「太平記詳解」自9の巻至16の巻より、「正成下向兵庫事」(近代デジタルライブラリー)。
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尊氏卿・直義朝臣大勢を率して上洛の間、用害の地に於て防ぎ戦はん為に、兵庫に引退ぬる由、義貞朝臣早馬を進て、内裡に奏聞ありければ、主上大に御騒有て、楠判官正成を被召て、「急兵庫へ罷下、義貞に力を合せて合戦を可致。」と被仰ければ、正成畏て奏しけるは、「尊氏卿已に筑紫九国の勢を率して上洛候なれば、定て勢は雲霞の如にぞ候覧。御方の疲れたる小勢を以て、敵機に乗たる大勢に懸合て、尋常の如くに合戦を致候はゞ、御方決定打負候ぬと覚へ候なれば、新田殿をも只京都へ召候て、如前山門へ臨幸成候べし。正成も河内へ罷下候て、畿内の勢を以て河尻を差塞、両方より京都を攻て兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲て落下、御方は日々に随て馳集候べし。其時に当て、新田殿は山門より推寄られ、正成は搦手にて攻上候はゞ、朝敵を一戦に滅す事有ぬと覚候。新田殿も定て此了簡候共、路次にて一軍もせざらんは、無下に無云甲斐人の思はんずる所を恥て、兵庫に支られたりと覚候。合戦は兎ても角ても、始終の勝こそ肝要にて候へ。能々遠慮を被廻て、公議を可被定にて候。」と申ければ、「誠に軍旅の事は兵に譲られよ。」と、諸卿僉議有けるに、重て坊門宰相清忠申されけるは、「正成が申所も其謂有といへども、征罰の為に差下されたる節度使、未戦を成ざる前に、帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位を軽ずるに似り、又は官軍の道を失処也。縦尊氏筑紫勢を率して上洛すとも、去年東八箇国を順へて上し時の勢にはよも過し。凡戦の始より敵軍敗北の時に至迄、御方小勢也といへども、毎度大敵を不責靡云事なし。是全武略の勝たる所には非ず、只聖運の天に叶へる故也。然れば只戦を帝都の外に決して、敵を斧鉞の下に滅さん事何の子細か可有なれば、只時を替へず、楠罷下るべし。」とぞ被仰出ける。正成、「此上はさのみ異儀を申に不及。」とて、五月十六日に都を立て五百余騎にて兵庫へぞ下ける。
太平記巻第十六 (その二)