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<「オーストリア大公」に関連して> 「内オーストリア大公」、「前方オーストリア大公」とはどういうものですか。「オーストリア大公」という称号(エルツヘルツォーク)なら知っています。オーストリア専用です。他の領邦君主も名乗ろうとしなかったし、ハプスブルク皇帝も一族以外には与えなかったです。皇帝一族の男子がみんな名乗る原則でしたが、別に、それぞれに大公領があったわけではないと理解してますが、この理解でよいですか。

ところで、聞きたかった眼目は、「内オーストリア大公」、「前方オーストリア大公」とは、どういうものか(由来)ということです。下のサイトに出ています。皇帝が、自分の一族の為に与えたのだと思います。オーストリア大公とは別に追加で与えたんでしょうか。また、これを貰った人は、それに対応する領地(内オーストリア大公領、前方オーストリア大公領)というのが名目的にでもあったのでしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%90%9B%E4%B8%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7 ←これです。
これは参考→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%A4%A7%E5%85%AC

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答1号

領地を一部しかもらっていません。
内オーストリア ― Innerösterreich ? Wikipedia
前方オーストリア ― Vorderösterreich ? Wikipedia


匿名質問者さんのコメント
ありがとうございます。オーストリアといっても広義教義でいろいろな領域がありますけれど、最狭義の「オストマルク辺境伯領⇒オーストリア公領」とは別の領域なのですね。 (1)「前方オーストリア」というのは、もともとハプスブルク家がドイツ王位(皇帝位)を継ぐようになる前からハプスブルク家が地盤としていた地域とその周辺で、スイスの領域(伝説かもしれませんが、ウイリアムテルによりハプスブルク家は追放)、エルザス地方の一部とか、このあたりを指すのですね(語学が不得意なので、不正確です)。プシュミル朝のオタカルを破る前から持っていた、ハプスブルク家にとってのゆかりの地ですね。最狭義のオーストリアという領域とは本来は関係ないですね。 ちなみに、最狭義オーストリアとは地続きかどうかちょっとわかりませんでした。地続きではないみたいに感じています。 (2)「内オーストリア」は、シュタイヤーマルク?スロベニア?イストリアへと続くあたり(語学が不得意なので、不正確です)の領域であって、もともと最狭義のオーストリアと呼ばれる地域には属していませんですね。

質問者から

『前方オーストリア』・・ハプスブルク家にとって、前方にある
という意識だったんでしょうか?
海に面するネーデルランドへと飛び飛びに
通じていく地域ですね。
土地は地続きではないですが。
だから、「前方」なんでしょうか ?
なんとなく、気になります。
『内オーストリア』・・・どうして『内』なのか、わからないです。
ハプスブルク家にとり、
裏庭=中庭という意識なのでしょうか?
しかし、オスマン帝国との戦いでは
最前線でした。考えようによっては、
最前線は、ハンガリーですけれど。
内オーストリアを経て、
地中海に地続きで繋がります。だから、
『内』なのでしょうか?
本来、皇帝が目指すイタリア=ローマ、
これを意識して『内』と呼んだのか?
東洋人の私には、ピンときません。


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