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木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉の違いを教えてください。

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●質問者: 零李亞(檸檬水)
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 6/6件

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1 ● GM91

木下藤吉郎:草履取り職人。後に重要無形文化財
羽柴秀吉:大阪市長になろうとしたひと
豊臣秀吉:えらいひと。別名、勝新太郎


2 ● コイル

知ってると思いますが、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉は同一人物です。一生の中で何度か改名しています。
改名の順番は、
「日吉丸→木下藤吉郎→秀吉→羽柴秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉」です
それで、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉のそれぞれの出来事は、
木下藤吉郎は幼名の日吉丸から藤吉郎に名乗り、この時代、織田信長に仕えていました。ちなみに信長からは、秀吉は「サル」、または「ハゲネズミ」と呼ばれたそうです。
羽柴秀吉は、小谷城に入場してから、信長に丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」の一文字ずつをとって、秀吉に、羽柴という名字をさずけた。
羽柴時代、本能寺の変(信長が明智光秀におそわれ、自害)のあと、明智光秀を倒しました。
豊臣秀吉は、光秀を倒したそのあと、大阪城を築き、関白に認定され、全国を統一しました。それから「豊臣秀吉」に改名しました。豊臣になると、徳川家康を関東に領地に移したり、検知や刀狩りなどをしたり、明を征服するため、朝鮮に兵を2度送り
ました。
こんな感じです。


3 ● 水樹

木下藤吉郎 織田家に士官した若侍
羽柴秀吉 織田家の武将
豊臣秀吉 日本を初めて統一した天下人


4 ● hissssa

木下藤吉郎

木下藤吉郎さんの総運は42画の半吉!
「不器用 未完成 病気 多芸 器用貧乏 器用 臆病 達成」
http://seimei.linkstudio.biz/?sex=m&surname=%E6%9C%A8%E4%B8%8B&firstname=%E8%97%A4%E5%90%89%E9%83%8E


羽柴秀吉

羽柴秀吉さんの総運は28画の凶!
「翻弄 誤解 不和 遭難 波乱 万丈」
http://seimei.linkstudio.biz/?sex=m&surname=%E7%BE%BD%E6%9F%B4&firstname=%E7%A7%80%E5%90%89


豊臣秀吉

豊臣秀吉さんの総運は37画の大吉!
「忠実 才能 努力 独立 現実的 異郷 順応」
http://seimei.linkstudio.biz/?sex=m&surname=%E8%B1%8A%E8%87%A3&firstname=%E7%A7%80%E5%90%89


ゴーストさんのコメント
木下藤吉郎 若い頃、織田に仕えて間もない頃の秀吉の名前 羽柴秀吉 明智みつひでが織田を暗殺する前ぐらいの名前 豊臣秀吉 天下を統一するぐらいのときの名前

5 ● はかせ

名前が違うだけで同一人物です。
木下藤吉郎=羽柴秀吉=豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

豊臣秀吉
「羽柴秀吉」はこの項目へ転送されています。
同名を名乗る実業家については「羽柴誠三秀吉」をご覧ください。
凡例 豐臣 秀吉 / 羽柴 秀吉

豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵 重文)
時代 戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代
生誕 天文6年2月6日(1537年3月17日)[1]
死没 慶長3年8月18日(1598年9月18日)
改名 木下藤吉郎、 秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
別名 別名:元吉[2]
渾名:猿、木綿藤吉、豊太閤
神号 豊国大明神
戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
墓所 豊国神社、不動院
官位 筑前守、従五位下・左近衛少将、従四位下・参議、従三位・権大納言、正二位・内大臣、従一位・関白、太政大臣、贈正一位
主君 松下之綱 → 織田信長 → 秀信
氏族 木下氏(平姓(冒姓)) → 羽柴氏(平姓 → 藤原姓(猶子) → 豊臣姓(賜姓))
父母 父:木下弥右衛門、母:大政所
継父:竹阿弥、猶父:近衛前久
兄弟 日秀(三好吉房室)、秀吉、秀長、
旭姫(佐治日向守室 → 副田吉成
室 → 徳川家康継室)
妻 正室:浅野長勝の養女・北政所
側室:浅井長政の娘・淀殿、他
子 実子:秀勝、一女、鶴松、秀頼、
養子:秀次、秀康、秀秋、秀勝、豪姫、菊姫、江(小督)、小姫、大善院、吉川広家室、黒田長政室 他
猶子:八条宮智仁親王、近衛前子 他
豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし[3])/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。
はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれた。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部で勢力争いを起こし、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが[4]、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1192108126のベストアンサー

秀吉についてですが、今川義元の家臣飯尾氏の配下である松下之綱の家臣時代に名乗っていたのが木下性。
これは父親から受け継いだ性とも、妻・ねねの性とも言われている。

その後、秀吉は信長に仕官、そこで出世した秀吉は、織田家重臣柴田勝家の性「柴」と、丹羽長秀の「羽」という字をもらい、羽柴と性を改めた。

豊臣だが、紀伊、四石を制圧した秀吉は、関白・近衛前久の猶子となり、関白職を譲り受ける。その時藤原氏に改め、さらに豊臣氏に改めた。
つまり、羽柴から豊臣に改める間に、一度藤原氏を称していることになる。
羽柴が性であり、豊臣は氏にあたる。

豊臣氏は、源平藤橘にならぶ第5の氏姓と構想されることから、秀吉は自らの権力に比例して変えたのである。

秀吉は征夷大将軍になろうと足利義昭の容姿になろうとしたが断られ、仕方なく関白職を継いだ(義昭の養子になったことについては創作の可能性大)


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