判例というのは、正確には、最高裁の判決、それ以外は、裁判例と呼ぶそうです。裁判例には、その後の判決を縛る効果はないのかもしれないです。
そうであれば、とりあえず、最高裁の「判例」という意味で、考えております。
ただ、ジュリストを見ると、時々、最高裁の判決でないものが、出ています。一定の法源として扱うのだと思います。
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判例がでれば司法及び行政で必ず迅速に参照されます。つまり世間へフィードバックされるのが普通です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A4%E4%BE%8B
「法律の公平性の維持」のためです。
裁判官だって一から理論を組み立てるよりは巨人の肩に乗ってクオリティをあげるべき。
ただ、世情がかわったときはその限りではないでしょう。
未整備だった部分に立法されたりすればそこからは従来の判例法はもちろん一旦無効になりますね。
係属中事件以外では新法の立法趣旨のほうが優先されるようになります。
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「判例および世相が公平性維持のために参照されるべき」
とは別に
「対世効はない、第三者効はない」も事実です。
これは、争いに必ず個性というか、個別の事情があるからです。
「口がすべった」「最初は怒っていたので勢いでそう言ってしまった」ということは
その裁判の中では厳密に証拠として採用される。
でも結審したらそれを蒸し返すなということです。
例えば「1970年の裁判判決のなかで「こんな儲からない仕事はもう二度とやるもんか」と捨て台詞をいったから、A社は2016年で世情がかわっているけれども「そのもうからない仕事」を永遠にやってはいけない」とすると、不合理だからです(いわゆるセンテンススプリングなどゴシップメーカーはそういう部分をあげつらったりほじくりかえすことも多いですが、そのためにも常に「対世効はない、第三者効はない」といってあげられる司法でないといけません)。
A社は数年すれば社長も変わるし資本も入れ替わるし経営スタンスも変わるでしょう。
人間だって昨日と今日で対応をかえるのは自然な成長、進歩です。
それを無理やり過去の過ちがおきた一つの時点に固定させてカプセル化しているのが裁判です。
特殊な部分で主張とか争いがあったり、今の常識と違う事情、違う法律があったのならばできるだけ(情状参酌で)判決(主文以外の)にきちんと書き残すでしょうから、そういう事情がある判決は対世効フィードバックへの阻害要因になります。
つまり、個別の事情という夾雑物のまざらない上澄み(法的理論構成)だけすくって使い回すのが適切な判例法だろう。となります。
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原告被告が「馴れ合」えるかですが、メイン法解釈にかかわる部分でそんな余地があったら
そこですかさず和解を進められる印象があります。
結局慣れ合いが裁判例とはなかなかならないはずです
(というか裁判官って和解以外で甲乙両者の思惑が一致したとしてもその思惑に思うようにはなかなか動いてくれません。お互い力をつくして争ってみせないと。両者がなぜかちらちら裁判官の顔色伺ってて和解しないとなると面倒なのか、なんかすごい斜め上のことを言い出すので気が抜けないという感じがあります)。
証拠認定などでちょっとしたごまかしがあってもちょっと外からはわかりませんが、それは各々の事件ごとですから主文やら判例法にまで影響を及ぼさないでしょう。
有能な弁護士団とは、裁判官がいかにも採用したくなるような見通しのよい理屈(または、おとしどころ)のありかをよく知っていてそれをまっしぐらに主張できる、過去をよく勉強している弁護士団。また、不利な裁判は国選でもないかぎり引き受けないし引き受けても早期の和解をすすめる弁護士団のことでしょう。
と、ここまでが建前ですが。
慣れ合いとはちがいますが、はたからみていて、これ判例法大丈夫?とおもってる判例は結構あります。
たとえばここ20年くらいの著作権を中心とする知的財産の裁判例や判決を見ているとまさにそのような感じをうけます。
被告原告の両者がずっと「写した」「真似してない」で争い続けていたら、そもそも論にもどって著作権法第二条にこだわって、原告の知的労働の成果を「思想も感情も表現されていない、だから著作物とは認めない」とされた裁判例がいままでいかに多いことか。
しかし一方で著作物性が怪しい案件でも被告がまず「あの人の著作を見て参考にしました/写しましたすみません」と認めると、そこには争いがない、でそのまま被害額算定に進んじゃう印象があり、んんん???ってなります。えっ、どういう理屈で著作性を判断しないままやっちゃうのかなと。こんなことでは判例法にしようにも統一した基準は抽出できないのでは。というか、もしかして和解に一番近い方法をその場その場で選んでませんか(算定される被害額もすごく少ない場合がある)。著作物性の明文基準が(二条のあやふやなもの以外)ないので、特に個人著作者は盗作されても安心して起訴できません。もちろん、全員の「起訴」が勝訴すべきものでもないとおもいますが。
著作権分野は確かに有能なフリー弁護士も少ないのですよね・・(母数が少ないので大手出版社とかが取り合いになって忌避が・・)これだと判例を調べても巨人の肩もなく、せいぜいあっちこっちバラバラな力士の肩くらいですね。
まあ、当事者の感情のこじれをそばでみている裁判官なので、いちいち口に出しては言えないけれど、それぞれでそう判断すべき何らかの「心証」が形成されたんだろうとおもいます。
そして裁判官も有能弁護士に負けず先輩後輩のつながりとか、対象になる行政部門が元裁判官の講演会にいったりして「勉強」していくのが普通です。
「勉強」があればちゃんと後輩は悪い例を判例法にしたりせず心証という部分もよくみて、受け継ぐべき判例だけから判例法を抽出していってくれるだろう。と信頼するしかありません。
外から見ていていえることはそのくらいです。
優秀な弁護団とは、落としどころが読める弁護団というご指摘がありました。大変勉強になりました。
他方、相手方が、迂闊な訴訟を進めているとき、または、何らかの主張をしており、それが本論点では不都合な主張になっていて、それに反する主張ができないとき、そこをうまく突いて、妥当であるかどうか別として、依頼人側に有利な落としどころへと導くのも優秀な弁護団ではないか、と思っております。私の理解では、弁護人は、真実の究明というよりも、依頼人の利益を追求するのだと思っているからです。よって、どちら側から依頼されるかにより、微妙に主張が変わったり(180度変わったり)すると思っています。
誤解かもしれませんが、実際には、そういう弁護士さんが優秀な弁護士として、闊歩されるのが実態ではないかなぁ?と思っています。
というわけで、重要な論点がある訴訟では双方、互角の能力の弁護団を抱えて、きちんとやりあってほしいと感じます。
ちょっとまた余計なことをいいにきました。
弁護士団VS弁護士団の戦いとなるのは民事裁判です。
刑事裁判は一般的に弁護士団VS検察官(警察官や刑事をまとめる人)となるわけです。
検察官は公務員であって国によって研修され品質が保証されているのに対し、
国選弁護人は、自営業者である弁護士が、わざわざ義によって引き受ける
ボランティア仕事として受け止められています。
まあ、犯罪は被害者がいるものなので当然厳しく追求されねばなりませんが、
民事中心のいわゆる離婚弁護士にも当番がまわってくる。
たいてい検察のほうが有能です。
ところが民事では、どちらも私的なツテを用いて弁護士を用意し、
そのジャンルが得意な弁護士は十分な母数がなくお金持ち(大企業)に独占される。
したがって、裁判官は、民事では(自分でどうやらこちらの弁護団の能力が怪しいとおもっても
それを指摘することもできず、自分が出て行って十分な証拠調べをすることもできないので)
相手の有能すぎる弁護士に
「もうわかったけど、あなたも、もっとふんだくろうとして
敢えて隠してある法的弱みがあるでしょ。
そこまでするのはやめたら?」とヒントを出すくらいしかできない。
そして和解などの当事者同士の解決をすすめる傾向にある。
和解ならへんな証拠に基づいたへんな判例を無理やりかかされることもないし、
後世の評価とか判例法にも影響しないですしね。
ちょっと勉強したあとで裁判の傍聴にいくと
そういう細かい流れ(片方をたしなめてるなど、裁判官の心証の動き)が見えておもしろいですよ。
判決よりずっと生々しいそうです。
裁判長!ここは懲役4年でどうすか - Wikipedia