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絶句(五言絶句や七言絶句)、律詩(五言律詩や七言律詩)は、日本ではいつごろからいつごろまで作られていたでしょうか。
室町時代の僧侶や江戸時代の儒学者は結構作る人がいたように思うのですが、どうでしょうか。明治時代も文人の一部では作られていたように思いますが、実際、いかがでしょう。
また、李氏朝鮮ではいつごろまで作られていたでしょうか。日本に併合された後も、しばらくは作る人はいたでしょうか。


PS ; 漱石詩注という岩波の本もあり、当時も盛んだったと思います。
富岡鉄斎などの絵にも、画賛が書かれたりしており、
盛んだったのかなと思いました。
しかし、宮中行事で、和歌は盛んでも、漢詩はそれほどでもない、
そこが戦後は致命的だと思いました。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

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1 ● 匿名回答1号

漢文が盛んな時はいつでもでしょう。
明治でも結構作られてたかと。


匿名質問者さんのコメント
ありがとうございました。 絶句や律詩は、中国では、唐が一番盛んだったと思います。その後は、いろんな形式がはやったと思います。 しかし、日本では、ずっと、絶句や律詩、これが中心だったのだなぁ、と思いました。

2 ● 匿名回答2号

少なくとも昭和初期までは作られていたはずです。
当時の「文化人」はユーザーフレンドリーな態度ではなく、やたら小難しい作文を作って自慢する風潮があった。
おれは賢いんだぞ偉いんだぞ・・・って。
要するにかっこ付けてたんですね。
それが当たり前な時代でもあった。

そういう風潮がハッキリと変化するのは敗戦後です。
戦争中は下手に詩など吟じていたら非国民扱いされて「ちょっと来い」だった。
敗戦後はアメリカ文化に傾倒しましたから、詩吟の文化も今では消滅寸前までになってますね。

李氏朝鮮に関しては資料がありません。
当時の帝国に捨て扶持くらいはもらえただろう?・・程度の推測が精一杯です。
元々、漢詩は漢民族の文化ですが、日本に併合された後では政治的な地位もお飾りだったはずなので記録があるような表舞台での活動は考えにくい。
詩吟の会というのは上流階級のサロンのようなものだったらしいのです。


匿名質問者さんのコメント
どうもありがとうございました。 戦争のときの指導的な立場の人たちは、文化的なものが嫌いだったような気がします。そのおかげで、江戸時代からつづく、漢文系のスノビズムが消滅したのは、 よかったのか、わるかったのか、判断が分かれる、ということなのかな、 そのように感じた次第です。 李氏朝鮮ですが、李氏朝鮮の上層階級は、併合後はほとんど崩壊したのかな、と思っています。違ったら済みません。王朝時代は、そこそこ、残っていただろうと思います。五言絶句や七言絶句や、、といった、中国で唐の時代で盛んだった形式を、 李氏朝鮮ではずっと暖めていたのだろうかと思いました。

匿名回答2号さんのコメント
李氏朝鮮について誤解されているようですが、あの王朝は実質、清の傀儡政権で、と言うよりも植民地としての朝鮮半島を管理させ、特に重税を課すノルマを消費させるために置いていた見せかけだけの王朝です。 よって、日本が直接支配する併合後は要らなくなります。

匿名質問者さんのコメント
李氏朝鮮のことですが、補足説明をありがとうございます。中国大陸に明があったころは、なんとかやっていたのでしょうか。しかし、明清交代により、悲惨なことになったというわけなのでしょうか。 李氏朝鮮の上層階級は、韓国併合で崩壊したというよりも、大韓帝国の成立(清からの独立)で用済みになったのですね。

匿名回答2号さんのコメント
朝鮮半島や「王」の称号について誤解されているようです。 王は皇帝が臣下に与える称号です。 地方を支配・・と言うよりも管理させるために与えました。 また、遠交近攻は中華王朝の常套手段ですが、日本の支配者がもらった王の称号はお飾り的ご機嫌取りの称号で、言ってみれば朝鮮を支援しないでくれたら数々の財宝も上げるし箔付けの称号(もっとも臣下としての称号だとは明言しないで与えていたようですが)です。 当時の中国との貿易が莫大な利益を生んだのも当然で、「任那を助けた大和朝廷のような真似をしてくれるな」・・って意味だったんですね。 当然ながら、侵略の矢面に立たされた朝鮮半島は徹底的に支配され搾り取られ民族そのものの入れ替わりも何度かあります。 侵略される度にそれなりに抵抗してはいますが、多勢に無勢で蹂躙され殺戮され支配されています。 もちろん、抵抗勢力は一族皆殺しになる。 臣下の部族も抵抗力があると思える部族は皆殺しにされています。 比較的従順な部族を選んで王朝を創始させるという形を取って、支配をスムーズに行うのが手だったんです。 もちろん、実権はありません。 朝鮮の王は土下座して中華王朝の使者(要するに税金の督促と監視役です)を迎えるのが慣例でした。

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