人力検索はてな
モバイル版を表示しています。PC版はこちら
i-mobile

令外官である、追捕使、押領使の相当官位はどのようなものでしょう。時代によって変わるかもしれないですが。
また、頼朝がもらった、総追捕使は、どう考えたらいいでしょう。近衛大将としては高い官位を持っていますが、それより低い官位相当のものを、貰ったということで考えておけばよいですか。

当時は、官位をとても重視すると思いますから、それに似つかわしくない役職については、なんらかのエクスキューズが必要かなぁ、と思った次第です。

●質問者: 匿名質問者
●カテゴリ:芸術・文化・歴史
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 1/1件

▽最新の回答へ

1 ● 匿名回答1号

令外とわざわざ断っている処に注目して下さい。
これは「穢れ」思想が影響しています。
争いごとに関係する官職は当時は穢れたものとしてできるだけ設けようとしなかった。
征夷大将軍にしても朝廷の思想から行けば格下の穢れたものでした。

当時の朝廷は、飛鳥時代の武断的な性格から変質して和の思想を最重視するようになっていました。
治安や武装まで放棄しようとしていた。
戦国時代の無秩序は朝廷が治安や武装を放棄したためにおこったものです。
寺社や荘園や百姓まで自己防御しなければ危ない世界だった。

現在では武士の頭領として歴史上の重要人物と考えられている頼朝ですが、当時の殿上人から見れば格下の穢れた存在だったと言うことです。
官位にしても、武士の統領としての実力を無視できなくて、仕方なくお墨付きを与えたと言えるでしょう。
実力や権限はどうあれ、官位の格としては貴族の最下級の官位よりも更に下だったと思えば、それほど間違いではないでしょう。


匿名質問者さんのコメント
懇切丁寧にご説明を頂き有難うございました、 内大臣や中納言、蔵人頭なども、令外官ですが、征夷大将軍や検非違使や追捕使や押領使とは根本的に違うものなのですね。相当官という考え方と単純にあてはめてはいけないということだと理解いたしました。 治安や武装を放棄するというのは、国家としての責任放棄みたいに思ってしまいますが、それは現代の考え方で、日本の伝統的な考え方は、治安や武装を忌避するものなのですね。このご指摘は大変深いと思いました。どうして、そういう日本になってしまったのだろうと強く不思議を感じます。

匿名回答1号さんのコメント
十七条の憲法に既に和の思想の浸透を見ることができます。 第一条には「和を持って尊しとする」。 それでいながら当時の豪族の集合体として内部の争いが戦争にまで発展していたのは歴史にある通り。 豪族間の争いが一段落して、本来の争いを嫌う思想に回帰したと言えるでしょう。 平安時代の「平安」は当時の世界そのものの意味だったのでしょう。 和の思想は現在の日本人にも受け継がれていて、極端な武力嫌い、争いの回避による権利の遺失など、国家としては損なことばかりしています。 おかげで共産ヤクザの戯言が真面目に受け取られる始末。 地球が狭くなってきた時代に自己防御したくない・・・って、贅沢なことばかり言っているんですけどね。

匿名質問者さんのコメント
どうも有難うございました。 「極端な武力嫌い」ですが、そうかもしれないですね。「訴訟嫌い」「裁判嫌い」も関係あるかもしれないと思いました。もっとも、裁判所の判事の判決を、ごもっともと受け止めるか、どうか別問題ですね。 ちなみに、「共産ヤクザ」とは? どういう集団のことでしょうか。
関連質問

●質問をもっと探す●



0.人力検索はてなトップ
8.このページを友達に紹介
9.このページの先頭へ
対応機種一覧
お問い合わせ
ヘルプ/お知らせ
ログイン
無料ユーザー登録
はてなトップ