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生きていることが死ぬほど嫌ならば、死んでもいいのでしょうか?

たとえば、私は学校に行くことが死ぬほど辛いのならば、学校に行かなければよいと思います。
死ぬほど辛くて自殺してしまうよりは、学校に行かずに生きているほうがいいように思うのです。

生きていることが死ぬほど辛いのならば、辛さの原因を取り除くことを考えたほうがよいと思うのです。

ですが、自分が生きているということ自体が、死ぬほど嫌な場合はどうすればよいのでしょうか?
何か取り除ける具体的な死ぬほど嫌なことがあるわけではなく、自分が生きているというそのことが死ぬほど嫌な場合です。
死ぬほど嫌ということが、死ぬことでしか取り除けないのです。

死ぬほど嫌な生を生きることと、死んでしまうこととには違いがあるのかないのか。どちらがましなのか。
生きていることが死ぬほど嫌ならば、あなたはどうしますか?


●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:人生相談
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 9/9件

▽最新の回答へ

1 ● 匿名回答1号

タイトルになっている、いい悪いに関しては、
それを示せる基準は法律か宗教くらいしかありません。
宗教はたいてい自殺を悪と定義しています。
法律では安楽死法が制定されている国や地域なら
特定の条件下に限って悪とは考えないものの、
そうした法律の存在が意味するところというのは、
基本的に自殺は悪だとする風潮が社会には根強いのだという
動かしがたい証拠でもあります。

精神論で語るならば、少なくともその死を悲しむ人が1人でもいるならば
自殺は思いとどまったほうがよいです。
自殺を決意したその人自身は死んでしまえばそれでおしまいですが、
その人の残された家族は身内の自殺という選択を阻止できなかったという
重い十字架を死ぬまで背負って生き続けなければならなくなります。

たとえば学校でイジメを受けていたようなケースであれば
親に同情が寄せられるからまだ救いがあるんでしょうが、
そうではない理由も不明な自殺なら、親にあらぬ疑いが向けられかねません。
そうした残された人が今後置かれるであろう立場に思いを馳せても
なお自殺願望が勝るというのであれば、
それは他人を思いやる心というのが根本的に欠落しているんだと思います。

ではもし仮に、その両親が原因であった場合ですが、
これも学校の例と同じく親から物理的に離れればいいわけでして…


匿名質問者さんのコメント
たしかに身近な人を悲しませるかどうかというのは、生きているか死んでしまうかで大きく違ってきますね。 他人を思いやれる心があれば、自分が死ぬほど嫌なのにも耐えて生きていけるのか、難しいところではありますが…。 ご回答ありがとうございます。

2 ● 匿名回答2号

その「生きているのが死ぬほどイヤ」な人は、2000年代の日本での「生きる」しか見たことがないし知らないからでしょう。
他の国にいったら、けっこうみんな自由にやってます。強盗ももっとおそろしい事件もありますが、けっこうだらしなくのんきに、たまには友達のお金でぱーっとあそんで、「日本でいうダメ人間」なりに幸せにやってますよ。
自分はもっとだらしなくていい、ということを知らないまま生きるのはたしかに、一つの不幸かもしれません。


匿名質問者さんのコメント
「こうでなければいけない!」という理想の生き方があり、『今』『ここで』生きている(理想とは違うだらしない)自分が死ぬほど嫌になっているのかもしれないということですね。 視野を広げることで、今ここで生きている自分でも妥協できるようになるでしょうか。 ご回答ありがとうございます。

3 ● 匿名回答3号

まあなんちゅうか
「生きていることが死ぬほど嫌ならば」
という前提がナンセンスだと思うのです。そんな状態はあり得ない。

いや、本当にそう思ってるんだ、という人もいるかも知れません。
が、それってただの思い込みとか大袈裟な自己陶酔とか勘違いって奴です。
だって、その人が今生きているわけですから。

生きていてたまらなく嫌な事があって、いっそ死にたいくらいだ、と思うことはままあるかもしれません。
でもなんか生きてることにちょっとでも執着があるから生きてるわけでしょう。

ほっといたっていつか必ず死ぬんですから、死ぬほど嫌だなんて決め付けずに、生きててよかったなと思えることを探してみればいいんだと思いますけどね。


匿名質問者さんのコメント
たしかに、「生きていることが死ぬほど嫌」だということは、「生きていることが死ぬほど嫌(だと思っている)」だけの思い込みや決めつけであるかもしれないですね。 ただ、「生きてることにちょっとでも執着があるから生きてる」とも限らないと思います。人間は生きることが死ぬほど嫌でも、生きることに執着がなくなっても、自動的に死んでしまうようにはできていません。 生きていたいという執着ではなく、死ぬことへの怖さ(痛いのでは苦しいのでは)で踏みとどまることがあります。 また、生きててよかったな、楽しいな、と思うことはあっても、生きているのが死ぬほど嫌だなという思いは共存するように思います。たとえば、自分の大嫌いな芸人がテレビで面白いことを言って(面白いな)と感じて笑いはしても、それでも大嫌いなことには変わりないような…(上手なたとえが浮かばなくてすみません) ご回答ありがとうございます。

匿名回答3号さんのコメント
死ぬことへの怖さ(痛いのでは苦しいのでは)で踏みとどまること それもまた、「生への執着」だと僕は思います。 ちょっとでも「死にたくない」と思えるのならそのキモチを大事にすればいいんです。 また、楽しい事と嫌な事が共存するのは当然のことです。 世の中はいやな事ばかりと嘆くのも、昨日の焼肉うまかったなあまた食いてえなあと夢見るのも、その人次第。

匿名質問者さんのコメント
なるほど、たしかに死ぬことへの恐怖で「死にたくない」と思うことも、(あまりポジティヴなものではありませんが)一種の「生への執着」ですね。 また、気持ちの持ち方や物事のとらえ方で、生きているのが嫌じゃなくなるようになるのかもしれませんね。 ありがとうございます。

匿名回答3号さんのコメント
興味があれば、ですが。 僕的には色々参考になった本なので紹介しておきます。 https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4840107718/

匿名質問者さんのコメント
意外な本でした。見つけて読んでみようと思います。 ありがとうございます。

4 ● 匿名回答4号

ちなみに「自分が生きているということ自体が、死ぬほど嫌な場合」とは、どういう状態なのでしょう?
『潜水服は蝶の夢を見る』のジャン=ドミニック・ボービーのような状態だと、尊厳死もやむを得ないという気はします。


匿名質問者さんのコメント
ご質問とご回答ありがとうございます。 「自分が生きているということ自体が、死ぬほど嫌」というのは、その言葉のままで他の言葉で説明するのが難しいのですが…。何かが原因となって嫌になっているのではなく、自分が生きているということが純粋に嫌で認められないような。 ある人の顔も体つきも声も性格も何もかもが嫌いであっても、その人を好き、あるいは愛しているということがあります(すごく稀ですが)。たとえば、親は自分の子どもの外見も内面も何もかも嫌い(不細工だしわがままだし何もかも良いところがない)場合でも、好き(愛している)ということがあると思います(そうじゃない親もいるとは思いますが)。 同じように、自分の何が嫌というわけでなくても、「自分が生きているということ自体が、死ぬほど嫌」ということもあり得ると思うのです。 『潜水服は蝶の夢を見る』は存じ上げませんが、おそらくジャンさんのような状態とは違うと思います。他者から見える部分だけで判断すると、尊厳死もやむを得ないとは思ってもらえないと思います。 本人からすると、尊厳死させてもらえたら幸せだなという状態です。

5 ● 匿名回答5号

生きていることが死ぬほど辛いのならば、辛さの原因を取り除くことを考えたほうがよいと思うのです。
ですが、自分が生きているということ自体が、死ぬほど嫌な場合はどうすればよいのでしょうか?


良い点を突いていると思います。実は何が辛いのか、わかっていないのではないでしょうか?

学校の成績、周りの人間関係、あるいは健康問題であったり、ちょっとしたことが改善するだけで、生きることが楽しくなります。

特に思春期、青年期は様々な課題を抱えて生きることが辛いと感じることが多くなります。(学校を例に出されていたので、学生さんでしょうか?)

ゆっくり、この生き辛さと向き合ってみてください。私は、生きること自体が、質問されてる方にとっての辛さの原因ではないのではないかと思っています。

どういう時に辛いと思うのか、あるいは楽しいと思うのか、ゆっくり向き合ってみてください。

「分からないこと」と向き合うことは、今後の人生でも重要な能力、糧のひとつになると思います。

また、この生き辛さについては、心理学者のマズローやエリクソンが提唱した自己実現論や、発達課題といった概念がもしかしたら関係しているかもしれません。

マズロー 自己実現論
http://bit.ly/2bGiHmG

エリクソン 発達課題
http://bit.ly/2bRZXEa

は?お前何言ってるんだ?と思われるかもしれません。もしかしたら、見当違いな回答をしていると思います。

酔った勢いで書いてるので、どうかご容赦を、どうか良い1日を :)


匿名質問者さんのコメント
なるほど、「自分が生きているということ自体が、死ぬほど嫌」とはいっても、その原因になっている何か具体的な辛いところがあるはずだ、ということですね。 その具体的な辛さを見つけて、ちょっとした改善があるだけでも、生きるのが楽しくなると。 ただ、なんとなくですが、生きているなかで辛いことばっかりで楽しいことがない(原因)から、生きるていることが嫌(結果)。とは違うように思うのです。 生きていることが嫌(原因)だから、生きていることが嫌(結果)のような(駄々っ子のようですね)。辛いことがそんなになくても、楽しいことがたくさんあっても関係ないというか、それは別問題のような…。 ご回答ありがとうございます。回答5号さんも、良い1日でありますように。

匿名回答5号さんのコメント
原因、結果、なるほど。 私も、ひとつ賢くなりました笑 差し出がましいこと、多々申し上げました。 ご返事いただき、ありがとうございます ;)

匿名質問者さんのコメント
いえいえ、ご意見ありがとうございました。

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