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西遼、西夏、遼、金は、首長はもともと、ハーンと呼ばれていたという解釈は正しいですか。
それが、なぜ、皇帝を称するようになったんですか。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:学習・教育
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答1号

ウィキペディアで軽く調べてみました。

遼、西遼については、契丹人の歴史を紐解くと分かることがあります。
部族、種族、日本で言うところの「氏」のようなもののまとめ役を、契丹では「君長」と呼んでいたようです。
◆契丹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9%E4%BA%BA

6世紀末?8世紀には、西は老哈河から東は遼河・南は朝陽までの地域に住み、北斉に従属していた9つの州に居住する大賀氏八部(構成部族)[3]が連盟を結び、紇使部から出た大賀氏を君長に戴いていた。戦争を行う時は、八部が合議して行い、独断で行うことはできない合議体制であった。狩猟は部別に行われたが、戦争は合同で行ったと伝えられる。
(中略)
10世紀に耶律阿保機(やりつあほき)が登場し、八部を纏め、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、契丹国皇帝となった。契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。

西夏についてはこちらを。「酋長」という単語が見られます。
◆羌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8C

『後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏[1]の別種」とあり、とても古い時代から中国の人に知られていたようである。紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。
(中略)
後漢末に黄巾の乱が起きると(184年)、羌族は再び勢いを盛り返し、漢人の韓遂や馬超といった軍閥と組んで独自の勢力を築いた。三国時代(220年 - 280年)においては、魏と蜀の国境地帯において勢力を保ち、その趨勢に応じて魏や蜀に附いて戦った。

五胡十六国時代に入ると、南安赤亭羌の酋長である姚萇が前秦から独立して後秦を建国した(384年)。後秦は417年に東晋の劉裕(後の宋武帝)によって滅ぼされる。

唐代から北宋代には、部内のタングートが強勢になり、やがて宋を圧迫して多額の歳幣を取る事に成功した。その後李元昊が西夏を建てて皇帝となる。北宋が金に滅ぼされると服属するが、チンギス・ハーンの勃興時に滅ぼされた。

「君長」や「酋長」が、当時の言語・発音でハーンだったのかどうかは自分には分かりません。

遼の契丹族は契丹語、まだ謎が多いという契丹文字。
西夏はタングート族で、タングート語。西夏文字。

大きめの図書館で、中国の歴史研究書を読むのが一番だろうと思いますが、上記ページや、そのページにでる単語のリンク先をよく読めば概略だけでも分かるのではと感じました。

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