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聖家族や幼児キリストの宗教画ですが、妙なことを伺います。キリストは裸体のことが多いです。?割礼前のように見えますが、正しいでしょうか。?また、割礼前と割礼後ですと、宗教上の意味付けが(神との契約の印がまだか、済んだか)違うと思いますが、このことの意味をどう考えるべきでしょうか。宗教画でsから拝礼の対象として考えた場合のことを考えております。

西洋人の多くは、絵を見れば、すぐ、割礼前を描いたのか割礼後を描いたのか、わかると思います。宗教画は、信仰のために描かれており、細かいことにも深い意味があると思いますし、教義に詳しい西洋人の場合、その意味はわかるのではないかと思います。
私は、キリスト教文化とは無縁なので、そのあたり、すこしでもわかったうえで、宗教画を鑑賞したいと思っています。よろしくお願いします。本日、上野で、幼児キリストの絵を見てまいりました。キリスト教への信仰があれば、宗教的な感動も感じることができたはずですが、そこは残念でした。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

▽最新の回答へ

1 ● 匿名回答1号

裸であれば誕生後間もなくの状態を描写したものでしょうから、
無割礼で間違いないです。
ユダヤ教において、割礼は生後7日目に行うべしとトーラーに明記されているので、
割礼後の状態を描いたのであればすでに服を着ていないとおかしいですから。

宗教上の意味づけがどうかなんて違いはありませんよ。
画家が宗教をモチーフに描いたのが宗教画であるというだけです。
あと、宗教画が礼拝(崇拝)の対象になることはありませんね。
もし宗教画が崇拝の対象になっているのであれば、
それはユダヤ教でもキリスト教でも禁止されている偶像崇拝に他なりませんので。

この偶像崇拝に対しても教派ごとに違いがあって、
正教会における宗教画のことをイコンと言うんですが、
これは立体的な描写をあえて避けています。
彫刻像なんてもっての他という扱いですね。
このへんの感覚の違いが西方教会と東方教会の最大の違いであろうかと。


匿名質問者さんのコメント
ありがとうございました。 宗教画や彫刻が礼拝の対象ではないということ、ありがとうございました。 キリスト教関係の彫刻が、礼拝堂などに置いてあることがあるのですが、 そこに接吻したりする人がいますし、彫刻がその接吻で凹んでいたりすることありますが、 その接吻という行為は、本当は、好ましくないのかもしれない。深く考えさせられました。

質問者から

カトリックの聖堂に出かけたことがありますが、左右に、キリストの物語を示す絵が並んでいました。
これは、宗教画の一種であり、礼拝するのか、と思いましたが、そういうわけではないようですね。


2 ● 匿名回答2号

質問者さんが(自分で)使ってらっしゃる論理にいまいち首肯できませんね。

単純化した話をしますよ。
イエズスの、いわば「宗教的権威」はユダヤ教に依拠するものではありませんよね?
その時代の「正しきユダヤ人/ユダヤ教徒の、正しき息子」であることがイエズスの権威付けに必要であるのなら、確かに割礼済みであるほうが望ましいでしょうが、そうではない、でしょう?

そこをどう考えるかによるんじゃないですかね?


匿名質問者さんのコメント
ご指摘をありがとうございます。 ?イエス自身は、自分のことをユダヤ教徒と考えていたし、 回りもそう思っていたということですね。 イエスのいた時代では、「ユダヤ教とは、別のものとして、キリスト教を考えていた」 というわけではないですね。 ?キリスト教の祭壇画などで、 イエスのことをそもそもユダヤ教徒として描くことには、主眼はないと思います。 キリスト教徒がその祭壇画(宗教画と同じ意味で使っています)をみるとき、 ユダヤ教の作法に従っているかどうか、ということを気にするはずはない、 ということですね(祭壇画が発注された時代のことです)。 ?一般の民衆(キリスト教徒)は、イエスがキリスト教徒だったか、ユダヤ教徒として、 生活していたのか、イエスの生まれた当時、キリスト教などいうものが、 ユダヤ教と明確に分かれていたか、など、なにも意識していないだろうということ も踏まえておくべきということですね。(祭壇画が発注された時代のことです) この3つのうち、??は、ひとまず置くとして、 ?に従えば、画家が、描くに際し、割礼のことを気にする筈はなかろうということですね。 このようなご指摘と理解すればよろしいでしょうか。ご指摘などいただき、自分の頭の中を 改めて整理する機会になっております。

質問者から

私の考えは浅くご迷惑をかけていてはいけないと思います。
私が今思いましたことは、
教会側は、絵について、神学などの観点から、いろいろとチェックし、
受け入れ拒否をすることもあるだろうということです。
画家としても、それを心得ており、何が、教会として受け入れ拒否につながるか、
把握していただろうということです。

割礼の有無が、そいういう意味で、注意すべきポイントであったのか、どうか、
そこが焦点かなぁ、と思います。


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