裸であれば誕生後間もなくの状態を描写したものでしょうから、
無割礼で間違いないです。
ユダヤ教において、割礼は生後7日目に行うべしとトーラーに明記されているので、
割礼後の状態を描いたのであればすでに服を着ていないとおかしいですから。
宗教上の意味づけがどうかなんて違いはありませんよ。
画家が宗教をモチーフに描いたのが宗教画であるというだけです。
あと、宗教画が礼拝(崇拝)の対象になることはありませんね。
もし宗教画が崇拝の対象になっているのであれば、
それはユダヤ教でもキリスト教でも禁止されている偶像崇拝に他なりませんので。
この偶像崇拝に対しても教派ごとに違いがあって、
正教会における宗教画のことをイコンと言うんですが、
これは立体的な描写をあえて避けています。
彫刻像なんてもっての他という扱いですね。
このへんの感覚の違いが西方教会と東方教会の最大の違いであろうかと。
カトリックの聖堂に出かけたことがありますが、左右に、キリストの物語を示す絵が並んでいました。
これは、宗教画の一種であり、礼拝するのか、と思いましたが、そういうわけではないようですね。
質問者さんが(自分で)使ってらっしゃる論理にいまいち首肯できませんね。
単純化した話をしますよ。
イエズスの、いわば「宗教的権威」はユダヤ教に依拠するものではありませんよね?
その時代の「正しきユダヤ人/ユダヤ教徒の、正しき息子」であることがイエズスの権威付けに必要であるのなら、確かに割礼済みであるほうが望ましいでしょうが、そうではない、でしょう?
そこをどう考えるかによるんじゃないですかね?
私の考えは浅くご迷惑をかけていてはいけないと思います。
私が今思いましたことは、
教会側は、絵について、神学などの観点から、いろいろとチェックし、
受け入れ拒否をすることもあるだろうということです。
画家としても、それを心得ており、何が、教会として受け入れ拒否につながるか、
把握していただろうということです。
割礼の有無が、そいういう意味で、注意すべきポイントであったのか、どうか、
そこが焦点かなぁ、と思います。