「で?別れちゃったわけ」
コーヒーを若菜の前に置きながら、明菜は呆れたように天を仰いだ。
「そう。そうなの。そうなのよ。」
ジッとコーヒーカップを見つめている若菜の頭を、明菜はポンポンと叩く。
「損な、若菜」
若菜の目からあふれた涙は、カップから立ち上る湯気を揺らし、コーヒーの表面に波を立てた。
きれいな同心円を描いて広がっていくはずの波紋の一部が微かにゆがむ。
若菜はもう一度、コーヒーカップを凝視する。
涙が落ちたわけでもないのに波紋がコーヒーの表面に浮かぶ。
今度ははっきりと若菜の右前方がゆがんだ同心円がカップの縁から中央に向かう。
「居るわよ。二時の方向」
若菜はすでに、失恋したばかりの少女の顔ではない。明菜が小さくうなずく。
「分かった」
明菜はゆっくりと喫茶店のマスターの方に向かう。
ぶうん、と低い音が微かに三度流れると、空いている店内が微かにざわめき、何人かの客がそそくさと席を立つ。
若菜の視線の先には、席に座ったままの親子連れがいる。
隣の空いている椅子に置いてあったマフラーを無造作につかむと若菜は親子連れの方にゆっくりと歩いてゆく。
パフェにむしゃぶりついていた子供が近づいてゆく若菜に気が付く。
十分な間合いを取った位置で若菜は少し足を開いて立ち止まり、少し腰を落とす。
若菜に気付いた子供は、色の薄い虹彩に囲まれた縦に長い瞳孔で睨みつける。
「コォォーーッ」
空手の息吹とも違った甲高い音を立て、若菜は丹田に力を集めてゆく。
手に持ったマフラーを一振りすると、それは濡れたような蒼い色の一条の鞭へと変化する。
「シャアッ!」
四メートルは離れていようかという距離から、物理法則を無視したような起動で若菜に飛びかかってくる子供。
背を向けて座っていたはずの母親は、いつの間にか地を這うようにして座席を弾き飛ばしながら若菜に迫ってくる。
「タン!」
若菜の背後からの乾いた破裂音が、子供の軌道を僅かに変える。
軽く体をひねって子供を躱した若菜の手の一振りが母親の片手を吹き飛ばし、突進を止める。
「小さいのは任せたわよ、明菜!」
――――――――――――――――――――
十数分後、親子は床の上で、まだしゅうしゅうと泡を立てているふたつの染みになっていた。
二人の若い波紋の一族の末裔は、お互いの無事を確認し笑みを交わす。
「こんなのを見られちゃ、ドン引きよねえ、やっぱり」
「数が増えちゃって、ひそかに戦うってわけにもいかないもんね」
「ほんと、損な役回り」
(おしまい)
そろそろ終了します。
飛び込みの方々、ありがとうございました。