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二十代前半…ではあるのですが、10代後半からずっと悩んでいることがあります。
自責観念についてです。
先ほどの人付き合いとかとも関連はあるのですが…自分がかかわることは当然のこと、かかわりがあったこと全てで何か問題が発生した時に「自分が全て悪い」という考えに陥ってしまいます。
「私がいなければ物事は全て順調に進んだのに…」とか、「こんな自分が存在してていいのか?自分は何もできていないのに…」とか。そういった考えに陥ってしまうことが多々あります。
実際は何もしていないわけではないのですが…この考えにとらわれて自殺まで考えてしまうことがあります。電車がホームに来るときに「今飛び込んだら楽になれるのかな…」とか、「楽に、痛みなく死ぬためにはどうすればいいかな?」とか…(実行には移せていませんが…)
ある意味では自責の念が行き過ぎただけなのかもしれませんが、どうすればこの自責の念を緩和する、あるいはなくすことができるのでしょうか?

●質問者: Yuricounselingroomfloor
●カテゴリ:人生相談
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

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1 ● 犬神工房

(1/2)デタラメに長文になってしまいましたが、悪しからず。

まずは、自責の念で苦しんでいるとお見受けします。何はともあれ、お疲れ様です。

第一に、自責の念によってで問題となる『物事』が解決しているか検証してみましょう。基本的には一ミリも解決していないはずです。

また、自責の念で『自分』がダメージを受けていないか検証してみましょう。お気づきのことかと存じますが、ダメージを本来より多めに食らっていることと思います。これは誰でもそうでしょう。

社会性ということを考えると、「自責の念」は「他人に迷惑をかけたくない、損害を与えたくない」ということと同一です。
また、逆に「自分は悪くない」という風になると、ときどき争い事になります。これはある程度は避けられませんが、イヤなものです。
よって、以下の『他人』『世間』については、『他人への迷惑』と『紛争解決』を交えて論じます。

「自分は悪くない」と言って紛争を起こして目の前の『他人』を巻き込むことで、他人に損害を与えうる。だから「そもそも紛争を自責の念によって禁じる」ということが道徳的であるかどうか?
「自分は与えて他人からは受けない、侵害されるがまま」という自己犠牲者がいると、「自己犠牲して利益をよこせ、侵害するな、だがこちらは何も与えないし、侵害する」という搾取者が出てきます。だってそうした方が当然得だから。
それで、「自分は与えて他人から受けない、侵害されるがまま」ということが道徳になったあかつきには、搾取者が総取りして、道徳を守っている他の自己犠牲者は一律ダメージを受けます。目の前の搾取者はともかく、広く他の自己犠牲者に損害を与えすぎます。
そもそもみんなが「紛争してでも侵害させないし搾取させない」ことを選んでいればこんなことにはならなかっただろうし、損害も小さかったでしょう。
だから、「紛争をしないで搾取者の言いなりになること」は、他人全般のために守る、あるいは他人全般が守るような道徳ではありえません。

「『世間』は、紛争が迷惑だから、道徳によって悪しきものとして禁じている。結果として自責の念によって紛争を心の中から封じることになる」という考えはありがちですが、どうでしょう。
現実的には、世間は紛争が起きることを大前提としていますし、自分と他人とで自助努力して解決することも前提としており、その上で解決困難だったり迅速な解決を求めている場合にのみ世間が解決するのです。つまり、紛争や紛争解決は世間ではなく基本的には自分と他人の責任であり、世間が道徳でどうこうできません。(たとえば裁判所はそういう世間のありようを端的に示す一つの形でもあります)
世間の道徳が自分や他人の責任の肩代わりをすることはできないし、逆に自分や他人の責任で世間の道徳の肩代わりをするいわれもありません。だから、「世間の道徳に基づく自分の自責の念によって紛争が禁じられている」というのはおかしい、ということになります。

物事の道理からも、自分や他人や世間に照らし合わせても、自責の念に支配されているということはきわめて有害であり、避けるべきものです。また、他人への迷惑は減らしたいとはいえ、やはりある程度は生じることを覚悟しなければなりません。紛争と紛争解決は時には必要でさえあります。ここを全ての話の大前提とします。


2 ● 犬神工房
ベストアンサー

(2/2)じゃあどうするか。物事の道理ではそうでも、感情としては実践できない、というのが正直なところだと思います。
ここで、四つの感情と向き合う必要があります。罪悪感、恐怖、怒り、そして道徳感情です。

自責の念と罪悪感の話で言えば、「どんなに自分がダメなやつでも、それでも自分を守らなければならないという事情は一ミリも変化しない」と理解することが大事です。
「自分がダメなら自分を守らないことが望まれる」のか? いいえ。そういう自己犠牲者の道徳を多くの人が守ったら多くの人が大いに傷つく、ということは既に述べました。自分を攻撃することが道徳ではありえない。道徳は、どんなに自分がダメであれ、自分を守る、ということを否定しない。
どうしようもない自分を、それでも侵害されないようにしなければなりません。自分をどうにかすることは、自分を存続させてから考えましょう。これで自責の念の方は何とかなるかも知れません。

恐怖と怒りと紛争解決について。
紛争が嫌いで、紛争解決を避けて通って来た場合、紛争や紛争解決は恐ろしいものです。だって太刀打ちできないし、そんな風にはスキルを振り分けてこなかったから。そしてその恐怖はさらに紛争解決を遠ざけ、降りかかる火の粉のような紛争から身を守れなくします。
そういう恐怖はどうやれば克服できるか。恐怖の反対は怒りです。怒りましょう。
「怒りは悪い」? 怒りは敵や脅威や不公平な扱いや搾取から身を守るために戦う感情です。つまり「怒りは悪い」としたら、多くの人は敵や脅威や不公平な扱いや搾取にやられて大ダメージです。だからそれは道徳ではありません。
「不公平な扱いや搾取をするなら、受け入れられませんし会話も取引もできません」という態度を示す。これは紛争のきっかけになるかも知れませんが、少なくとも「これが道徳だったらそもそもみんなダメージを食らわずに済んだだろう」という道徳的なものだとは言えます。うまくいけば紛争にはならないのでダメージはない。
いざ紛争になっても「だから受け入れられないし会話も取引もしないっつってんだろ」と言い抜けられます。これで相手が解決する気がないなら拒絶し抜くことが勝利への道であり、自信の源です。
また、相手がまともに会話する気になれば、お互い解決の余地があるように努力していけばいいのです。
こうすることによって紛争スキルと紛争解決スキルは向上していきます。

最後に、他人への迷惑ということと、道徳感情について。
怒りに身を任せることで紛争がこじれることがあり得ます。これでは紛争解決にならない。まずい怒り方です。
他人に迷惑をかけてでも自分を通そうとする場合(紛争って実際にはそんなことばかりです)、それが少なくとも道徳によって許容されるか、されないか、ということは検証されなければなりません。許容されない場合は、やはりその怒りは引っ込めねばなりません。
そこで、さっきから言ってる「お前の言う道徳をみんなが実行したら、みんなの利益や損害は、大きくなるのか、少ないのか」ということを常に考えて、その上であらゆる感情を検証する、ということが大事になってきます。
「この怒りなどの感情は、誰しも持つものなのか、持っていいものなのか」ということを考えたときに、「みんながこの怒りに任せて動いた場合、事態はグチャグチャになってみんな苦しみ抜く」と思ったら、いったんその感情から離れて紛争を中断しましょう。逆に、相手が感情に身を任せている場合はやはり「そういう態度は受け入れられないし会話も取引もできない」と指摘するしかないでしょうね。

これらの組み合わせによって、自責の念や他人への迷惑を軽減させて、紛争スキル&紛争解決スキルを向上させていく、ということになるのだと思います。
言うは簡単ですが、実行はやってみないと分からないところがあります。やれるところからやってみてください。

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