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現代エジプトの少数派であるコプト教徒(非カルケドン派のキリスト教徒)の先祖ですが、ローマ帝国時代はどんな状況でしたでしょうか、カルケドン公会議の後の状況です。ローマ帝国の国教であるキリスト教は、カルケドン会議を受け入れている主流のキリスト教だったと思う筈ですから、非カルケドン派は異端とはされ追放となる危険はなかったんでしょうか。迫害などあったでしょうか。また、迫害まではいかずとも、不利益を得ていたんでしょうか。

現代のエジプトで、残っているキリスト教徒は、約10%がコプト教徒(非カルケドン派)とされますが、ローマ帝国で主流派であったキリスト教徒はどうなったのか、不思議の感じがします(主流派のキリスト教徒は、イスラムに改宗していったのかな、と思いました。そもそも、ローマ帝国内のエジプト地域では非カルケドン派が主流だったのかもしれませんが)。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答1号
ベストアンサー

他の異端問題と同様に、かなりの迫害があったようです。

The Melkite Patriarchs, appointed by the emperors as both spiritual leaders and civil governors, massacred those Egyptians they considered heretics. Many were tortured and martyred in attempts to force their acceptance of the Chalcedon terms,

Coptic Orthodox Church of Alexandria - Wikipedia, the free encyclopedia

東ローマ帝国が任命した総主教は、異端と考えたコプト教徒のエジプト人を虐殺しました。多くは、カルケドン信条を受け入れるよう迫られて拷問された上に殉教した人たちです。

それでもコプト教が消滅しなかった理由は、支配者である東ローマ帝国への対抗心と言われています。

For nearly two centuries, Monophysitism in Egypt became the symbol of national and religious resistance to Byzantium's political and religious authority.

Egypt - Egypt under Rome and Byzantium, 30 B.C.-A.D. 640

東ローマ帝国による弾圧が過酷だったため、7世紀のイスラム帝国による支配に対するエジプトの抵抗は比較的少ないものだったそうです。


匿名質問者さんのコメント
ありがとうございました。東ローマ帝国による弾圧はずいぶんひどかったのですね。サラセン帝国による扱いは、ずっと穏やかだったのだと思います(たぶん、ジズヤを払えば済むとか)。エジプト人にとっては、特に非カルケドン派キリスト教徒にとっては、キリスト教(非カルケドン派)を守りつづけたとしても、サラセン帝国からオスマン帝国に至る時代の方が、東ローマ時代よりも、ずっと住み易かったということになりますね。ファーティマ朝の時代(つまり、シーア派系)においても、住みやすかったんだとおそらく推測いたします。 次の英文を見ると、サラセン帝国侵攻時のエジプトのキリスト教徒は、今で言うコプト教系が中心のようですね。 Almost the entire Egyptian population rejected the terms of the Council of Chalcedon and remained faithful to the native Egyptian Church (now known as the Coptic Orthodox Church of Alexandria). すると、現在のエジプトのイスラム教徒は、他所から移住してきた人を別とすれば、もともと、コプト教を信仰していた人たちと解せますね。メルキト(つまり、カルケドン信条を受け入れた系統)ではなくて、非カルケドン派の人達が主体ということになってきますね。もちろん、厳密な話ではなく、Wikipediaをさらりと読んだ程度による結論です。
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