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奈良時代の日本書紀や古事記、平安時代の源氏物語や紫式部日記の流通?について
古事記も日本書紀も形式的には献上本だと思うのですが、それらが上流階級に流布され読まれた事情はどういうものでしょうか。そうしたことを強要あるいは準強要する制度や風潮があったのでしょうか。
紫式部日記が流布され読まれた事情はどういうものでしょうか。源氏物語は手書き同人誌のような形で執筆者が知人友人に回して読んでもらう方法で、途中で筆写したり読み聞かせるような仕組みだったのでしょうか。 一条天皇が日本紀を読んでいたんだなと感想を述べるというとは、日本紀が来ぞきだけでなく、女房らにも読まれていることをは常識と考えていたと言うことなのでしょうが、天皇になる可能性のある人々は日本紀がどのような人々にどのように流布読まれていたのかを、どのようなことから知っていたのでしょうか。

自分で調べないで、安直に手がかりをしりたくて、質問します。

●質問者: hathi
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 6/6件

▽最新の回答へ

1 ● adlib
●34ポイント


…… 「紫式部日記」によれば、1008年11月1日の時点で、宮中で源氏
物語が読まれていたのがうかがえ、1日でちょうど1000年になる。

寛弘 5.1101(10081201 J/G 1207)宮中で、歌を詠まれたらしい。
寛弘 5.1110(10081210 J/G 1216)執筆中の《源氏物語》を製本か?

── 11月1日、敦成親王の五十日の祝いで詠歌。公任に声をかけら
れる。11月10日ごろ、『源氏物語』冊子作り。
11月ごろ、道長、『源氏物語』の草稿を持ち去る。
── 《紫式部年譜 0968-1019‥‥ 》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20081101
古典の日 ? 源氏物語千年紀 ?

http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4003001575
── 《紫式部日記 1008‥‥ 19641118-19960515 岩波文庫》


2 ● sibazyun
●34ポイント

平安時代の「日本書紀」ですが、「国宝 日本書紀」の解説(*)によると、
「『日本書紀』は完成当初から歴史書として重視され、平安時代にはしばしば講義が実施された。そのため平安時代に遡る古写本も少なからず現存する・・・」
とのことです。つまり、準強要というか、帝王学の教科書だったのでしょう。


(*)


sibazyunさんのコメント
(*) http://www.narahaku.go.jp/collection/1190-0.html を忘れていました。

3 ● miharaseihyou
●33ポイント

強要と言うよりも教養ですね。
日本書紀は当時の政府の歴史に対する公式見解です。
かなり歪曲された歴史書ですが、史記ほど酷くはないかな?
殿上人となって役が付けば何でもやらされる可能性がありましたし、記紀は故事来歴以前の基礎教養の一つだったと考えるべきです。

また、見過ごしてはならないのが当時は印刷技術が無かったって事です。
当時の本は原本を除けば100%写本、人の手で書き写された手作りの本でした。
献上本というのは当時の最高の学者によって作られた写本でした。
多くの原本は秘蔵され、歴史の狭間で失われることもありました。
写本にしても数は少なく、紙が高価だったこともあって貴重品でした。
文字を読める人、書ける人、全て当時のインテリです。
現在と比べると情報砂漠と言っても良いでしょう。

源氏物語などの物語について言えば、当時の貴重な娯楽という側面もありました。
言葉で遊ぶのも殿上人としての基礎教養の一つでしたし、折に触れて有名な物語の一部を引用するくらいは楽にこなしていたようです。
なんせ、憶えなければならない情報の数が少なかった。
今の学生のように科学や芸術や数学や果ては外国語までやらされるような時代ではありません。
情報は限定され基礎的な教養は殿上人の常識として共有されていました。

写本と言えども高価な貴重品ですから、多くは親しい人から借りて読む回し読みだったようです。
基礎教養がなければ上流社会の仲間として認めてもらえませんでした。
当時の武士が実力はあっても卑下されたのは基礎教養に欠けることも一因でした。

有名な本は写本の写本の写本の・・と言うように、頑張って書き写されることも多かったのですが、時代が下るにつれ言葉そのものの定義や発音すら変遷している状況で、当時は国語事典すらなかった。
途中で様々に変化した写本が多く残されています。
言葉が統一され学問的に整理されたのは明治以降と思ってほぼ間違いないでしょう。


質問者から

adlibさん、sibazyunさん、miharaseihyouさんありがとうございます。日本紀講筵で講義がなされたのは30年(812年(弘仁3年)843年(承和10年)878年(元慶2年)904年(延喜4年)936年(承平6年)965年(康保2年))に一回のようですね。しかし、写本を受講者が持っていたわけではないようですし、博覧強記の方が熱心に受講したとしても普及していくスピードや広がり、人数はかなり限定されてしまいそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E7%A7%81%E8%A8%98 講義や私的講義を聴く機会は10世紀後半でも誰にでもあったとは思いにくいです。一条天皇(980年?1011年)はこうした講筵とは別で日本書紀全巻の講義を受けたと理解することは出来ますが、紫式部はどうした機会に日本書紀の内容を知ったのだろうと一条天皇が推測できたのがわからないです。
日本書紀の原本写本、あるいは二次三次写本が当時それなりの数作られ、貴族階級では所持されていたのでしょうか。
源氏物語そのものは回覧講読され、そうした催しがあったことは想像出来るのですが、私的日記が流布あるいは回覧講読されるという状況が想像出来ません。御堂関白記のようなものも数多く書いたひとはいたでしょうが、それを読める状況にあったのは非常に限定された人だとしか思えません。
「言葉で遊ぶのも殿上人としての基礎教養の一つでしたし、折に触れて有名な物語の一部を引用するくらいは楽にこなしていた」「情報は限定され基礎的な教養は殿上人の常識」であるのはわかるのですが、歌集や物語のようなものなら、状況として理解できるのですが、日本紀や日記がそうした基礎教養になり得る具体的場面や状況が、さっぱりわからないのです。日本紀は、日本紀講筵のような仕組みに組み込まれるということはわかるのですが、学習者がテキストを持っているのでもなく、科挙制度のようなものもないので、事実としては30年に1度の国家行事イベントに参加出来るというだけのように私には思えてしまいます。
そのあたりに関して、今少し「そういうことだったのか。それならば、位階の高い貴族やそうした人に接する高位の女も、日本紀の内容を知っていそうだ」とイメージ出来るようなことを教えていただけますか。 また紫式部日記はどのように流布したのかについても、よろしくお願いします。


4 ● miharaseihyou
●33ポイント

だいたい昔の歴史では、文字が使われ始めれば必ず、国家事業として歴史の編纂が行われています。
どこでも自身の国家を歴史で箔付けするのが主な目的だと思って間違いないでしょう。
だから、もちろんというか、記述される内容は歴史的事実そのものではなく、改竄された国家にとって都合の良い歴史が記述されることになります。
まあ、世界の常識ってヤツですね。

日本は世界で初めて歴史ではない「物語」を多く残していますね。
それも貴重な紙を使って、当時の最高の教養を持つ文化人が執筆して・・です。
しかも、それが代々伝えられて、・・・と言うことは何度も何度も書き写されて保存され伝承されてきています。
これが歴史書とか宗教の聖典とか神話とかなら世界中でありふれた現象で、それほど珍しいことではありません。
しかし、源氏物語に始まり枕草子や徒然草など、一見して明白な実利的な目的を持たない書物が多数製作され、伝承されてきています。
同様に、万葉集に始まる詩集も、古今和歌集などなど、多くが皇室主導で製作されています。

これらの書物には記紀の記述を受けた内容が多数出てきます。
また、それ以上に特筆されるべきなのが、とても美しい言葉で書かれているってことです。
この事実には言霊信仰が深く関わっています。

美しい言葉と言うよりも、穢れた言葉が使われていない・・と言う方が事実に近いでしょう。
穢れのない言葉の世界を継承し発展させることは当時の国家事業だったのです。
美しい言葉が世に満ちることにより不幸なことが起こらなくなると考えられていたからです。

伝承には書物が使われることもありましたが、多くは口伝だったと考えられています。
口伝の大元である原本は権威の象徴であり、多くは皇室が所有していたようですが、皇室の権威が低下した時代には摂関家などを中心とする貴族が所有していたようです。
かれらは書物という宝物を所有していたのです。


hathiさんのコメント
原本は権威の象徴であり、多くは所有者が大事に保管管理して、よほどのことがなければ、他人や使用人に貸したり持ち出したり読ませたりはしなかったろうというのは、想像の範囲で納得出来ます。 また口伝が大きなウエートを占めていたのもわかりますが、天皇も祭事での多くのしきたりを覚えることや、日々の日常活動も細部まで決まっていて、和歌や書などの才能も磨かなければならないので、日本書紀や古事記などの史書の類の講義を博士から受けるにしても、膨大な内容は概要を記憶しておくのも大変だったろうと思います。家柄の高い名家や皇子やその子孫でも状況は同じでしょう。 そのような状態を想像してしまうと、源氏の物語りを聴いたときに、作者は日本紀に明るいと思う天皇がいるというのは、どうも理解しにくいです。 特に作者が女房、女官のようなものだと知っているのですから、女房や女官にはそうしたことに相当明るい者がいるはずのシステムが内裏には存在していると、一条天皇が知っているということを想定しないとならない可能性を思い浮かべます。 しかし、内裏の女官や女房登用までの具体的なシステムと日本紀の学習機会がさっぱりわかりません。(日本紀の原本や写本は簡単に読める状態にはないはず & 女官の教養の範囲から考えて日本紀はちょっと対象外のように思える) http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/13.htm https://oshiete.goo.ne.jp/qa/153889.html

miharaseihyouさんのコメント
今の言葉で言えば、天皇には側近がいて予算が使えて、馬鹿でも務まったって言えば分かるかな? 近親婚を続けた皇家が遺伝異常の嫡子を立てるってのもある程度あったし、権力の分散を避けるために近親婚を繰り返す必要があったという事情もある。 だからこそ摂関家が外戚として権力を掌握したわけだし、直流は既に絶えているって推測する向きもある。 T天皇は白痴だった?って噂?もあるくらいだし、嫡流の継嗣が産まれにくいというのは公然の秘密だった。 権力がたくさん集まる家は多かれ少なかれ同じような事情を抱えていて、江戸時代になって分割相続が長子相続に変化したのも、その辺りの事情が影響している。

hathiさんのコメント
一般的には、どこの家系でも数代で途切れることはよくあります。 近親婚だけを原因とみるのは早計です。 個人?親子で代を継ぐ経営体が数代で「ヘッドが悪い」ことが原因なのか衰退することはとても一般的です。 こうしたことは多くの人が知っていて、婚姻でも正室だけでなく、色々手立てをとっていた有力者、有力事業者でも同じです。 近親婚を継続するとヤバイと単純に思わないことも、事実を知るためには大切なことを知っておいて損はないです。 ヘッドが切れ者ではなくても、側近や体制が支えうまくいくことが多いのも周知のことです。 民主主義とか、専制独裁を忌避し組織力でカバーするのはそうした経験の上に立っていることも知っていて下さい。 分割相続が長子相続に変化したのも単純な事情ではないですが、土地に関しては分割できる余地がなくなったという事情、また商家では資本力や組織力は分割したら落ちるという当たり前の判断のためというのが大きいです。 コメントは自由ですが、考慮するべき価値や意味ある情報提供になることを心がけてコメントしてください。

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