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江戸時代の初期に活躍した「春日局」の行動ですが、駿河大納言が改易され、そして、切腹への一連の過程で、どう対応していたのでしょうか。先日、テレビで春日局を扱っていました。家康公に、竹千代君(家光公)と国松君(後の駿河大納言)の序列を付けてもらったという逸話は紹介されていましたけど。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:家電・AV機器
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答1号

http://www15.plala.or.jp/yai/setogawa/dainagon-haka.html

ー家光は春日局の意見を求めた。「わたくしは上様のお考えと同じでございます。上様のよいようになされませ」彼女も忠長との長い抗争の歴史に終止符を打つのに賛成だった。「ただし、上様、ご自裁(自決)を命じられてはなりませぬ」そのことが気になった。家光は、思いきったことをすることがあった。「命はとらぬ。少し経ったら、捨扶持(すてぶち)を一万石ほど与えて、遠国へ移そう」「それがよろしゅうございまする」

忠長をただ一人、侍女一三、三人の随行だけは許し、高崎城の安藤重長に預けた。塾居なのである。「いけませぬ、上様。腹が立ちましょうが、我漫遊ばして……どこか遠国へ移して、この前おっしゃったとおりに一、二万石お与えなさいませ」春日局は不慮の出来事を心配して、家光にいった。
家光も彼女のいうことだから、その気になって行く先をさがしたが、間に合わなかった。
まもなく、忠長自刃の報に接した。28歳だった。


匿名質問者さんのコメント
http://www15.plala.or.jp/yai/setogawa/dainagon.html どうもありがとうございました。 秀忠公は、忠長を赦すようにという遺言を残さなかった、 逆に言えば、そのような遺言の獲得に忠長は失敗したのですね。 別のページを見ると、家光が命じたようですね。 微妙な話です。実態は、闇の中だろう、と思います。 どのような話として、どこにどういうふうに伝わっているかが、ここでは、重要だと思いました。 たとえば、安藤家の重臣の家に、どのように伝わっているか、です。 御紹介のサイトは元のソースがどこかなぁと思いました。 ******* 大御所秀忠の病気を知った忠長は、崇伝や天海を頼って「今後は万事年寄衆の指図に従うから大御所様のゆるしを得てほしい」と再三願ったが、聞き届けられずにいるうちに秀忠は翌9年正月没してしまった。 大御所秀忠の死によって名実共に天下の主となった将軍家光は、この年10月弟忠長を上野高崎城に幽閉し、その所領50万石を没収した。そして翌10年12月忠長に自決を命じて、幼少年期の苦い思い出に終止符をうった。

質問者から

サイトの紹介をありがとうございました。サイトのソースは何かなと思います。さまざまな言い伝えがあると思います。

なお、このサイトの記述によれば、国松はいささか甘やかされすぎたのでしょう、
あまり、聡明な立ち居振る舞いでない、と思われます。
適切な諫言を適切な時期に行う側近をつけてやらなかったこと自体、
単純に申せば、親のミスかと思います。
いや、秀忠公は、本当はどういうことをお考えだったのか、現代人の私には、読めないですね。

弟に切腹を命じるというのは、大名統制策としては、抜群の効果があると思います。
秀忠公は、このような仕掛けを残して死んだというのは、考えすぎかもしれませんが。


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