人別帳から戸籍になったこと、側妻や妾を認めない一夫一婦制になったことなど社会が大きく転換したので、同姓制度が明確になっただけでしょう。たとえば貞子はまでのこうじと大内と二つの姓で記載が残っています。
昔の上流階級は「通い婚」だったことも影響しています。
庶民には元々、姓は無かった。
武家社会は男尊女卑だったので、女性に姓が無いのが自然な時代も長かったようです。
鎌倉幕府の女傑に日野富子という人がいますが、意味合いとしては「日野家」の「富子」というニュアンスで、個人主義的なネーミングではありません。
ついでに言えば、鎌倉時代の武家社会は母系社会に近く、相続が均等相続だったために一族内部の分裂を招き、戦乱が起きやすい社会だった。
その反省から男子の直系を立てて長子相続にすることで一族内部の分裂を防ぐ社会になっていった。
現在の社会とは社会制度や一般常識そのものが違う社会なので、その時代時代の社会を理解しなければ分かりにくいでしょう。
まず、氏姓と苗字は別のものです。
源平藤(藤原)橘の類は氏姓のほうなので、全時代で夫婦別箇です。
婚姻で同姓になるなんてことはありません。
北条や日野、足利、徳川、細川などは苗字です。
苗字もほとんどは夫婦で別箇のもの、婚姻でも変わりません。
ただ、江戸時代の庶民は地域によって、夫婦で同じ苗字や屋号を名乗る場合もありました。
地域で別だったり同じだったり、多様でした。制度がなかったので、まあ当然ですね。
(江戸時代に庶民が苗字を公称してはいけないというのはありましたが、庶民に苗字自体が全くなかったわけではありません。)
明治になり、新たな制度で氏姓や苗字などが統合され、「氏」に統一されました。
そのときは夫婦で「別氏」です。
日本の伝統は氏姓も苗字も別が伝統だったんだから婚姻で同じになるなんておかしいだろ、という理由でした。
明治の後半になり民法ができた時点で、夫婦同氏に変わりました。
家制度ができたタイミングです。
家制度は、ヨーロッパや中国などの家父長制に近いものです。
江戸時代に同氏だった人や家父長制的要素を強く入れたかった人たちが、同氏にしたかったようですね。
(ここの理屈に関しては正直よくわかりません。)
あと、細川ガラシャは明治時代になってからの呼称です。
夫婦同氏になってからや、キリスト教の影響でヨーロッパ風に呼んだのでしょうね。