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徳川家光の息子、「亀松」の生年は、寛永20年説と正保2年説のどちらの方が有力なのでしょうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%80%E6%9D%BE

上記のwikipediaによると、「亀松」の生年は、『徳川幕府家譜』では寛永20年、『江戸幕府日記』では正保2年2月29日(1645年3月26日)となっているそうです。

『徳川幕府家譜』の寛永20年説と『江戸幕府日記』の正保2年説はどちらの方が信ぴょう性が高いのでしょうか?

また、wikipediaの最後の所に、「生まれた年の9月11日に宮参りをするが、正保4年8月4日に5歳(または3歳)で夭逝した。」とありますが、

『徳川幕府家譜』で亀松の所を調べてみたら、寛永20年2月29日御誕生、正保2年9月11日御宮参、となっておりwikipediaの「生まれた年の9月11日に宮参りをするが」の部分と矛盾しています。

この事から、『徳川幕府家譜』の方が間違っていて、『江戸幕府日記』の方が正しいのではないか?と思うのですが、本当のところはどちらの方がより信ぴょう性が高いのでしょうか?

●質問者: unakun
●カテゴリ:学習・教育 芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 2/2件

▽最新の回答へ

1 ● naykrsa727
●0ポイント

寛永20年説ではないでしょうか。
根拠はありませんが、(当たり前ですが)
家譜 と 日記を比べ、生まれた年などが正確に書かれているのは、普通に考えて
家譜の方ではないでしょうか。
日記の場合、誰かに聞いて書くということがあったでしょうから。
(江戸時代だから)

いまいちまとまらず、すいませんでした。


2 ● cider_kondo
●1000ポイント ベストアンサー

個人ブログですが、
http://blog.livedoor.jp/a0r1a2m3a4r5i-livedoor.jp/archives/2579704.html
およびこの人の質問と思われる
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11119844316
を見ると、正保2年説が有力なように思われます。

文中で登場している「徳川幕府事典」は竹内誠氏(江戸東京博物館館長ですね)が編者と書いてあるので、2003年刊行の比較的新しい年代の本であり、それ以降、何か新史料が出てない限り、寛永20年説は主流説ではない、と退けて問題ないように思われます。
というのも、ウィキペディアが寛永20年説の根拠としている徳川幕府家譜も「徳川幕府事典」の参考文献に含まれており、それでなおかつ正保2年説を採っているということは、専門家の判定ではそちらが正解だとみている、ということになるからです。

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