東ドイツの政府広報官の西側への移動の誤報道が原因
ベルリンの壁が崩壊したホントの理由
http://www.cafeblo.com/mt/archives/fromeditor/2009/11/berlinwall.html
1989年の11月9日、東ドイツの政府広報官が記者会見で、政府が東ドイツ国民が西側に行くことについて許可を出していく方針であると発表しました。
記者
「その方針はいつから実施されるのでしょうか?」
広報官
「ええと(手もとの資料を見る)……とくに何時とはないので、即刻だと思います」
ニュースは号外としてすぐに報道され、それを聞いた数百万の東ベルリン市民が壁に殺到。国境警備兵は以前なら壁を越えようとした人を射殺していましたが、あまりの人数に圧倒されてしまったとか。
じつはこのとき、広報官が持っていた資料の裏には続きがあって、「これは今後時期を決めて実施する」と書いてあったのだとか! ハンガリー経由などで西に脱出する市民が増え続けていた中、政府としても対応する方針だけ発表してその場凌ぎをするつもりが、とんでもない結果を招いてしまったのだそうです。
何も聞いていないと抵抗する国境警備兵に、「もうあっちの壁は開いてみんな行き来してるわよ! こっちも通して頂戴」と中年の女性(←勝手に大阪のおばちゃんを想像)があることないことを言って通行を迫ったなんて場面もあったそうです。
これらが参考になると思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1420567014
http://www.mauer.jp/mauer0/mauer0y.html
http://deutschland-ostundwest.blogspot.jp/2011/12/8.html
ちなみにこの内容の質問がやらせというダイアリーを発見しました。
http://d.hatena.ne.jp/navi-area26-10/20090421/1240321810
直接の原因は、上記の人の書いた通りですが、歴史的およびマクロ的な変動は、1989年夏までに遡れるそうです。
もともと、不法に東ドイツから西ドイツに行く方法がありました。それは、東ドイツからハンガリーへ行き、オーストリアへ逃れ、西ドイツに行くことができたらしいです。ハンガリー国内では、8月19日の土曜日に、「汎ヨーロッパ・ピクニック」というイベントを計画していて、これはハンガリーと東ドイツの鉄条網を取り除く運動でした。実際、8月19日だけで東ドイツの900人が越境し東ドイツに渡ったとされています。
このように、壁が壊される前からすでに壁の意味を失っていたという歴史的なバックボーンを理解する必要性があります。
東ドイツ人がハンガリーに殺到しました。ハンガリー政府は越境について「不法行為」と一応は非難しましたが、越境者を逮捕したり射殺したりといった措置は取らず、黙認を続けました。東ドイツ市民は、ベルリンの壁や東西ドイツ国境を命の危険を冒して超える必要がなくなったのです。ハンガリー経由なら安全に出国できるのです。それは、東ドイツ政府にとって、ベルリンの壁を厳重に監視する意味が失われたのと同じことでした。
東西冷戦がなぜ終結したのかという観点で、考えたことをお話しします。
資本主義が自然資源を消費しつくして、失速したからではないでしょうか。1986年の世界人口50億人突破、1987年のブラックマンデーといった経済的閉塞状況がベルリンの壁崩壊の前提にありました。
この頃からすでに、東西のトップの政治家が対談をしきりに行い、中国が資本主義陣営にすりより、経済統一の動きがありました。
西側だけではもうやっていけなかったために、東西の壁をなくして、地球規模経済化(globalization)をする必要があったのではないでしょうか。
ベルリンの壁はあくまで象徴だったと思いますが、それまで東西冷戦によって経済的にも社会的にも交流や移動が許されなかったので、ヴィジュアル性のある、目に焼きつく大きな事件(イベント)を起こして、人々の意識を改革する必要があったのだと思います。
ベルリン市民がよってたかってハンマーやらつるはしで叩き壊した
本格的には東の政府がクレーンで吊ってもってたようだねん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81%E5%B4%A9%E5%A3%8A#.E5.A3.81.E3.81.A8.E5.9B.BD.E5.A2.83.E3.81.AE.E6.92.A4.E5.8E.BB
壁と国境の撤去
クレーンによって撤去されるベルリンの壁(1989年12月21日)。
数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。