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[脳科学・哲学的な問いとして]
「5億年ボタン」という矛盾について。
「5億年ボタンを押すと、今から5億年の間完全な孤独で暮らす事になる。その後に全ての記憶を消して5億年前(ボタンを押す時点)に戻れる。戻った時に100万円貰える。あなたは押しますか?」
ある見方では5億年を孤独で暮らすという地獄を味わうとも言え、別な見た方では一瞬で100万円が貰えると言えます。

押す、押さないを書き、何故そのような判断を導き出すのか教えて下さい。


※私の例えが下手で、良い例えを教えて下さる方がおられましたので、大幅に改訂させて頂きました。もし、古い質問をお知りになりたい場合は、変更履歴をご参考下さい。変更日2016-01-16

●質問者: j4mika
●カテゴリ:医療・健康 科学・統計資料
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 10/10件

▽最新の回答へ

1 ● tea_cup
●20ポイント

メスで皮膚を切開された瞬間に、患者が大きく動くと、傷口が予定外の場所に広がるので、切開を伴う手術では、麻酔を省略できません。

あなたが4歳の時に家族で旅行をして、おいしい焼き魚を食べて、公園でいっぱい走ってぐっすり眠っていたとして、そのエピソードを14歳のあなたは忘れていると考えてください。このような個々のエピソードは忘れていても、小さな体験が積み重なって、食べ物の志向、家族への信頼感や公園の楽しさなどあなたの人格を形成しているのです。


j4mikaさんのコメント
回答いただきありがとうございます。 手術の例については、ショック死など様々な弊害があることは分かっていますが、単純に述語に残る痛みという嫌な記憶そのものだけ対象に考えて下さい。 宜しくお願い致します。

j4mikaさんのコメント
また、その小さな積み重ねの人格形成について、最終的には全て忘れてしまいますが、意味はあるのでしょうか?

2 ● miharaseihyou
●20ポイント

激痛を伴う治療中に患者に「動くな」って言っても無理です。
歯医者の治療でも、表皮に軽く麻酔して効いてきてから太い麻酔を刺します。
人は痛みに弱い。

もし、心頭滅却できる薬が別にあれば、それと組み合わせて使えば使えるでしょう。
お伽噺のような薬が無いのであれば、麻酔は未来永劫に必要です。

それでなくても記憶の操作は人権問題なので違法です。
目の前にあれば使ってしまうので、そのような薬が開発されたとしたら厳重な管理下に置かれるべきでしょう。


j4mikaさんのコメント
回答いただきありがとうございます。 質問の意図としては、動くなどという話ではなく、そう言った不快な記憶を消し去ることが出来た場合、麻酔無しで手術を行っても問題ないのかという疑問です。忘れてしまえば、問題なしなのでしょうかね?

miharaseihyouさんのコメント
「知らぬが仏」ですか? あなたのそういう考え方は傲慢で我が儘な考え方です。 既に人権問題だと指摘していますが、そういうのは無視していますね。 あなたの人格にも考え方にも看過すべきではない問題があります。 自分の考えた方に都合の良いことだけを強調して、イージーゴーイングが過ぎる。 そういうのも自由ではありますが、私を含めて大多数の人は、そういう人が大嫌いです。

j4mikaさんのコメント
本人がそれを良しとしている場合で仮定して下さい。その場合、本人はどのようにこの問題を考えるのかという話です。この問題の主旨は人権などではなく記憶や自己の意味などについてです。また、この薬や手術なども全て自己で施術し実施したなどでも構いません。質問の主旨はそこではありません。 他にも、類似の話として、瞬間移動やコンピュータへのアップローディング問題があります。 Aさんを完全にコピーしたあと、オリジナルのAさんを処分する事などについてです。

j4mikaさんのコメント
他の例ですと、寝ているときに見た夢はただの妄想だから、どんなに辛いことがあっても、起きているときの話が全てであって気にする必要はない?知らぬが仏でしょうか?しかし、それも人生経験の一つであり、忘れてしまえば問題ないという話なのでしょうか?

miharaseihyouさんのコメント
一所懸命言い訳しても本質的な部分は変わらない。 自分の考え方がおかしい&矛盾しているって思えないのはエゴが勝るから。 ゲームに浸かるとそうなるな。 結果だけ勝利だけを目指す。 滑稽だな。

j4mikaさんのコメント
あなた自身が本当に正しいと思っているならゲームにつかるからそうなるとか関係のない話ではなく、本質的な議論でお願い致します。 例えば、あなたが使っている携帯電話。どのように作られているのか知らなければ罪ではない。(貴金属はアフリカなどの児童労働がある事実を、知ってしまった以上は罪になる。こんなテーマでも近いかと思います。知らないで使えば正しいのでしょうか?また、この知った事実を綺麗に忘れれば、知ることの無かった依然と同様に問題がないと言えるのでしょうか?

j4mikaさんのコメント
practicalschemeさんの回答が私の疑問の主旨と思って頂ければと思います。 特に(3)についてはこの疑問を仮定する上で完璧な話となると思います。

3 ● なぽりん
●20ポイント

たとえば、出産直後、母親の体内では、子宮を収縮させると同時に陣痛の痛みを忘れさせるホルモンが出ます
(母親が陣痛をはっきりおぼえて忘れないと2人以上産まなくなって少子化になって絶滅してしまいます)。
だからといって、体に刻まれた妊娠線などは消えるわけではありません。
そして子供という得難い宝は手元にのこります。

同様に、他の痛みでもなにかが残ります。
たとえば、狂犬病では病原菌そのものはしばらくすれば免疫で押さえ込むことができるが、
福次作用である痛みが強すぎるためそれに絶えきれずに体力をつかいはたして死んでしまう
(そのため、ずっと麻酔しておくほうが生存率がすこしだけ上がる)という説があります。
痛みによる痙攣で骨折をしたり、
歯を食いしばりすぎて歯をかみ割ったりしたら、
もともとの原因の痛みが消えても、
体にきざまれた骨折あとなどが弱点として残ります
(もちろん痛みの原因となった「なにか」の後遺症もありえるでしょう。
そのために体は、痛みという危険信号を発信して、逃れろと脳につたえているのですから)。
精神的にも、消極的な態度は残ってしまうとおもいますし、何より、
社会に生きている以上は、周りの他人が記録をしっかり残すでしょうね。

ただ、人間の適応力は「忘れる」ということを最大限活用することで成り立っています。
痛みをすぐに忘れられる人は得です。(子供を3人も4人も産める母親のように)
忘れられない性格の人は適応力が悪い人であって、
この世の中ではかなり生きづらい目に会ってしまいます。
とくに若い人はどんな経験もこれから出会うことなので、
毎日が一生忘れられない体験ばかりだとおもいます。
できれば若い人にはつらい目にはあってほしくないし、
若さならではの適応力で痛みを忘れて挑戦しつづけてほしいものです。
(または、出産だけであれば、無痛分娩という麻酔をつかった出産方法も
合理的なので日本で広まるべきだとおもいます)

長生きするとけっこう自分をコントロールして
上手く甘やかすことで、忘れるのが上手くなったりします。
でも実は体力がないため痛みを忘れたとおもっていても、
他の面でつじつまがあわなくなったりします。
PTSDなんていうのも、そういう病気の一つなのかもしれません。

忘れるのも忘れないのも一長一短ありますが、
やはり大きな印象をあたえる記憶を、人格を破壊せずにそこだけ消すことは今はできません。
(できませんと言い切っていいかどうかはちょっとわかりませんが…、
いくつかそれに近い例を知っていますが、
完全に歓迎できる手法ではまだないです)
痛みがだれにとっても大きなマイナス印象の原因、
ストレスの原因になるのは明らかなので、
あとから無理に消しゴムで消そうとするよりは、
そもそもの痛みをうける機会自体をなくしたほうが人間にとっては絶対によいです。
麻酔はその意味で恩恵です。
もし痛みをうけてしまったら、忘れられるまで生き延びてガンバルしかないですが、
それは最終手段ということにしておいて、
犯罪防止や麻酔の安全な運用からまず手をうっておきたいですね。


j4mikaさんのコメント
回答いただきありがとうございます。 出産の時であれば、予め麻酔すると言っていたが、麻酔を切らしていたので、使わなかった。出産後、医者に行きその話をしたら、その記憶と腹立たしさの記憶を消すことが出来るといわれ、受諾したら、綺麗に消えた。そうすると、麻酔を使っていた場合と同等の効果があったと言えるのでしょうか? なお、痛みによる他の弊害については、とりあえず、この場合は無視をして、頂ければ幸いです。 旨く質問することが出来ていないのですが、忘れてしまった記憶も、本人の経験となるのか?なんかそんな話でも良いです。自我同一性や連続性、本人の意識とは何か?みたいな話かも知れません。私自身、質問していていまいちしっくり来ていないため分かりにくい質問になっております。すみません。 他にも例えると、不完全なテレポーテーション、Aさんと同じコピーを別の場所に1つ作成。オリジナルのAさんを削除。これは瞬間移動として成立するのかなど。 なお、忘れるのが得意なのは老人のため、寧ろ、老人こそ辛い目にあいながらも起業などすることが向いているかも知れませんね。極端な話、配偶者の死のような大きな事に対しても、親族の事例ですと認知症が酷い場合そこまで辛くはないようです。しっかりしていた夫婦は片方が亡くなるとすぐに亡くなる事が多かったのですが、認知症がかなり進んで完全看護の施設ですとその死が本人にとってはあまり大きくないことのようでした。若い頃あれだけ嫁さんを大事にしていたのにまるで本人ではないようなほど別人です。法律上は別として、実際問題、同一人物と呼べるのか疑問すらあります。

なぽりんさんのコメント
大事なものが消えて悲しむのとかなしまないのは、 本人にとって幸せなのかどうかということですが、 それは正確に比較することはできません。 そもそも痛みの程度自体も比較することができないですよね。 認知症になると、毎日「この人は泥棒ではないか」と疑ったりします。 それが本人および介護者のつらさの元になります。 信頼関係のない生活が一番のストレスだから、その信頼関係のない生活をつくりだした一因である「嫁が居ない」事実への悲しみは比較的薄れてみえているのかもしれません。 痛みを(薬で簡単に)忘れたような人が、他の(痛みを普通にうけとめて自力で忘れられる)人と 健全な信頼関係をつくれるかというと、私は今の世の中は無理だとおもいます。 たとえば、犯罪者とか、自殺者が痛みを忘れて幸せに暮らすとしますと、 そういう人を「この人は後悔をしない、ノリがよい、明るくてすばらしい人だ」と思っている人は あとで知ってだまされたと思うでしょう。または、付合っているうちに「こういうことは改善してくれなきゃ!」と叱っても改善してくれないということに気づいたら離れていくわけです。 痛みはいろいろなものごとの信号であり、人を導くものなのかもしれません。 社会的に正当と認められる範囲内の手段で取り除かないといけませんね。

なぽりんさんのコメント
実際、日本で無痛分娩がなかなか広まらない理由の一つが「そういう出産方法をする母親はなんとなく母親として信用ならぬ」という説です。すでに痛みをもって出産した母親たちの妬みっぽい(ちょっと極端な表現ですが)部分もあります。 でも、そういうことをいっているから、少子化なんですけどね。

j4mikaさんのコメント
どうも、聞きたいことがずれています。 他の例ですと、寝ている時、人は必ず夢を見るそうです。しかし、夢の中の殆どの記憶は残っていないと言われています。 その中では良いことも悪いことも、楽しいことも苦しいことなど様々な体験が含まれていると思います。しかし、殆どは忘れて生活しているわけです。記憶と本人の人生経験が必ずしもリンクしてないように思うのです。

なぽりんさんのコメント
「この難手術は夢でなら成功させたことがあるが実際にはやったことがない」 というお医者さんに自分の難手術をまかせたいとか思いますか? 人の内面(痛みにしろ他の経験にしろ)は客観的な尺度+本人の自己申告で計るしかないです。 大事な記憶を失っている人(認知症)に重要な仕事はまかせられません。 記憶は人間にとってそれだけ大事な財産なので、よほど大きな痛みを含んでいても 消してはいけません。 また消す手法というものも倫理的に合法化はできないでしょうね。 麻酔は痛みという経験だけを発生させないので、合法でそんざいしています。

j4mikaさんのコメント
仮定の質問なので、PTSDの治療など開発中と聞きますが、そこまで臨床的に突っ込まれても困ります。 問題を簡単にするため、例えば、記憶を改ざんできる技術を自分で開発し、その技術を使って自分の記憶を操作したとします。 嫌なことを経験(脳が思い出として記憶)、その後、その技術で自身で自身の脳の記憶を改ざんしてその嫌な記憶を削除します。 もしくは、嫌な経験を避けて、記憶が残らないようにします。 この両者に本質的な違いはあるのでしょうか?

なぽりんさんのコメント
かなり質問がしぼれてきました。 1.本人の記憶。 2.他人・世間の記憶。 3.本人の肉体にのこる、痛みを受けたことによるストレスや歪み。 4.魂の傷。 質問者は1.3はここでは考えないものと明示的に仮定しました。でもそれでも2、4はどうしても残ると自分は思います。 マンガ「竜の眠る星」は、特段意図を持って記録されていない過去を合理的に観測する方法を提案するSFです。もしめちゃくちゃ科学力があれば、任意の過去のことを遡って見る方法はできそうです。これで2は「記憶がけされた」としても残ることがわかります。 神の視点で宇宙のあり得ない部分までの全記憶をアカシックレコードといいます、これはオカルトやSFの用語ですがそれとも似ています。神様の防犯カメラというか。 で、4は、2や3に似ていますが、生き物の生命=魂そのものが大脳より肉体よりシツコイ記憶装置ではないかという考え方です。これは明らかに宗教の範疇ですが、これも宗教がこれだけシツコク「ある」といっているのだから、自分としてはもしかしたらあるのではないかとおもいます。催眠術で前世を呼出すなんていいますからね。

j4mikaさんのコメント
質問については、かなり遠回しとなりすみません。 私自身、曖昧な所があるのですが、そのような感じで悩んでいると思います。 practicalschemeさんの回答など私が思っている疑問をかなり綺麗にまとめて頂いていると感じています。 4について、私自身は残念ながら無いと思っています。あくまで頭の中にある分子の固まりが全てだと思っています。しかし、喜怒哀楽の感情そのものは非常に強くあり、記憶を削除する前には強く叫んでいるわけです。しかし、その記憶を削除すると、果たして・・・この解釈をどうすべきかと思うところがあるのです。最も、肉体以外の記憶装置を仮定しその改ざんが絶対に不可能だとすると、この疑問は氷解しそうですね。 アカシックレコード、そう言えばありましたね。個人的には、一時期、円周率や乱数表に興味を持ち、実はそれがアカシックレコードではないかと思っています(笑)全て書き記せばこの世の全てを記述できそうですが中途半端では殆ど意味を成しませんし不思議に感じています。

なぽりんさんのコメント
「あくまで頭の中にある分子の固まりが全てだと思っています。しかし、喜怒哀楽の感情そのものは非常に強くあり、記憶を削除する前には強く叫んでいるわけです。しかし、その記憶を削除すると、果たして・・・この解釈をどうすべきかと思う」 感情がシナプスを流れる電流だとしても、「雷の落ちた丸太にはキノコがよく生える(電流により分解されるため)」というような電流による不可逆的化学変化はありえるとおもいますよ。また、高熱による不可逆な蛋白変性(熱中症)も脳内で起こります。シナプスをもとの状態に戻すのが記憶改ざんだとすれば、それこそ「アカシックレコードで元の状態をおぼえている」必要があるとおもいます。普通で考えれば、出来たシナプスに電流の流れる量をすこし減らす程度で、新規生成し太くなったシナプスがなかったことには戻らないのでは。(もちろん、みさかいなく白紙に戻すと…)

j4mikaさんのコメント
突然の場合は仰られるように難しいですが、例えば、元々の質問で揚げたような場合です。麻酔無しの手術前にシナプスのサイズや結びつきなど全ての情報を記録します。そして、2,3日して様態が安定した頃、変化のあった部位のシナプスを全て手術前の状態に書き換える。 更に、可能であれば、手術前に、脳の完全なコピーを物理的に作り、手術後、頭部のみ差し替えるでも良いかも知れません。 いずれにしても、無麻酔で手術をするという嫌な出来事を脳は不快なことを記録しています。しかし、その後、脳を改変や改ざんすることで、主観的に見るとそのことはなかったことになるわけです。これであれば、アカシックレコードが無くても成り立つ気がします。

なぽりんさんのコメント
いやはや、デジタル世代のHDDみたいな考え方ですが、生物はコンピューターではないです。 寝ているときや気絶しているときでさえ脳細胞には血流や電流がながれつづけて活動しています、酸素が3分とまると脳細胞は死滅して二度と記憶に関与できない。iPS細胞で脳みそをなんとなくまるごとつくってみても真っ白なままで呼吸や反射もつかさどれないでしょう。脳は「とてもデリケートななまもの」「生き物」なのです。 だからそう簡単に実行することは無理です。あなたのおっしゃる脳の差し替えはやはりアカシックレコードをつくる空想話でしかないです。それが出来るようになるまえに、その30歩手前の技術でさえ、プリオンを原因とする認知症など非常にむずかしい病気が治せるようになります。方向性としては「予防」のほうが「つくりなおす」よりずっと簡単なのは、手足の切断でもよくわかることでしょう。そして記憶の書換えは「つくりなおす」に該当します。

j4mikaさんのコメント
作り直すという解釈が適切であればそれでも良いです。いずれにしても、細胞レベルで殆ど寸分違わぬほどに作り直せるよな技術が出来た場合、本人にとってはその事実が無かったのと同義になると思うわけです。 また、コンピュータとのことですが、シナプス型のコンピュータをIBMなどは開発していますし、シナプスの結合をコンピュータ上で再現するプロジェクト、模倣するプロジェクトなど色々あります。物質や組み合わせで構成されている以上、本質的な差はそう無いのではないかと思います。 そうすると、元の質問のような話はどうなのかと思うわけです。 なお、現在の技術でも、3D顕微鏡などによる1細胞解像度スキャンなどこの分野の技術進歩は数年前は空想が現実になりつつあります。アカシックレコードほどの遠い空想ではないと思っています。 なお、iPSなどつい先日の技術ですし、既存の技術ですぐにそれが可能とは言いません。しかし、物によっては当時国家プロジェクトで作るようなデバイスが半世紀もしない現代では100円ショップやスクラップでも引き取り手のないゴミ扱いです。個人的には想像しうる程度のことは、1世紀もしないうちにかなりのことが実現すると思っています。

なぽりんさんのコメント
だとすれば「攻殻機動隊」シリーズなんかフィクションですけれど質問者さんには適度な思考実験になるかもしれませんが、自分は医学倫理上の問題(QOLがあからさまに下がる)のでそこまでやる社会には自分が生きているうちには到らないだろうとおもいます。

j4mikaさんのコメント
個人的には、2045年問題の議論を見ていると、(流石にこれは早すぎるとしても)、倫理など考え方を誰かが制御するという時代はあっけなく過ぎ、医学も一般化し、かなり早い段階で個人が自由に使える時代が来るのではないかと思っています。 攻殻機動隊にしても、あの時代が何年続くかには結構疑問がありますし、何より、殆ど不老不死の状態ですよね。 新薬や再生医療や人体の機械化(鼠の海馬は半導体で置換できたらしい)などどんどん進み、寿命が年1年延びるくらいまで科学技術の発展スピードが上昇すれば寿命という話も無くなりますしね。とりあえず、祖母の時代から見ると平均年齢は人生60年から80年になっています。夢見がちですかねw

4 ● practicalscheme
●20ポイント ベストアンサー

質問の趣旨は記憶と主観的事実についてかなと思いました。主観的事実が記憶によって成立しているなら、記憶を消すことと主観的事実を消すことは等価と見なせるか、というような問いでしょうか。SF的に考えてみます。

考慮すべきこととして、記憶というのはデジタルデータのように各データが独立して保持されているのではなく、それまでの状態との関連づけとして新たな情報が非線形に追加されてゆくこと、また、新たな情報の追加によってそれまでの情報が不可逆的に再構成されるということ、があると思います。

関連付けというのは、AとBを記憶しているときに新たにCを経験した場合に、Cは独立して記憶されるのではなく、Aとここが似ている、Bとここが似ている、しかしAともBとも似てない新しいところもある、というふうな情報のセットとして記憶されるということです。

非線形というのは、上記からDを経験してAやBとの関連性が記憶された時に、それは単純な足し算にならないということです。Cを経験し、次にDを経験した状態から、Cの経験による状態変化を引き算しても、それは最初からDを経験したのと同じにはならない、ということです。

再構成とは、AとBが関係ないと思っていたけれど両方に関連するCを経験したら関連性に気づいてしまった、というようなことです。ここからCの記憶を引き算しても、AとBの関連性は残ったままかもしれません。

こう考えると、ある特定のエピソードの記憶を消すというのはどういうことか、というのが問題になります。たとえそのエピソードをどうしても思い出せないという意味で「忘れて」しまっているとしても、その記憶はそれまでの記憶やそれ以降の記憶に影響を与えているわけです。「消す」方法として思いつくのは:

(1) そのエピソードによって生じた変化を逆に戻す。その場合でも、非線形性や不可逆性の影響は残る。むしろそれまでの関連付けが消えたぶん、関連に空白が生じ、その矛盾を埋めるために脳内での記憶が捏造されるかもしれない。

(2) そのエピソードを単体では絶対に思い出せないようにブロックする。関連ネットワークへの矛盾は生じない。本人の意識としてはその記憶はないことになる。しかし潜在的には存在しているわけで、これを消去といえるのか。

(3) 「そのエピソードが無かったとしたら起きていた変化」を再現する。つまり、そのエピソード以降の刺激による変化を全部一旦巻き戻し、そのエピソードだけを抜いて刺激をリプレイする。こうすれば真の意味で記憶を「無かったこと」にできる。しかしそのためには少なくとも該当エピソード以降の全ての身体刺激を記録しておく必要がある。

この世界がコンピュータシミュレーションであれば、その外にいる存在は(3)を実行することができるかもしれません。しかしそういう存在であれば事実そのものを無かったことにもできるわけで、この問題を考える意味が無くなりそうです。

それと、身体的な刺激の影響は脳内だけでなく身体部位にも残り、それが記憶あるいは記憶のトリガとなることも考えられます (身体的な変化との「関連」において記憶が定着している)。例えば強い刺激に対して末端の神経が順応した場合、脳内でその記憶を消したとしても、次の刺激が「初めて感じた時と同じように」は感じられないかもしれません。そういった身体変化まで含めて巻き戻すのかどうか、というのもポイントになりそうです。

あまり結論めいたものは無いのですが、無理にまとめると「影響を残さずに特定の記憶を消去するのは困難であり、その場合何らかの影響が残るので主観的事実を完全に無かったことにするのは難しいのではないか。もし本当に特定の記憶を無かったことにできる存在があるなら、そういう存在は事実そのものを無かったことにも出来るであろう」という感じでしょうか。


j4mikaさんのコメント
まさに、私が話したかったのはこういう話です。何度か質問文を書き換えましたが、趣旨をくみ取って頂ける方が居られ本当に有り難いです! また、私が思っていたことを具体的に整理して書いて頂きありがとうございます。 そして、結論部分なのですが、そこに大いに疑問を持て居るのです。 本人が今それを一切知覚できない(若しくは完全に元の事とは変質している)。しかし、過去のある時点では強い感情を持って泣き笑いしているわけです。強い感情は非常に人間の本質だとも思うわけです。しかし、それが一切知覚できない場合、その以前の経験は主観的に見た場合、人はどのように評価すべきなのかという疑問が残るわけです。 また、主観的に完全になかったとする最終手段は死だと思いますが、主観的に見た場合、最終的に全て削除される事を日々積み重ねているわけです。旨く言えないのですが、ここには何か矛盾や疑問を感じるわけです。

j4mikaさんのコメント
(3)が理想ですが、実際には、1や2について日常やこれからの技術の延長戦で出来そうな話として思いつきました。もし良ければ、意見頂けると幸いです。 ネットワークの構築はされるが忘れているという意味で、もう一つ良さそうな例を思いつきました。 例えば、寝ている時にとても幸せな夢(高級料理を食べた、空を自由に飛び回ったなど)を見たとします。しかし、いつもの夢通り、目が覚めたら綺麗さっぱり忘れています。 でも、良い夢を多分見たのだから良かったなと思うのだろうか?それとも、覚えてないなら関係ないと思うのだろうかと言うことです。脳には何らかの記憶がされると思いますが、経験上、忘れている夢については何も思うところがないわけです。理論上はネットワーク構築がなされ、何かの拍子に出てくる醸し得ないが実際には上で得たような幸せを感じるほどには無いわけです。幸せな記憶は、殆ど完璧に改ざんされたと言っても良い気がするのです。 なお、現在の研究では頭で考えたことを映像化する機器が初歩的ながら開発されているため、現在は無理でも将来、寝ている時に見た夢をあとで自分で確認することが出来るようになるかも知れません。 このようになると、その時の自分の夢を起きているときに確認して、やはり、どのように思い判断するのかにも疑問があります。

practicalschemeさんのコメント
まず死について。主観的事実というのはそれを認識する主体があって成立するものですから、死んで主体がいなくなれば成立しませんよね。削除されるというより、そこでは定義されていないということだと思います。主観的事実が意味を持つのは、それを主観とする主体が存在している範囲のみであると。 で、主観的事実が意味を持つとはどういうことかというと、その事実の経験によって、それ以降の主体が選択する行動や、主体が感じる感覚が「変わる」こと、だと思います。痛みを一切経験したことのない人は痛みを恐れず突っ込むところ、経験済みの人は痛みを恐れて躊躇してしまうかもしれない (赤ん坊は「光っている白熱電球は熱い」というのを触って覚えたりしますね)。辛いプロセスを経た後の成功の喜びを知った人は、再び困難に直面してもその経験を思い出して立ち向かえるかもしれない。「主体の行動や感情に影響を与えることが記憶の意味」だとすれば、死んだ後を考えることに意味はないが、生きている間は意味がある、ということが成立すると思います。 このように考えると、「記憶の消去」について、消去後にはまるでそれを一切経験しなかったかのように感じ、あるいは行動を選択する、というふうにできれば、主観的事実が無かったのと同じことになる、と言えるかもしれません。電球に触って火傷した記憶をすっかりブロックしてしまったら、また何の警戒もなく電球に手を伸ばしてしまうかも。しかし身体的記憶や他の記憶との関連が残って入れば、意識には登らなくても別の行動を選択してしまうかもしれず、その場合は「無かったことにする」のに失敗したということになります(このあたりは、記憶喪失を扱ったフィクションの題材にもなってると思います。新しい記憶を保てなくなった人は、ずっと同じ日常を繰り返すのだろうか、それとも経験の痕跡がどこかに残って、いずれ異なる選択をするのだろうか、という。物語的には痕跡が残るとする方が面白いわけですが…) しかしまた、主観的事実の意味が、行動の選択に影響を与えることであるとするなら、「かつてAを経験したからああいう選択をした」という事実は客観的にも残って取り消せないわけで、Aの記憶が無くなったからといってもその意味が消失してしまうわけではないとも考えられます。少なくとも、Aの記憶が無くても、「なぜあの時自分はああいう選択をしたのだろう」という疑問を抱くことは避けられないわけで。 なお、夢については(超自然的現象を仮定しなければ)新たな経験というよりはそれまでの記憶の再構成だと思うので、新たな記憶が 付け加わったわけではない、と考えることもできますし、たとえ忘れていても再構成の効果は残るだろうと考えることも出来ると思います。後者の立場を取るなら、例えば夢の中で感じた幸福を現実にすっかり忘れてしまっていたとしても、その結果として再構成されたネットワークは、新たな刺激に対して無意識にそれまでとは異なる反応を返すかもしれない、とすればやはり「無かったこと」にはならないだろう、と言えると思います。

opechumanさんのコメント
非常に面白い議論だと思うので便乗して質問させてください。 「あくまで頭の中にある分子の固まりが全てだと思ってい」るのであれば「強い感情は非常に人間の本質だとも思う」理由はないと思うのですがいかがでしょう。感情というメカニズムも種の進化の過程で環境に適応するために備わった機能の一つにすぎず、特別視する理由は特にないのではないのではないかと。言い方を変えるとpracticalschemeさんの結論を疑うには超自然的な何かを持ち出さずに議論することは難しいのではないかと個人的には思っています。 以下、すべて余談ですが、practicalschemeさんの結論を洗い直す上で論点になりそうなのが、「記憶が他の記憶と関連付けられて記憶される」という前提だと思います。人間が胎児として形成されたときに最初に植えつけられる「記憶」はいったいどのように脳に植えつけられるのか、結び付け得る他の記憶が全くない状況だと何も記憶することができないのではないかという疑問です。1つの回答としては生まれた瞬間から「生前記憶」のようなものがあり、それは遺伝子によって規定されているというものです。その場合、記憶は1つの個体で完結できる類のものではなくなってくると思います。そして、こういう論法を繰り返していくと無限退行に陥り、究極的には生命または宇宙の誕生まで遡っても答えは出ない気がするんですよね。こうなってしまうともう自然科学の枠では手に負えません。 このとき、記憶には他の記憶と関連付けられて記憶されるタイプの記憶と、独立して記憶される「原体験」のようなタイプの2種類があると定義すればこの無限退行を回避できます。ただ、この場合「原体験」に相当する記憶はどのように形成されるのかが問題になります。個人的にはここにpracticalschemeさんの結論を疑う余地が生まれてくるんじゃないかと思っており、「原体験」タイプの記憶を失うことには何か特別な意味があるんじゃないかという仮説は立てられうるんじゃないかと思います。例えばある種のタイプの出来事を全く記憶できなくなるとか。突き詰めて考えられておらず恐縮ですが、何か意見を頂けると幸いです。

j4mikaさんのコメント
>practicalschemeさん ものすごく、しっくりと来ました。漠然と思っていたことが、十数年来ぶりに収束したような気分で質問し回答いただけて本当に良かったです。 なお、前者のように完全に忘れた場合についてですが、特にこれという具体例など考えなくても、やはり過去に嫌なことがあったり、嫌な夢を見ていたと考えても嫌だと感じます。この理由が今ひとつ分かりません。 そこで、完全に忘れているので、ある意味自分ではない第三者が酷い目に遭ったと想像してみました。その場合でも、その人が辛い体験をするのは嫌だと感じました。 そうしますと、この質問の本質(後者の場合は除く)は、自分がと言うよりも第三者を含め、それに共感したりミラーニューロンの様な話が事の本質のように思うようになっています。 いかが思われますでしょうか?何か思うところなどありましたら返答頂ければ幸いです。 >opechumanさん この質問は私へでしょうか?違っていたらすみません。 興味深く聞きましたが、なかなかに難しい話で解釈を間違えていたらすみません。 例えば、砂糖が美味しいという感情。進化の過程で砂糖を美味しいと感じない個体や種はそれを求めずエネルギーの悪い食料を食べ続け長い年月で絶滅、淘汰された。そして、たまたま、これを美味しいと感じる種だけが残った。その末裔がヒトである。遺伝子への規定も色々な個体がDNAの突然変異などで無作為に発生し、単に生き残った種が残っただけの産物である。このような解釈はいかがでしょうかね?現在でもダーウイン賞などとして聞きます。 「利己的な遺伝子:ドーキンス著」からのアイデア拝借のつもりです。また、遺伝子の発現も化学物質みたいに周りの環境に応じて安定な平衡状態が保たれると思っています。 例えば、化学実験でも反応途中には一時的に様々な化合物が出来ても、最終的にはその元素がはじめから持っている性質と組み合わせで安定した平衡状態に落ち着きます。 これが何故なのか、物質にある定数は何故それで固定なのか、何故物質や時間、エネルギー、空間などが存在するのかなど突き詰めると、万物の理論など先端物理の話になると思います。つまり、現状正確な答えは分からないとなります。個人的には、究極的にはこれが解明されないと本当の意味での解決にはならない無いと思っています。 しかし、現実問題として人が体感としてガッツリ感じられる範囲は50年や10年、言ったことのある場所や国など意外にも狭い範囲内だと思います。その為、それなりに実用的で現実的な解(近似値)は近くにあると思っています。 量子力学や相対性理論が分からなくても、ニュートン力学で一応満足できるみたいな話です。

opechumanさんのコメント
削除 はい、j4mikaさんへの質問で合ってます。蛇足については誰でもいいからコメント欲しいなーという気持ちで書いたせいで分かりづらくなってしまいました。すみません。 前提としてpracticalschemeさんの回答によって結論部分に対する疑問は氷解したということで大丈夫でしょうか?だとすると、そもそも私の質問自体が無意味なのでスルーしていただければと思います。 ただ、j4mikaさん自身がおっしゃっているように先端科学まで突き詰めて考えないと(考えても)究極的な解明はできないわけですが、突き詰めて考えないと(3)が原理的に可能かどうかそもそも議論できずj4mikaさんのモヤモヤが残るんじゃないかなあとも思っています。人間の記憶が個体ではとどまらない物理的事象に依存しているであれば個体をいくら弄っても厳密な意味で元に戻すことはできないので、(3)が可能であるとみなすには記憶が個体レベルで完結したものであるという前提が必要です。practicalschemeさんの定義では記憶が個体で完結することを保証してくれない(というか先端科学まで議論せずに保証する定義ができるかどうか怪しい)のでその点をj4mikaさんはどう考えていらっしゃるのか気になります(practicalschemeさんの意見も頂けるとなおうれしいです)。 まあ、個体を超えた物理的事象すらも弄って再現できるとしてしまえば解決するんですけどね。それだと哲学的問いとしては物足りないかなーと。我儘なこと言って恐縮です。

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