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授業のキリスト教の歴史でわからなかったこと。東西教会の分裂はローマ法王側とコンスタンチノープル総主教側が相互に破門し合って決定的になった、という単純理解しか得られませんでした。当時、5大総主教座があった筈で、序列があったにしても(?)、本質は対等だったように教科書・参考書に書いてます。ローマ法王側とコンスタンチノープル総主教側が争っても、アレキサンドリア総主教座や、アンティオキア総主教座や、エルサレム総主教座は、どういう態度だったか。この3つの動きが教科書・参考書では触れてないです。
また、ローマ法王側の支配地域(教区)とコンスタンチノープル総主教側の支配地域(教区)が、それぞれ一枚岩であった筈ないですよね。西の方にも、コンスタンチノープル側の有力者と親しい人や、神学理解の近い人もいた筈で、その逆もあった筈と思います。そういう人は、不利な立場に置かれ結局は没落させられたり、相手側の地域へ移り住まざるをえなかったり(また、相手側の地域で高いポストを得て)して、時間をかけて、東西でそれぞれ一枚岩化したんでしょうか。教科書・参考書では全くわかりませんがどうでしょう。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
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