先日作ったキャラにも言わせたんですが「死にたくない。」ですね。
つまり「嫌だ」です。
イギリスの精神科医・エリザベス・キューブラー=ロスが書いた『死ぬ瞬間』という本がありますが、その本の中でエリザベス氏は、死の受容には5段階のプロセスがあると書いています。このことを「キューブラーロスモデル」と言います。
http://en.wikipedia.org/wiki/K%C3%BCbler-Ross_model
第1段階 「否認」 わたしは死なない 死は怖くない 自分は必ず助かる
第2段階 「怒り」 死ぬことは許せない 自分は悪くない 死を与えるものを許さない
第3段階 「取引」 生き残るためになんでもしたい 助けてほしい
第4段階 「抑うつ」 私は死ぬ 死ぬしかない 生きられない なにもできない
第5段階 「受容」 死を受け容れて生きたい 死までの時間をよりよく生きたい
死が怖くないと思っている人は、死の受容プロセスの第一段階「否認」の段階にいます。そして「否認」から「抑うつ」までの段階の時間が長ければ長いほど、その人はよりよい人生を歩む時間が少なくなります
「否認」の段階から「受容」の段階に進むためには、まず死の恐怖を感じなければなりません。死の恐怖は死を受け容れるための前提条件です
死に直面したときの死への恐怖心は、生物として健全な反応です。
進化生物学の観点では、死の恐怖は、遺伝子が与えた生存プログラムであり、かつ、生物として正常な反応です。
進化した生物が、野獣の接近など、死に直面したときに恐怖心を感じ、脳がアドレナリンを分泌し、心臓の鼓動が早くなり、血圧が上昇し、呼吸が早くなり、脳や筋肉や神経の活動能力が通常よりも高くなることで、生き残る行動をとりやすくなるという 種としての生存戦略。それが恐怖を感じさせる遺伝子、「恐怖遺伝子」です。
健康な人は 恐怖遺伝子を持つ肉体によって、死に直面して恐怖することができます。恐怖することによって生き残る可能性が高まります。
人類など高等な生物の場合、大脳の発達により、肉体が死に直面しなくても、「死に直面した状況」を想像して恐怖する能力があり、同時に 自分以外の「死」をも 想像し共感する能力があります。
人がホラー映画を観てドキドキするのは、「恐怖遺伝子」を持つ細胞や組織が機能しているだけではなく、想像したり、共感したり、脳が高度な知的活動をしているからです。
そのような人類の「死への想像力」こそが、「死なないためのどうすれば良いか」を考える集団を形成し、死に備えて農業を発展させたり、死に備えて軍事力を発展させたり、死に備えて宗教や国家を発展させたり、文明を築いてきたのだ、と解釈することもできます。
そういう意味で言うなら、宗教も、軍隊も、国家も、科学技術も、歴史も、文学も、人類の文明と人間生活のなにもかもが、死の恐怖によって作られ支えられてきたと言っても良いでしょう。
対して、死の恐怖が足りない社会は、どうなったでしょうか?
かつて大日本帝国は、アメリカや中国など、連合国と勝ち目の無い戦争を始め、核戦争によって滅亡し、アメリカの植民地として日本国がつくられ、その様々な矛盾が現代の日本であらわになっていますが、そのルーツは、かつて大日本帝国の政治を支えてきた帝国臣民に「死への想像力」が足りなかったからです。
死を怖くないと言う質問者は、神のようには生きられるでしょうが、人間らしく生きることは難しいでしょう。そして人は、神にはなれません。
私が、質問者が知りたかったことは 死ぬのは怖いかどうかということではないと疑っています。
質問者は、本当は、どうすれば死ぬまでの間、自分は人間らしく生きられるのか?ということを、知りたかったのではありませんか?
質問者に死の恐怖が無いのであれば、質問者は死に一番近い人です、ですから質問者は、近い将来、本当に死ぬでしょう。
死を怖がる者は幸いなり
その者は人間らしく生きられるだろう
死を怖がらない者は災いなり
その者は神のように生き 失敗するだろう
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梓篤 ベストアンサー |
私の場合、
死ぬという事は全て終わり、終点と思っています。
なので死ぬ事に抵抗はないです。
でも、まだやり残した事があるので今が死ぬ時とは思っていません。
やるべき事が全て終わったらぱっぱと死にたいなぁとは思います。
とにかく、未練を残さず死ねるなら怖くないです。
でもやはり、死の瞬間に訪れる痛みには恐怖しか感じませんね。
なんというか、終わるんだな。。。という気持ちだと思います。