞれの認識のためには、クローンの方に本来ないはずのほくろをつけるなどして何らかの方策が必要になると思います。

また、記憶のコピーが100%行われない場合には、記憶の欠けているほうがクローンであるとの認識になりますので、0.1%でも欠けていれば、お互いどちらがクローンなのか認識が可能になります。


garyoさんのコメント
ありがとうございます。 suppadvさんが眠っている内に記憶も含めた100%コピーが作られて、客観的にはどちらがどちらかわからない状態だとします。 そしてコピーを日本に、suppadvさんをアメリカにつれていって目を覚まさせたとします。 その時にsuppadvさんの目に映るのはアメリカの景色であって日本ではないですよね。 この時、脳も半分ずつ交換した場合、suppadvさんが目覚めた時に自分が日本とアメリカのどちらにいると認識するのだろうかという疑問です。 日本とアメリカに同時に存在すると認識することはできませんから、どちらか一方だと思います。 あるいは脳の極1部を交換した場合はおそらく目が覚めてsuppadvさんは自分がアメリカにいると認識するでしょう。 逆に100%交換すればsuppadvさんは目が覚めて自分が日本にいることを認識するでしょう。 では極1部から100%までのどこまでの交換でsuppadvさんの目覚めた時の国が変わるのだろうかというのが疑問です。

3 ● グラ娘。
●100ポイント

no1のきょくせんさんの考えとかぶってるかも知れませんが、長くて流し読みしかしてないので。

Aを本体、Bをクローンとします。
で、Aはアメリカで目覚める。Bは日本で目覚める。
ここまでは、なんの問題もありません。

で、脳の入れ替えた場合なのですけど、そういうことをすると主観自体が変化して、
脳の入れ替えを行った『A』は『A’』、『B』は『B’』という存在になると思うのです。

なので、アメリカで目覚めたのはA’の意識(主観)であって、それは既にBと混じりあい、
本来のAの主観は、もうどこにも存在していないというのが、私の考えです。

ほんの一部分だけ入れ替えた場合は、A’と言えども、限りなくAに近い存在なので
しょうけど、やはり、Aとは別であるはずで、記憶もコピーできるのなら、
脳の移植をした段階でオリジナルが存在しなくなるということにならないでしょうか?


そもそも、やっぱり
『記憶/精神が全て同等のコピーが作成できたとした場合』は、オリジナルもコピーも
それぞれ自分がオリジナルなのかコピーなのか判断できなくなっていると思います。
で、オリジナルであることを願い、コピーである可能性に恐怖するような状況。

私が、そういった状況に陥って、となりでもう一人の自分が殺されたなら、
自分こそがオリジナルであってくれと願い、それを信じようとするでしょうけど、
結局、自分がコピーである可能性も捨てきれずに、思い悩みつつ、
一人しか生き残らなかったのなら、残ったほうが本当の自分として生きたら何も
問題ないじゃないかって考えて割り切るような気がします。


garyoさんのコメント
ありがとうございます。 >『記憶/精神が全て同等のコピーが作成できたとした場合』は、オリジナルもコピーも >それぞれ自分がオリジナルなのかコピーなのか判断できなくなっていると思います。 >で、オリジナルであることを願い、コピーである可能性に恐怖するような状況。 下のコメントでも書きましたが、この場合、オリジナルにコピーのことを「知らせず」実験を行うことが可能です。 グラ娘。さんの100%コピーを作り、その事をグラ娘。さんに知らせず、グラ娘。さんを眠らせ、コピーを日本に、グラ娘。さんをアメリカに連れて行って目覚めさせたとき、グラ娘。さんは起きて自分がアメリカにいるということに何の疑問も抱かないでしょう。 そしてグラ娘。さんに何も知らせず、眠らせて少しずつ脳の移植をしていった場合、どこまで交換した時にグラ娘。さんは自分が目覚めた時日本にいると感じるかという疑問です。 >脳の移植をした段階でオリジナルが存在しなくなるということにならないでしょうか? そのあたりは何とも言えません。自意識が生じるのがどこにあるのか(あるいは自意識など無いのか)という疑問ですから。

グラ娘。さんのコメント
そうでした。自意識のありかですね。 それについては、その脳が機能することによって生み出されるものだと思います。 今はまだ、意識と呼べるようなものをもった人工知能はないですが、それが出来たとして。 全く同じ人工知能のシステムを複数作ることが可能。 で、何%ずつか入れ替えたところでそれぞれの人工知能の働き=自意識って変化しない ものだと思います。 脳も一緒で、全く同じものと入れ替えていくのであれば、その脳が活動して自意識を 生み出すので、仮に100%入れ替えたとして、そこには意識がある。 ただ、全部入れ替えたらコピー側の意識に入れ替わり、一部入れ替えたら、 ふたつが混じりあった意識になるって感じで。でも、同じ構成であれば生み出される 意識には差が無い。 自意識なんてものは無い、幻想、脳の活動の結果にすぎないというのが、私の意見に 一番近い着地点かもしれません。

garyoさんのコメント
>自意識なんてものは無い、幻想、脳の活動の結果にすぎないというのが、私の意見に >一番近い着地点かもしれません。 理性的に「それはありえるかも」と思いつつ 感情(主観)的に認められない(信じられない)という考えです。 「自意識なんてものは無い」と書くのは簡単ですが、グラ娘。さんが今見ているグラ娘。さん自身が実は存在しないということに納得がいきますか?

グラ娘。さんのコメント
納得いくかいかないかでいくと、納得できるほうだと思います。 脳(思考とか)の仕組みが科学的に解明されたり、人間程度の人工知能が開発されて その仕組みが明らかになれば、ああそうだったんだと。 ぼんやりの知識ですが、結局、記憶と思考パターン(思考の経路とかの優先順位)から 機械的にわたしの考えが生まれているんだろうなと考えています。 まあ、少々SFチックになりますが、未知の粒子なんかが存在してて、たまたま人間の脳がそれに、アクセスできていて、他の動物よりも高度な知性が得られてたりしたら面白いなとかも考えたりしますけど。

4 ● pretaroe
●100ポイント

区別できない場合は、どちらもオリジナル

コピーというのが厳密にコピーなら
区別つかないので、半分交換してもしなくても同じですよ。

チョコ6個入りの物を
コピーして
複製チョコ6個を作りました。

その内半分の3個ずつを交換しました。
別に半分でなくて1個の交換でも同じ。

結局、この2つは同じ。

ただし、記憶が違うとか、細胞年齢が違うとか
違いがあれば、何らかの区別が可能。


自意識については、あとから書き換えることが可能なので
コピーの方にお前はオリジナルだという記憶を書き換えるか、後から洗脳するとか。
オリジナルの方に、お前はコピーだと記憶を書き換えるか、後から洗脳する。

でも、多くの人の認識は、その記憶が書き換わったとしても
もともとの属性であるはずだとなります。


自意識はありますが
相対的にしか認識できない物であると思うので
己自信で区別がつかないことと自意識が存在するかどうかは別の話かと。


garyoさんのコメント
ありがとうございます。 pretaroeさんのコピーを作り、 pretaroeさんを洗脳して、自分はpretaroeさんのコピーだと思い込ませて、殺したら、pretaroeさんは死んでいないことになるのでしょうか?

pretaroeさんのコメント
オリジナルとコピーの違いが その1点だけなら、死んでいないことになりますね。 それは他者から見た場合は、死亡していないと言うことです。 自意識は当然、コピーとオリジナル、それぞれにあります。 たぶん、意識の継続とかの話だと思いますが、 量子力学の観測問題のエヴェレットの多世界解釈のような物だとおもわれますが・・。

garyoさんのコメント
平行宇宙に複数の自分がいた場合、どの自分が本当の自分かという点では、ある意味似ていますが、平行宇宙も出てこないですし、もっと単純な、恐らく物理的というより情報系の問題ではないかと思います。 確かめようが無いという点では同じですが。

5 ● GM91
●100ポイント

Aを記憶まで完璧にコピーしてBを作った、
年齢も後天的な身体的特徴(やけどの跡とか)も全て同一。
という前提で述べます。

一部始終を知ってる第三者からすれば(シャッフルするまでは)
A:オリジナル
B:コピー
という認識はできるでしょうが、
当人たちからすれば、AB共に「俺がオリジナル、相手がコピー」という認識になる筈です。

あるいは、
「俺は俺、よく似たあいつは誰かしらねえ」
と解釈するかもしれませんが。

ポイントは、
コピーが誕生した瞬間までの記憶を全く時間差なしに再現できたとしても、その後意識を共有できない限りはあくまで「よく似た双子」に過ぎなくなると考えます。
その瞬間から別人(別人格というべきか)。

そうなると、オリジナル/コピーという認識については、当人達にも思い込むことはできても、知覚することはできないでしょうし。

コピー元、と言う意味での「オリジナル」は存在するだけで、最早意味をなさない。
更に、脳まできれいに分割しちゃえば、第三者視点での「オリジナル」もだんだん薄まっていくそういう感じでしょうか。


garyoさんのコメント
ありがとうございます。 >当人たちからすれば、AB共に「俺がオリジナル、相手がコピー」という認識になる筈です。 この問題に関しては、オリジナル=自分(GM91さん)として考えてみてもらいたいのです きょくせんさんがあげられていた例で >後もひとつ。どこでもドアの問題は、アメリカなんかだと転送問題という話 >で議論がなされているように思えます。 >http://ameblo.jp/anti-capitalism/entry-10417589497.html このリンク先で >簡単にまとめると、地上のAさんをエンタープライズに転送し、再合成され >たA’さんがいる。この際、地上のAさんもそのまま残ってしまったら、 >いったいどっちが本物なのか? (中略) >別の場所で自分が生き続けるとして、この「己」は死んでいく恐怖から解放されうるのだろうか? GM91さんをコピーして、全く同じコピーがあるから良いよねと言ってGM91さんを殺した時、GM91さんは殺されたことになるのか。それともならないのか。 オリジナルがgaryoの場合は、私はコピーがあっても殺されるのは真っ平ごめんで、コピーが殺されることとオリジナル(garyo)が殺されることは全く違うと思っています。 客観的にはどちらが死んでも区別がつかなくても、本人のgaryoにとっては世界が終わるほどの大問題です。 というのがなぜか回答してくださる方に伝わらないようで、garyo本人も不思議に思っています。

GM91さんのコメント
補足します。 区別がつかないだけで、生まれてしまえば二人とも別の人格です。ただの双子です。 故に、コピーあるから殺されてもいいや、という発想にはなりえません。 ※「兄弟、俺の屍を越えてゆけッ!」とは思うかもしれないですけど。 「別の場所で自分が生き続けるとして、この「己」は死んでいく恐怖から解放されうるか?」 この問いへの私の答えは 「解放されない。意識を共有化できればあるいは・・・」ですね。

garyoさんのコメント
ありがとうございます。 >区別がつかないだけで、生まれてしまえば二人とも別の人格です。ただの双子です。 >故に、コピーあるから殺されてもいいや、という発想にはなりえません。 私も同じ意見です。まず、これが私の「第一前提」です。 その上で、「自分とは異なる他人に自分の意識を移すことはできるか?」 というのが「第二の疑問」になります。 コピーと自分(GM91さん)の脳を交換した場合、今度はコピーの方がGM91さんになるのでしょうか。GM91さんは手術後に目覚めた後、自分はコピーの体にいる自分(GM91さん)と思うでしょうか? つまり、GM91さんのコピーを作り、コピーとGM91さんの脳を交換します。 その後で、コピーを殺します。 この時GM91さんはGM91さん自身は生きていると思うでしょうか?それともGM91さんは死んでしまったのでしょうか? コピーが、例えば機械の体で、永遠の生命を持っていたりした場合、その体に自分の意識を移すことは可能かというのが、第二の疑問になります。

GM91さんのコメント
GM91をコピーして、GM92を作った。そしてGM91と92の脳を入れ替えた。 とすれば、GM92の体を持つ方が「私(殺されたくない方)」です。 Q:自分がコピーの体にいるかどうか? A:肉体のコピーが完璧なら認識できない。 Q:脳交換後にGM91ボディを殺すと? A:死ぬのはGM92の人格。GM91の人格はGM92ボディで維持されている。 Q:コピーが、例えば機械の体で? A:脳が全ての意識を司るのであれば、可能。でも脳が生ならそのうち劣化する。

garyoさんのコメント
ありがとうございます。 >GM91をコピーして、GM92を作った。そしてGM91と92の脳を入れ替えた。 >とすれば、GM92の体を持つ方が「私(殺されたくない方)」です。 私も同じ意見です。これが私の「第二前提」になります。 その上で「第三の疑問」として、 じゃあ、半分だけ脳を移植したら、どっちが自分になるんだ? というのが今回の質問の本当の問いかけです。 GM91をコピーして、GM92を作った。そしてGM91と92の脳を「半分づつ」入れ替えた。 この時、「私(殺されたくない方)」はGM91とGM92のどちらでしょうか?

GM91さんのコメント
そうなると、オリジナルとコピーというよりも、「自我を司るのはいったいどの部分か?」という議論になってしまうような気がするですよね。 1)garyoさんの自我はGM91の中にはない 2)garyoさんの自我はgaryoさんののーみその中に・・・多分ある。 3)garyoさんの自我はgaryoさんののーみそのどこにある?むずかしい。 のーみそを2つに割って「自我」がある方が私、かな。

garyoさんのコメント
ありがとうございます。 >そうなると、オリジナルとコピーというよりも、「自我を司るのはいったいどの部分か?」と >いう議論になってしまうような気がするですよね。 初めて私の疑問を他の方に理解して頂いた気がして嬉しいです(;_;) >のーみそを2つに割って「自我」がある方が私、かな。 恐らく、自分で実験してみないと結果がわからないし、結果も世界中で自分にしか分からないと思います。 実験しても結果が誰にも分からない(本人を除いて)というのがパラドックス的で不思議です。
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