一般論としていえば、ムスリム(イスラム教徒)の女性は、非ムスリムの男性とは結婚できない。
参照: http://www.zawaj.com/articles/outside.html
(歴史的な事件のことは知りません)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3
<ウズベク・ハン>
「ジョチ・ウルスとルーシ諸侯の関係」から、引用します。
1315年にトヴェリの支配に反発したノヴゴロドが反乱を起こすとウズベクはトヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチに軍勢を貸し与えて鎮圧を命じ、翌1316年にミハイルがモンゴルの力を借りずに再発したノヴゴロドの反乱を鎮圧しようとする、トヴェリをより危険視するようになる[17]。政略の一環としてユーリーのもとにウズベクの妹クンチェクが嫁ぎ、ユーリーはモンゴル軍を伴ってトヴェリを攻撃するが、1317年12月22日のボルテネヴォの戦いでモスクワ軍はトヴェリ軍に敗北する[18]。この戦いでクンチェクはトヴェリに捕らえられるが、戦後すぐにクンチェクはトヴェリで病死し、彼女はミハイルに毒殺されたという噂が流れた。
皆様、大変失礼いたしました。タタールの支配者が、妹を、ロシア人に嫁がせた、という内容を示す部分です。タタール人は、当時、すでにムスリムだったと思われます。
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匿名回答1号 ベストアンサー |
> タタール人は、当時、すでにムスリムだったと思われます。
というのはやや事実誤認があるようですね。
首都サライを預かる将軍クトゥルグ・ティムールはクリルタイを開催し、トクタの息子がハンに即位するべきだと主張し、イスラム教の信仰を否定する者を殺害するウズベクの排除を主張した[1]。
ジョチ・ウルス内のムスリムの数は少なく、ウズベクは領内の非ムスリムに武力による改宗と服従を迫った。1314年にマムルーク朝のもとに派遣された使節は、ウズベクがイスラームへの改宗のために戦い、反抗するものに弾圧を加えたと述べた[23]。しかし、一方ではキリスト教徒に対して寛大な態度を示し、教皇ヨハネス22世から感謝状が贈られた[24]。
たぶんこの2つの記述は同じ出来事を指しているのだと思いますが、要約すると、
キリスト教は例外とし、他の非ムスリムに対しては強行に改宗を迫った、
という事になりそうです。
そして文章冒頭からは、領内のムスリム人口はまだ少なかったという事実も拾えます。
ウズベクは軍勢を集めて敵対する将軍、仏教徒、シャーマン、100名以上の王族を殺害し、
この説明からは、国家の重要な会議に仏教徒やシャーマンが出席していたという事で、
当時のキプチャク・ハン国は多宗教国家であったように思われます。
カリフ制の復興を目指す現代のイスラム運動でもその思想の根底にあるのは、
イスラム教指導者による支配のもとでこそ全ての住民が平和に暮らせる、
というものであって、被支配民がどんな宗教でも構わないというスタンスなわけですし、
イスラムの教えに従うならば、
なにも統一宗教国家である必要性はそもそも無いはずなんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B9
また、ウズベクは支配下の遊牧民をイスラム教に大々的に改宗させ、ジョチ・ウルスのイスラム化がこの頃急速に進んだ。
従って、タタール人はすでにムスリムだったのではなく、
当のウズベク本人がムスリムへの改宗を民衆に強要したと見るべきでしょう。
なお、確かにイスラム教に熱心である事実は随所に認められるわけなのですが、
イスラム教の知識が豊富であるという事を示す証拠はどこにも無いんですね。
グーテンベルグよりも前の時代です。
誰もがイスラム法典を所持できたわけではありません。
宗教指導者なら所持していたかもしれませんが、
この時代の政治的支配者がそれを所持し、
内容にまで精通していたとはちょっと考えにくいのです。
だからイスラムの掟を踏み越える事も日常的に行われていたでしょう。
知らない掟については守りようがありませんから。
だから、歴史的な出来事を現代人の尺度で解釈しようとしてはいけないという、
1つのよい例なんだと思いますよ。