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本当に徳川綱重は徳川家光の三男なのでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E9%87%8D

上記のwikipediaでは、綱重は家光の三男と書かれてあります。そして、次男は亀松のようです。

しかし、wikipediaの「亀松」のページを見ると、家綱、綱重の異母弟と書かれてあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%80%E6%9D%BE

本当は、綱重は次男で、三男は亀松なのじゃないでしょうか?


●質問者: unakun
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

▽最新の回答へ

1 ● meefla
●1000ポイント ベストアンサー

Wikipedia の 徳川亀松 に記述があるように、亀松の生まれた年には2つの説があるようです。

『徳川幕府家譜』では寛永20年、『江戸幕府日記』では正保2年2月29日(1645年3月26日)とある

徳川亀松 - Wikipedia

正保2年生まれ説に従えば、徳川綱重 よりも後に生まれているわけですから、綱重が次男、亀松が三男になります。
徳川将軍家墓碑総覧 では、正保2年生まれ説を取っており、三男と記述されています。
f:id:meefla:20160102112241j:image
『徳川将軍家墓碑総覧』P205 より

これを踏まえて、徳川亀松 の記述を検証してみます。
「徳川亀松」の変更履歴 によれば、この記事に関わっている人は一人しかいません。
また、参考文献も一冊の本だけです。
ですので、誤記が入っている可能性は否定出来ないと考えます。

まず、「徳川家光の4男」という記述が疑問です。
綱重の後に生まれたとしても、家綱と綱重の他にもう一人男子がいないと四男にはなりません。
参考文献が、もう一人いた説を取っているのかもしれませんが、そうであれば脚注なりで提示するべきでしょう。(徳川家光 の記述と矛盾が生じます)

また、一行目に「寛永20年2月29日(1643年4月17日)? - 正保4年8月4日(1647年9月2日)」とありますから、それに続く記述は寛永20年説に従うべきです。
つまり「徳川綱重の異母弟」ではなく「徳川綱重の異母兄」でなければなりません。

ちなみに、亀松の生母も 徳川家光 の本文では おまさの方 となっていますが、脚注で「『幕府祚胤伝』では母は玉とある」と記されており、生母についても2説あるようです。
生母がおまさの方であるとすれば、「徳川綱吉の同母兄」という記述も誤りという事になります。

以上、ご参考になれば幸いです。

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