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meefla ●1000ポイント ベストアンサー |
「ほとんど家斉にあって、家慶には1%ぐらいしかなかった」と見るべきでしょう。
家斉の存命中、家慶はその1%の実権ですらあまり行使しなかったようですが。
趣味に没頭し幕政に疎く、家臣の意見を聞いても「そうせい」と言うのみであったことから、「そうせい様」と渾名された。
徳川家慶 - Wikipedia
ただし、家斉が死去した後は、直ちに家斉の寵臣たちを罷免したり、水野忠邦の天保の改革を実行したりと、大御所政治中とは違って指導力を発揮することもありました。
この点からすると、「そうせい」は自分に実権がない事を承知した上での達観と見ることもできます。
Google ブックスで読める 徳川将軍の意外なウラ事情: 家康から慶喜まで、十五代の知られざるエピソード - 中江克己 の 家慶はなぜ「そうせい様」と呼ばれたのか に、ここいら辺の事情が書かれていますのでご参照ください。
お役に立てることを祈りつつ。