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聖徳太子は、遣隋使に持たせた国書で、日本の天皇を「日の出づる所の天子」と称し、隋の皇帝の臣下ではない、冊封を受ける立場ではない、ことを示したとされていますが、その後どうなったのでしょうか。
?まず、そもそも、隋からの返書にはどう書いてあったのでしょうか。
?次に送った使節の国書(遣隋使の国書、遣唐使の国書)には何と書いてあったのでしょうか。

>遣隋使においては聖徳太子が「天子の国書」を送って
>隋の煬帝を激怒させたといわれていますが、
>結局は隋からは倭王として臣下の扱い(冊封国)を
>受けるとされています。 http://web.joumon.jp.net/blog/2009/05/815.html

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

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1 ● 匿名回答1号
ベストアンサー

ここにある程度まとめて書いてありますよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A1%A8%E6%96%87

あと時代背景なんかを知る上でこちらも併せて読んでおくといいかも。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%85%AC%E5%B8%9D


匿名質問者さんのコメント
ありがとうございました。 中国側の記録によれば、第2回目遣隋使として、阿毎多利思北孤「日の出づる所の天子」と称した国書の前にも、遣隋使があったのですね。 中国側の返書の記載が分かれば、と思いました。
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